「松本家」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
|||
14行目: | 14行目: | ||
== 初代松本善甫は握り鮨の創始者か == |
== 初代松本善甫は握り鮨の創始者か == |
||
伝えられるところでは、善甫は[[会津天満宮]]の祠官であったが故あって人を斬り、故郷を出奔したものという。一旦、上方に逃れたのち[[延宝]]年間(1672年 - 1681年)江戸お玉が池に住み、従来の[[押し鮨]]とは異なる、今日ふうの[[握り鮨]]を創始したという(以上、[[ |
伝えられるところでは、善甫は[[会津天満宮]]の祠官であったが故あって人を斬り、故郷を出奔したものという。一旦、上方に逃れたのち[[延宝]]年間(1672年 - 1681年)江戸お玉が池に住み、従来の[[押し鮨]]とは異なる、今日ふうの[[握り鮨]]を創始したという(以上、[[狩谷棭斎]]が祖母から聞いた話)。 |
||
延宝年間であれば、幕府医師に任官する以前の出来事である。 |
延宝年間であれば、幕府医師に任官する以前の出来事である。 |
2020年8月2日 (日) 21:55時点における版
松本家(まつもとけ)は、元禄5年(1692年)以来江戸幕府に仕えた医家の家系。宇多源氏を称す。家紋は波の丸ほか。本国は陸奥(会津)。善甫という名乗りを世襲した。家禄は200俵10人扶持。口科(歯科)を業とする。
天明6年(1786年)に一旦絶家となるが、弘化3年(1846年)に再興する。のち松本良順の功績により男爵家となる。
歴代
- 初代善甫・興正(? - 元禄8年(1695年)、円桂院) - 元禄5年(1692年)幕府召出、元禄6年(1693年)奥医師
- 2代善甫・尚興(寛文4年(1664年) - 延享2年(1745年)、諦了院) - 元禄13年(1700年)奥医師
- 3代善甫・興信(貞享元年(1684年) - 明和2年(1765年)、脩心院) - 享保20年(1735年)西丸奥医師
- 4代善甫・興長(享保15年(1730年) - 天明4年(1784年)、観月院) - 明和2年(1765年)奥医師
- 5代善甫・興世(宝暦12年(1762年) - 寛政7年(1795年)、松寿院) - 天明4(1784年)奥医師、天明6年(1786年)改易
- 6代良甫・善賢(? - 文政9年(1826年)、覚性院) - 生涯町医師
- 7代良甫・戴(文化3年(1806年) - 明治10年(1877年)) - 弘化3年(1846年)再召出、文久3年(1863年)奥医師。松本良順の養父。
初代松本善甫は握り鮨の創始者か
伝えられるところでは、善甫は会津天満宮の祠官であったが故あって人を斬り、故郷を出奔したものという。一旦、上方に逃れたのち延宝年間(1672年 - 1681年)江戸お玉が池に住み、従来の押し鮨とは異なる、今日ふうの握り鮨を創始したという(以上、狩谷棭斎が祖母から聞いた話)。
延宝年間であれば、幕府医師に任官する以前の出来事である。