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'''劉 盛'''(りゅう せい、? - [[310年]])は、[[中国]][[五胡十六国時代]]の漢(後の[[前趙]])の[[皇族]]。[[匈奴]][[南匈奴#十九種族|屠各種]][[攣鞮氏|攣鞮部]]の出身。 |
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2020年8月2日 (日) 21:26時点における版
劉 盛(りゅう せい、? - 310年)は、中国五胡十六国時代の漢(後の前趙)の皇族。匈奴屠各種攣鞮部の出身。
生涯
若い頃は読書を好まなかったが、『孝経』と『論語』の2つだけは熟読した。そしてしばしば「この2つだけ理解しておけば十分だ。乱読しても実践に使えなければ意味はない」と豪語し、李憙という人物より「読んで理解するだけなら容易いことだが、それをもって自らを戒めることができるのは素晴らしい。まさしく、君子と言うべき人物だ」と感嘆された。
304年、劉淵が挙兵して漢王朝を樹立すると、これに付き従って事業に参画した。劉盛は忠義に篤い人物であったので、劉淵より大いに信任され、やがて安昌王に封じられた。
310年7月、劉淵が重病に倒れると、劉盛は安邑王劉欽・西陽王劉璿と共に領武衛将軍に任じられ、禁兵(宮中の近衛兵)の統率という重任を委ねられた。
劉淵の死後は長子である劉和が後を継いだが、彼は呼延攸・劉乗・劉鋭らと結託し、楚王劉聡を始めとした弟たちを排除することを画策した。劉淵崩御から2日後、劉盛は劉和により召し出されると、謀略に参画するよう命じられた。だが、劉盛は上奏して「先帝の棺がまだ埋葬されておらず、四王は反逆の意思を持っていないにも関わらず、味方同士で殺し合わせるようなことをすれば、天下の人は陛下の事を何と言うでしょう。未だ大業は為されておらぬのに、このような小人の讒言を真に受け、兄弟同士で争うようなことはおやめ下さい。一族の諸弟を信じずに、いったい他に誰を信じるというのです」と述べ、劉和を固く諫めた。だが、劉鋭・呼延攸は怒って「今日の議論に、他の道理を話すことなどない。陛下の命令通りに軍を率いればよかったものを」と言い放つと、劉盛は彼らの側近により斬り殺れてしまった。