「黄憲」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 龔姓の各人物記事等の改名に伴うリンク修正依頼 (王龔) - log |
||
8行目: | 8行目: | ||
* 当時、汝南郡の[[戴良]]は才能に優れて傲慢な人物であったが、黄憲に会うときは正装して、帰ってくると茫然自失たるありさまであった。戴良の母が「おまえはまた牛医の子についていったのか」と訊ねると、戴良は「良は叔度に会わなければ、自分がかなわない人間はいないと考えていました。叔度を見ると、前に仰ぎ見ていたかと思うと、突然後ろに現れるので<ref>ここの「瞻之在前,忽焉在後」は、『[[論語]]』子罕篇で顔回が[[孔子]]を評した言葉でもある。</ref>、もとより測りがたいのです」と答えた。 |
* 当時、汝南郡の[[戴良]]は才能に優れて傲慢な人物であったが、黄憲に会うときは正装して、帰ってくると茫然自失たるありさまであった。戴良の母が「おまえはまた牛医の子についていったのか」と訊ねると、戴良は「良は叔度に会わなければ、自分がかなわない人間はいないと考えていました。叔度を見ると、前に仰ぎ見ていたかと思うと、突然後ろに現れるので<ref>ここの「瞻之在前,忽焉在後」は、『[[論語]]』子罕篇で顔回が[[孔子]]を評した言葉でもある。</ref>、もとより測りがたいのです」と答えた。 |
||
* [[陳蕃]]と[[周挙]]はいつもお互いに「しばらくのあいだ黄生に会わずにいると、けちくさい考えが心に芽生えてくる」といっていた。陳蕃が三公になると、朝廷に臨んで「叔度がもしいたら、わたしが先に印綬を帯びることはなかったろうに」と嘆いた。 |
* [[陳蕃]]と[[周挙]]はいつもお互いに「しばらくのあいだ黄生に会わずにいると、けちくさい考えが心に芽生えてくる」といっていた。陳蕃が三公になると、朝廷に臨んで「叔度がもしいたら、わたしが先に印綬を帯びることはなかったろうに」と嘆いた。 |
||
* [[ |
* [[王龔]]が[[太守]]として汝南郡に赴任すると、礼を尽くして賢人たちを招いたので、多くがかれのもとにやってきたが、黄憲を召し出すことはできなかった。 |
||
* [[郭泰]]が若くして汝南に遊んだとき、先に袁閬を訪れると、宿泊せずに帰った。進んで黄憲のもとに行くと、日を重ねてようやく帰った。ある人がこのことを郭泰に訊ねると、郭泰は「奉高(袁閬)の器は、たとえるに泉が溢れているようなもので、清くはあるが汲み取りやすい。叔度の器は千頃の堤防に水があふれているようなものであって、澄んではいるが清くはなく、混じってはいるが濁ってはいない。量ることができないのである」と答えた。 |
* [[郭泰]]が若くして汝南に遊んだとき、先に袁閬を訪れると、宿泊せずに帰った。進んで黄憲のもとに行くと、日を重ねてようやく帰った。ある人がこのことを郭泰に訊ねると、郭泰は「奉高(袁閬)の器は、たとえるに泉が溢れているようなもので、清くはあるが汲み取りやすい。叔度の器は千頃の堤防に水があふれているようなものであって、澄んではいるが清くはなく、混じってはいるが濁ってはいない。量ることができないのである」と答えた。 |
||
2020年8月2日 (日) 21:20時点における版
黄憲(こう けん、生没年不詳)は、後漢の名士。字は叔度。本貫は汝南郡慎陽県。
経歴
牛医者の子として生まれた。孝廉に察挙され、公府に召し出されて上京したものの、任につかずに帰郷した。48歳で死去すると、当時の人々は「徴君」と呼んだ。
人物・逸話
- 荀淑が慎陽を訪れたとき、14歳の黄憲と会って語り合うと、日が傾いても去りがたく、「あなたはわたしの師表である」といった。荀淑は袁閬に会いに行き、「あなたの国に顔回がいるのをご存じか」と訊ねると、袁閬は「わが叔度(黄憲)に会ったのか」と答えた。
- 当時、汝南郡の戴良は才能に優れて傲慢な人物であったが、黄憲に会うときは正装して、帰ってくると茫然自失たるありさまであった。戴良の母が「おまえはまた牛医の子についていったのか」と訊ねると、戴良は「良は叔度に会わなければ、自分がかなわない人間はいないと考えていました。叔度を見ると、前に仰ぎ見ていたかと思うと、突然後ろに現れるので[1]、もとより測りがたいのです」と答えた。
- 陳蕃と周挙はいつもお互いに「しばらくのあいだ黄生に会わずにいると、けちくさい考えが心に芽生えてくる」といっていた。陳蕃が三公になると、朝廷に臨んで「叔度がもしいたら、わたしが先に印綬を帯びることはなかったろうに」と嘆いた。
- 王龔が太守として汝南郡に赴任すると、礼を尽くして賢人たちを招いたので、多くがかれのもとにやってきたが、黄憲を召し出すことはできなかった。
- 郭泰が若くして汝南に遊んだとき、先に袁閬を訪れると、宿泊せずに帰った。進んで黄憲のもとに行くと、日を重ねてようやく帰った。ある人がこのことを郭泰に訊ねると、郭泰は「奉高(袁閬)の器は、たとえるに泉が溢れているようなもので、清くはあるが汲み取りやすい。叔度の器は千頃の堤防に水があふれているようなものであって、澄んではいるが清くはなく、混じってはいるが濁ってはいない。量ることができないのである」と答えた。
脚注
伝記資料
- 『後漢書』巻53 列伝第43