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「中華民国空軍」の版間の差分

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2020年8月2日 (日) 21:16時点における版

中華民國空軍
空軍旗
活動期間 1929年
国籍 中華民国の旗 中華民国
軍種 空軍
兵力 35,000 人
上級部隊 中華民国国防部
基地 中華民国の旗 中華民国
台北市中山区北安路387号
標語 忠勇
彩色 藍色
行進曲 空軍軍歌
主な戦歴 北伐
日中戦争
国共内戦
指揮
現司令官 熊厚基
著名な司令官 周至柔
識別
空軍の章
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中華民国(台湾)空軍の国籍標識

中華民国空軍(ちゅうかみんこくくうぐん、:中華民國空軍)は中華民国国防部に属する中華民国台湾)の空軍である。台湾空軍とも呼ばれる。

歴史

創設期

中国に飛行機が持ち込まれたのは、1909年2月21日、上海競馬場にてフランス人ルネ・バロンがソメール複葉機を操縦したことに始まる[1]。1910年10月にはロシア人飛行家アレクサンドル・コセミンスキーが北京の天安門広場でブレリオ XIの飛行を行った。また、1911年3月には広州出身の米国籍中国人馮如が、広州の燕塘にて自作の航空機で飛行。中国籍としては浙江省出身の厲汝燕[2]1911年10月17日に英国にてライセンスを取得した[3]。清国政府もこうした動きを看過できず、新軍気球部隊の創設のほか、劉佐成と李寶浚に南苑に飛行機小試験廠を設置させた[3][4][5]

辛亥革命勃発後、黎元洪率いる湖北軍政府中国語版エトリッヒ・タウベ2機を発注。しかし機体が届いたころには革命は終結しており、南京臨時政府は南京衛戍司令部交通団の管轄下に初の航空隊である飛行営(営長:李寶浚)を組織する。しかし、北洋政府の成立後、飛行営は解体され、タウベは南苑に送られた[3][6]

中華民国建国後、臨時大総統に就任した袁世凱と副大総統の黎元洪は、航空機と潜水艦がこれからの戦力で重要になるとするフランス人軍事顧問パリゾの提案で航空隊の創設に着手、また北京に南苑航空学校を創設した。使用機はコードロン G.3英語版およびG.4コードロンC型英語版などである。

1913年冬に内蒙古で反乱が起こると、南苑航校教官の潘世忠操縦、1期生生徒の呉経文偵察で「托羅蓋」(新疆省綏来県中国語版、現:新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州マナス県北北東のホシフトロカイ(和什事托羅蓋)の事か)にて偵察任務を行う[7]。これが初の実戦投入となる[8]。その後も、1914年春の白朗の反乱、1915年の陳宧の四川派遣、同年末の護国戦争(袁世凱の死により帰還)、1917年7月の張勲復辟で教官や生徒が偵察や爆撃、伝単散布に投入された[7][9]

その後、安直戦争による安徽派の失脚で南苑航空学校の人員は直隷派奉天派に分散。その後、各地で勢力を築いた軍閥は互いに戦闘を繰り広げたが、その中で彼らの航空戦力は偵察や爆撃に重要な役割を果たした。それに伴い、直隷派保定航空学校山西派山西航空学校奉天派東北航空学校山東航空学校、雲南派の雲南航空学校が開校した。

一方、孫文率いる中華革命党は、軍閥を殲滅し中華統一を果たすべく、海外華僑と協力して日本の滋賀県八日市町中華革命党航空学校(1915年)、アメリカに美州航空学校(1916年)や図強飛行機公司(1919年)、カナダに中国強華飛行機学校(1919年)等の飛行学校を創設し、楊仙逸中国語版黄秉衡陳慶雲らパイロットの育成に着手した。また、1916年の護国戦争では中華革命党航空学校卒業生と坂本寿一立花了観ら日本人教官9名を含む87名の人員で中華革命軍東北軍(長:居正)指揮下に「華僑義勇団飛機隊」(管理主任:胡漢堅)を結成、7月より山東省濰県城中国語版に実戦投入した。華僑義勇団飛機隊は梅屋庄吉の出資で購入したカーチス JN-4 ジェニー英語版、J-5、英国製偵察機「剪風号」各1機1隊の3隊で構成され、宣伝ビラを撒くほか、スリーキャッスルの空き缶にダイナマイトを積めて投擲するという原始的な爆撃を行った[10][11]。飛行機がまだ珍しかった当時、これらの北洋軍への心理的影響は大きく、4、5回の爆撃ののち北洋軍より濰県城からの撤退を条件に爆撃をやめるよう申し出を受けた[10]

1917年9月、広東軍政府大元帥として広州に拠点を構えた孫文は、1920年、大元帥府の下に航空局(局長:朱卓文)を成立、海外で訓練を受けたパイロットとマカオで購入した航空機を集め、第1隊(隊長:張恵長中国語版)と第2隊(隊長:陳應權)を編成[12]、「中山航空隊」を称した[13]。翌1921年、孫文は62項目からなる「国防計画」を策定、うち9項目に「航空救国」と題し、航空隊の拡充、航空学校の建設によるパイロットの自主育成や飛行場、修理施設の設置を立案した[14]。本計画に基づき1923年に飛機廠が、1924年には広東航空学校大沙頭飛行場中国語版が設立された。またこの間、莫栄新ら旧桂系の排除(1920年)、陳炯明(1922年6月)、沈鴻英の反乱(1923年4月)で実戦投入され、爆撃、対地機銃掃射、宣伝ビラ投下などを行った[15][16][17]

1926年9月上旬、国民革命軍が直隷派・呉佩孚軍(討賊聯軍)の拠点であった武漢を占領すると、航空局は航空処(代理処長:張靜愚)に改編され、国民革命軍総司令部の隷属となる[18]。一方、武漢を追われた討賊聯軍航空司令部の航空機とパイロットは孫伝芳張宗昌連合軍(直魯連軍)に接収され、南京や上海に展開した。

しかし1927年3月、国民革命軍東路軍が上海を、同年春に国民革命軍江右軍が南京を掌握すると、接収され東路軍航空司令部[† 1][19]と江右軍航空隊[† 2]が編成された。これらの航空隊は南京・武漢国民政府の統合のちしばらくして国民革命軍総司令部航空処に編入され、中央集権化がすすめられた。一方、帰順を拒んだ一部のパイロットたちは張作霖軍に身を寄せた。

拡充期

1928年10月、全国の軍政は統一され、国民革命軍総司令部航空処は軍政部航空署に改編された[21]。飛機隊2個と水面飛機隊1個を保有していたが、後に航空隊に改称され、5個隊に拡充された[21]。しかし国民政府による統治はまだ不安定で、東北空軍、広西空軍など一部の有力な軍閥空軍は中央空軍に編入されず勢力を温存していた。中でも中原大戦では西北軍空軍が中央空軍と中国史上初の空中戦を展開するなど、大きな脅威となった[22]。加えて1931年5月に陳済棠広州国民政府(第5次広東政府)を樹立すると張恵長黄光鋭陳慶雲ら中山航空隊以来の古参軍人が離反し同空軍に加わるという痛手を負った。これらの私設空軍は、海外の航空専門家からは「阿片空軍」と呼ばれた[23]

1928年10月、国民政府は空軍兵力の中央人員を養成するため、南京の中央陸軍軍官学校内に航空隊を設立。のち杭州・筧橋に移転し「中央航空学校」を称する。教育はジョン・ジュエット元大佐率いる米国軍事顧問団が担当し、厳格な審査基準で既存パイロットも容赦なくふるいにかけられた。

第一次上海事変では、日本海軍の「加賀」「鳳翔」艦載機と3度の空中戦を展開。最初の空中戦では双方不慣れだったため戦果はなく、2回目はアメリカ人義勇兵のロバート・ショート英語版が加賀航空隊の生田乃木次に撃墜されるが、3回目は石邦藩ほか1名が加賀航空隊の13艦攻2機を撃墜した。当時、戦闘機はV-65Cコルセア英語版ボーイング218、爆撃機はユンカース W33英語版ユンカース K47英語版等を使用していた。

戦後の1932年春には8個隊にまで拡大するが、同年8月に4個に縮小[21]。1933年、轟炸、駆逐、偵察の3隊が増設され、同時に航空教導総隊が編成された[21]

1933年、満州事変で拠点を追われた旧東北航空の人員や器材を接収[24]。1933年2月、航空署の全職員は空軍階級に変更[25]。空軍階級は、例えば中校→空軍上尉、中将→空軍上校というように本来より2階級低く設定されたが、待遇自体は元の階級と変わらなかった。また航空部隊は整備され、飛行人員の一部は中央航空学校高級班で再教育を受け、一部の非軍事学校出身者は中央陸軍軍官学校で軍事訓練を受けた後、中央航空学校に送られた[26]

1933年、カーチス・ホークⅡ、ローニング水陸両用機、アブロ621練習機英語版を購入するも、福州で揚陸されていたところで福建事変が起こり、19路軍に鹵獲され広東空軍の手に渡った[27]。これらの航空機は中央空軍の空爆の際破壊されたが、多くは無傷のまま鹵獲されており、あらかじめ広東空軍の人員が中央軍に買収されていた可能性もある[28]。翌年12月1日には陳銘枢ら中華共和国残党が中国共産党と合同で福建区第一次人民大会を開催したため、群衆に爆弾を投下した。また同時期、江西省の剿共作戦にも投入され、長征の列への偵察・空爆に活用された。朱徳の左腕に負傷を負わせたものの[29]、決定的な損害を与えるには至らなかった。

1934年5月、航空署は航空委員会に改編され、軍政部から独立して軍事委員会直属となった[30]蒋介石が委員長、弁公庁主任に陳慶雲(のち周至柔)が就任し、その下に5処17科の部署が設けられた[31]。航空隊は8個に拡大した[21]。第1隊(隊長:邢剷非)と第2隊(隊長:王勳)は轟炸(爆撃)隊であり、第3隊(隊長:張有谷)、第4隊(隊長:劉義曾)、第5隊(隊長:楊亜峰)の3隊は偵察兼轟炸隊、第6隊(隊長:王伯嶽)は偵察隊、第7隊(隊長:王天祥中国語版)と第8隊(隊長:高志航)は駆逐(戦闘)隊であった[31]。また同時期、ジュエットの米軍事顧問団に代わってシルヴィオ・スカロニ英語版少将、ロベルト・ローディ英語版准将ら150名からなるイタリア軍事顧問団を招聘し、イタリア式教練をベースとする洛陽分校を1936年に開校した。

1935年、第9から第14隊が編成され、それに伴い各地の飛行場が急務となった。日本軍の調査では、開戦直前の主要飛行場数は華北37、華中49、華南22、奥地32となっている[32]。各飛行場は規模や用途、戦略ごとに区分けされており、平時に航空隊が駐留する主要都市の「第三線飛行場」、有事に爆撃機隊が出撃拠点や戦闘機隊が待機地として展開する「第二線飛行場」、そして最前線の「第一線飛行場」に区分されていた[† 3]。第三線飛行場に該当する南京の大校場機場中国語版、南昌の青雲譜飛行場中国語版、漢口の王家墩飛行場、杭州の筧橋飛行場、西安の西関飛行場中国語版(1937年より[34])、広州の天河飛行場(1936年より)、漢中などの大型飛行場は1935年6月以降、空軍総站に指定され、航空隊の補給や修理などのバックアップ以外にも近郊の第二線、第一線飛行場の管理運営を任されるようになる[21]。站長は主に軍閥出身の元パイロットが任ぜられ、下は少尉から始まり[35]、総站クラスとなると少校~中校クラスがなった。第二線飛行場は信陽、玉山など、第一線飛行場は洛陽金谷園飛行場、周家口飛行場などが挙げられる。

1934年8月、筧橋飛行場近隣に中央杭州飛機製造廠を、南昌の青雲譜飛行場近隣に中央南昌飛機制造廠を設立[36]。イタリア軍事顧問団の技術者を招聘し、指導が行われた。

また、北伐直後より国民政府は防空体制の在り方も模索しており、1932年に高射砲を輸入し高射炮班を設立。1934年1月1日に高射砲隊と人民防空研究班を合併させ筧橋に中央防空学校を設立(1935年12月に南京光華門付近に移転)[37][38]、同卒業生で年内には高射砲部隊を大隊規模にまで拡充した[39]。1934年11月12日、南京で首都防空演習が実施されると、防空網の拡充や民間団体による防護団の組織が求められる[37]。浙江省では保安司令部会と中央航校により防空監視哨の設置が行われ[38]、また1936年春に中央防空学校にて防護団が組織、同年秋には「各地防護団組織規則」が制定された[37]。1935年9月よりアメリカやイギリスなどの投資のもと、南京や上海に無電台を設置するなど防空網の整備に取り掛かり[32]、その設置運営は陳一白藍衣社系人員が中心となって行われた[40]。また、中央航校では崔滄石らにより陸軍との連携作戦のため陸空連絡専門員の育成がなされた。同年11月には京杭三市合同防空演習を実施、これをきっかけとして杭州防空司令部が設立される。日中戦争勃発前後、各省にも防空司令部や省会防護団の設置が行われた[39]。勃発時点では浙江省だけで防空監視哨78箇所[38]、省会防護団は8個区団の下に32個分団[38]、また高射砲部隊は陸軍砲兵第41団、第42団の2個団を保有していた[39]。このため、日本軍からは航空作戦基盤は比較的整備されていたものと見られた[32]

1936年5月に発生した両広事変中国語版の折、藍衣社やCC団により西南派・新広西派の所有する広東、広西空軍に買収工作が行われ[41]、両空軍のパイロットが中央空軍に多く帰順した。また、同時期に雲南や山西航空処、四川など各地に残存していた旧軍閥の私設航空隊を接収、海軍の福建及び青島海軍航空隊をも吸収[42]したことで、中央空軍の航空戦力は1937年までに8個大隊にまで拡大した。また、航空機も刷新が図られたが、購買を担当した財政部内部の派閥闘争や前述の軍閥の急速な吸収で機種の方向性を統一できず、それぞれ軍事顧問団を招聘したアメリカ合衆国カーチス・ホークⅢ英語版(新ホーク)、カーチス・シュライクB-10P-26やイタリアのブレダ Ba.27英語版フィアット CR.32のほか、ドイツのハインケル He111Ju 52など様々で、合計314機であった[39]

開戦直前の1937年当時の編成および各隊の使用機は以下の通り[43][44][45][46][47]

1937年時点の中国空軍編成
大隊 隊長 副隊長 任務 中隊 隊長 副隊長 機種 機数 駐屯地
第1大隊 曹文炳 孫仲華 爆撃 第1中隊 李賜禎 田相国 ノースロップ・ガンマ2EC英語版 9 南昌
フリート モデル7英語版[48] 1
第2中隊 徐康良中国語版 粛起鵬 ノースロップ ガンマ2EC 9
第2大隊 張廷孟 孫桐崗 爆撃 第9中隊 謝郁青(代) 全正喜[49] ノースロップ ガンマ2EC 9 広徳
第11中隊 龔穎澄 汪雨亭 ノースロップ ガンマ2EC 9
第14中隊 黄正裕 藍乗権 ノースロップ ガンマ2EC 9
第3大隊 蒋其炎 王天祥中国語版 戦闘 第7中隊 郝鴻藻 陳有維 カーチス・ホークⅢ英語版 9 句容
第8中隊 王天祥中国語版 梁亦権 ブレダ Ba.27英語版 2
フィアット CR.32 3
第17中隊 黄泮揚 金彬偉 ボーイング モデル281 10
第4大隊 高志航 鄧伯堅[50] 戦闘 第21中隊 李桂丹 劉志漢 カーチス・ホークⅢ 10 周家口
第22中隊 黄光漢 頼名湯中国語版 カーチス・ホークⅢ 9
第23中隊 毛瀛初中国語版 李克元 カーチス・ホークⅢ 9
フォッケウルフ Fw 44 1
第5大隊 丁紀徐 馬庭槐 戦闘 第24中隊 劉粋剛 梁鴻雲 カーチス・ホークⅢ 10 楊州
第25中隊 胡庄如 董明徳 カーチス・ホークⅢ 9
第28中隊 陳其光 陳瑞鈿 カーチス・ホークⅡ 9
フォッケウルフ Fw 44 1
第6大隊 陳棲霞 李懐民 偵察 第3中隊 孫省三 彭亜秀 ダグラス O-2MC英語版 9 杭州
第4中隊 譚以徳 ダグラス O-2MC 9 南京
デ・ハビランド DH.60 2 杭州
第5中隊 蕭五韶 ダグラス O-2MC 9
第15中隊 黄志剛 余平恩 フィアット CR.32 9 南京
カプロニ Ca.111英語版 7
第7大隊 譚寿 楊亜峰 偵察 第6中隊 金雯 范伯超 チャンス・ヴォートO3U-2英語版 9 西安
第12中隊 安家駒 沈延世 チャンス・ヴォートO3U-2 9
第16中隊 楊鴻鼎[51] 王平 チャンス・ヴォートO3U-2 9
第8大隊 謝莽 爆撃 第10中隊 張之珍 韓錫倫 ダグラス O-2MC 6 南昌
サヴォイア・マルケッティ S.72英語版 6
第19中隊 黄普倫 ハインケル He111 6
第30中隊 石友信 李忠儂 マーチン 139W 6
第9大隊 劉超然 張仲華 攻撃 第26中隊 王漢勲 唐元良 カーチス・A-12 シュライク 10 広徳
第27中隊 孟広倍 張旭夫 カーチスA-12シュライク 10
独立中隊 偵察 第13中隊 李逸儕 李英茂 Bre.273[52] 8 徐州
偵察 第18中隊 楊一白 ダグラス O-2MC 9 広州
チャンス・ヴォートO3U-2 6
偵察 第20中隊 敖源清 容章炳 チャンス・ヴォートO3U-2 9 漢口
戦闘 第29中隊 何經渭 鄧伯強 カーチス・ホークⅢ 9 広州
カーチス・ホークⅡ 3
偵察 第31中隊 鄧顕綱 陳晉 ダグラス O-2MC 9 西安
戦闘 第32中隊 張伯寿 韋一青 九一式戦闘機 9 南寧
爆撃 第34中隊 鄧堤 ウェストランド ワピチ英語版 9 桂林
暫編大隊 陳有雄 連絡 第32中隊 ? 徐卓元[53] ダグラス O-2MC 25 嘉興
戦闘 第34中隊 周庭芳 カーチス・ホークⅡ
偵察 第35中隊 許思廉 チャンス・ヴォートO3U-2

日中戦争

開戦初期(1937~1938)

日中戦争支那事変/抗日戦争)勃発後の1937年8月14日、高志航率いる第4大隊の新ホークが杭州への渡洋爆撃を行った九六式陸攻を迎撃し、うち3機を撃墜(八一四空戦中国語版)。この出来事は戦後「空軍節」として長らく記憶されることとなる。戦闘機隊はその後も度々陸攻に痛手を負わせ、特に日本海軍内部でも巻き起こっていた戦闘機無用論を大きく改めさせることとなった。また、1938年5月19日には徐煥昇中国語版率いる第14大隊のB-10が九州に飛来し、鹿地亘の作成した反戦ビラを散布した。しかし、これらの航空機の供給源となっていた米国は日本との対外関係悪化を危惧。同じくイタリアも3月までに軍事顧問団を撤収させ、中国は閉そく状態となっていた。そんな中、中ソ不可侵条約によりSBI-15I-16などのソ連機が大量供給され、南京・武漢空中戦などで戦果を挙げた。

また、スペイン内戦経験者も多く構成されたソ連空軍志願隊が派遣され、中国空軍戦闘機隊との共同作戦の他、台湾・松山飛行場への爆撃に成功している。この他の外国人義勇部隊として、スペイン内戦経験者のヴィンセント・シュミットを隊長とする国際第14大隊が編成され(使用機はヴァルティV-11ノースロップ YA-13英語版)、1937年5月に顧問となった元米陸軍パイロットのクレア・リー・シェンノートの指揮下に置かれた[54]ほか、フランスからの義勇兵で編成された第41中隊(使用機はD.510)があるが、いずれも特にめぼしい戦果を挙げられず消滅、機体は中国空軍に接収された。

この他、アメリカ製のカーチスホーク75M、イギリス製のグロスター グラディエーターを一部の部隊が使用している。

暗黒時代(1939~1940)

しかしこの間、南京、武漢、杭州、南昌、広州といった沿岸部が陥落。また、高志航、劉粋剛李桂丹楽以琴など初期に活躍したエースも次々と命を落としていった。中国空軍は国民政府とともに奥地に逃れ、梁山飛行場中国語版重慶白市駅飛行場中国語版懐化芷江飛行場中国語版などを拠点とし防御に努めたが、次第に物量的に圧倒されることとなる。加えて、零式艦上戦闘機の登場とソ連の支援終結は中国空軍に大打撃を加えた。同時期に行われた重慶爆撃など奥地への空爆に対しては奥田喜久司大佐乗機の撃墜など多少の戦果はあったものの、「積極防空」を果たすほどの力はなかった。消耗した中国空軍は日本軍の戦闘機との戦闘を避けざるを得なくなり、この時期は中国空軍の「避戦時期」[55]「暗黒時代」[56]と呼称される。

この間、1939年夏に戦闘機としてカーチス・ライト CW-21、輸送機としてビーチクラフト D17Rデ・ハビランド DH.89を少数導入している[57]

米国の参戦(1941~1945)

こうした状況を打開するべく、シェンノートは米本国に戦闘支援の交渉に赴く。米国政府は対独戦重視の観点から最初は中国支援に冷淡であったが、最終的にルーズベルト大統領が動き、支持獲得に漕ぎ付けた[58]。1941年3月レンドリース法成立後にアメリカから供与されたP-40日本陸海軍に挑んだ。また、シェンノートの手で同年8月に米陸軍航空隊出身者で義勇軍部隊「フライング・タイガース」が創設され、戦力を補った。

真珠湾攻撃後、アメリカは中国への支援に本格的に乗り出した。フライング・タイガースに代わり、正規軍として第10航空隊第23戦闘機大隊(中華特遣隊)、中国航空機動部隊(CATF)が設立される。1943年3月には、蒋介石とシェンノートの要求で昆明第14航空隊が設立。更に11月には中国空軍と第14航空隊との合同組織として中美混合空軍団英語版(CACW)が創設された[59][60]。中国空軍は、新飛行士の育成や米国留学による再訓練で実力を回復させ、日本軍施設の空爆や連合軍の対地支援に大きな役割を果たした。

また、末期には、成都はB-29による日本本土爆撃の拠点となった。

第二次世界大戦後

第2次世界大戦終結後はアメリカから供与されたP-38P-51を運用し、共産党を相手に内戦を戦い(国共内戦)。当時、人民解放軍はまだ航空戦力が乏しかったため対地攻撃が主で、東北民主連軍航空学校の練習機を破壊したり、共産党に寝返った巡洋艦重慶号を使用不能に追い込むなどの功績を挙げた。たが、政権内の共産主義シンパの影響を受けたハリー・トルーマン大統領が中華民国軍への支援縮小を決定したために支援が減少し、ソ連に支援された共産党の人海戦術に圧倒されて敗北。中華民国政府とともに台湾へ移動する。また、蒋経国が蒋介石の度重なる催促を受け、1949年1月に突貫工事で完成させた舟山群島の定海飛行場を拠点として、上海付近からの湯恩伯系部隊の撤退を支援した[61][62][63]

3軍の中では遷台を早期に完了させたため、陸海軍のような部隊単位での反乱は起こらなかったが、パイロットが飛行機に乗って共産党に寝返る事件が戦後~1949年までの間に27件起こった(中華民国国軍と人民解放軍間の空軍機脱走事件中国語版)。1950年以降、上海の発電施設等に空爆を行ったが、民間人も多く犠牲になったとされる(上海空戦中国語版)。

1960年代までは「大陸反攻」を前提とした編制を行ってきた。しかし、本格的な上陸侵攻能力に乏しい海軍が悩みの種であり、そのため空軍はより守勢な形での防空を主任務とせざるを得なかった。その後、U-2撃墜事件アメリカ空軍U-2が本国帰還を余儀なくされる一方で、供与されたU-2を運用して中国本土を偵察する黒猫中隊が編成され、1970年代には超音速戦闘機であるF-104がアメリカより供与されるなど、空軍として充実した体制を整えた。しかし、1972年の米中国交樹立・国府の国連議席喪失などもあり台湾は国際的孤立を深め、そのため装備面では旧式の航空機を闇市場で武器商人から通常の3~4倍もの高価格で調達せねばならないといった苦境も味わった。1990年代以降、最新鋭のAMRAAM空対空ミサイルを装備するF-16や、E-2が供与されるなど、ある程度の近代化も図られたほか、F-CK-1の開発により戦闘機の国産化を実現した。

現状

現在の中華民国空軍では、アメリカ製やフランス製をはじめ規格の異なる多種類の機体を運用することによるコストの増大や整備の煩雑さ、また人手不足が稼働率を脅かす課題となっている。大量の第4世代ジェット戦闘機に加え、近未来の戦闘機といわれる第5世代ジェット戦闘機の開発を敢行して急速な近代化を進める中国人民解放軍空軍への対策も急務である。日本政府の発表した防衛白書によれば、諸外国が有する空軍力の指標である第4世代ジェット戦闘機の数では、台湾は2006年前後に人民解放軍に追いつかれ、2008年前後には追い抜かれており、2013年現在では少なくとも300機の格差をつけられている。

質量ともに拡大しつつある格差への対策として、中華民国空軍は2011年から向こう10年前後の時間をかけて人民解放軍に対する対抗措置を実施することとなった。具体的には、空軍のレーダーサイト1か所において弾道ミサイル早期警戒システム(アメリカ製フェーズドアレイレーダー)を1基導入し、2012年に導入された直後には、同年12月に北朝鮮がフィリピン東方沖の太平洋に向けて発射した「飛翔体」が1段目と2段目のブースターを分離しながら飛んだ様子をレーダーで確認した。また、F-16が装備するAMRAAMミサイルの能力を最大限に発揮するための機材として、AESA電子戦関連機器をアメリカから輸入すると共に、66機のF-16C/Dを輸入する。空軍の地対空ミサイル部隊への指揮命令系統の改善を通じて、空軍力の向上も図られる。

組織

空軍の作戦、戦力維持の責任は、空軍総司令部にあり、下位の司令部全てに、監督権を持つ。傘下の司令部には政治作戦部、作戦司令部、防空砲兵司令部、訓練司令部、後勤司令部等がある。2008年現在、45,000人が所属。主に防空任務を担当する。主な作戦単位は、以下に書す。

  • 6個戦術航空団(台湾軍での名称:戦術戦闘機聯隊)
  • 1個輸送対潜航空団(上記と同じ:運兵反潜混合聯隊)
  • 1個戦術指揮団
  • 1個通信管制団
  • 1個気象団
  • 1個防空歩兵団

台湾空軍では、1航空団は3個飛行群(台湾軍での名称:大隊)、3個飛行群は9個飛行中隊という3個単位で編制される。航空機の定数は1個飛行隊で20機と定められている[64]。3個飛行隊に基地警備、補給、対空部隊を指揮する部隊を統合し、聯隊となるようになっている。

編成

新竹南寮飛行場 - 滑走路3,600m。

  • 第2戦術戦闘航空団
    • 第41中隊 - ミラージュ2000
    • 第42中隊 - ミラージュ2000
    • 第48中隊 - ミラージュ2000(訓練機として使用)

嘉義(水上)飛行場 - 滑走路3,335m。

  • 第4戦術戦闘航空団
    • 第21中隊 - F-16(戦闘攻撃機仕様)
    • 第22中隊 - F-16(戦闘攻撃機仕様)
    • 第23中隊 - F-16(戦闘攻撃機仕様)
    • 救難中隊 - S-70CUH-60M

台中清泉崗基地 - 滑走路3,600m。

  • 第3戦術戦闘航空団
    • 第7中隊 - IDF
    • 第28中隊 - IDF
    • 測試基評価中隊 - IDF

岡山基地 - 滑走路2,350m。主として空軍軍官学校が使用。

  • 基礎教練大隊 - T-34C
  • 戦闘教練大隊 - AT-3(同大隊教官による曲技飛行隊「雷虎特技小組(サンダータイガー)」が編成)
  • 空運教練大隊 - B-1900C

台南基地 - 滑走路3,356m。

  • 第1戦術戦闘航空団
    • 第1中隊 - IDF
    • 第3中隊 - IDF
    • 第9中隊 - IDF

屏東飛行場 - 滑走路2,400m。

  • 第6運輸対潜航空団
    • 第10輸送飛行群
      • 第101中隊 - C-130H
      • 第102中隊 - C-130H
    • 第20電戦飛行群
      • 第2早期警戒中隊 - E-2T
      • 第6電戦中隊 - C-130HE
    • 対潜飛行群
      • 第33中隊 - P-3C
      • 第34中隊 - P-3C

台東(志航)基地

花蓮(佳山)飛行場 - 滑走路2,700m。

  • 第5戦術戦闘航空団
    • 第17中隊 - F-16
    • 第26中隊 - F-16
    • 第27中隊 - F-16
    • 第12偵察中隊 - RF-16、RF-5E

佳山基地

澎湖馬公基地

防空砲兵司令部は、桃園に位置し、4個(北部、中部、南部、東部)警衛指揮部、8個防砲団を管轄している。

脚注

  1. ^ 劉沛泉が司令、陳棲霞が参謀長、張維が副司令兼第1隊隊長、耿煜曾が第2隊隊長、高勤、張書紳、李文祿、石曼牛が副隊長や参謀などに就任し、飛行員は謝雲鶴、崔滄石、張國棟、曹文炳、紀廣漢、李天民、權基玉など十数名が居た
  2. ^ 張慕超が隊長、石邦藩が副隊長、衷凌雲や葉玉琳など十数名が飛行員になった[20]。 
  3. ^ 以上は戦史叢書による日本側の表記であり、中国側の原語表記は「丙等站」「乙等站」「甲等站」であったと思われる。乙等站と丙等站の違いは医療施設の有無[33]

参考・脚注

  1. ^ 中山 2007, pp. 16–18.
  2. ^ 我國第一位飛行員 厲汝燕” (中国語). 中國飛虎研究學會. 2017年12月22日閲覧。
  3. ^ a b c 中山 2007, p. 19.
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  6. ^ 中山 2007, p. 21.
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  64. ^ ただし、パイロット養成に掛かる時間や航空機の価格の高騰などで、航空機の定数は満たせず、実質は1個航空団は1個飛行群となっている

参考文献

関連項目

外部リンク