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2020年8月2日 (日) 22:01時点における版
松崎 一(まつざき はじめ、1917年4月30日 - 2011年2月16日[1])は、日本の物理学者。旧制松本高等学校、信州大学で長く教鞭を執り、後には松商学園短期大学学長を務めた。
生涯
1917年、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市の一部)に生まれた。実家はメリヤス製造業を営んでいた[2]。旧制屋代中学校[3]、旧制松本高等学校理科甲類を経て[4]、1938年に東京帝国大学理学部物理学科に学んだ[5]。
1942年、松崎の卒業と入れ替わりに松本高等学校校長となっていた桑木彧雄(物理学者・科学史家)に招かれ、松崎は母校に教員として戻ることになる。同時期に、召集され金沢へ赴くが、健康状態を理由に即日帰郷となり、松高に着任した[6]。
松高では、物理の教鞭を執り、また、自宅に押し掛ける学生を相手に個人教授にあたるなどした[6]。松高で学生のひとりであった北杜夫のエッセー『どくとるマンボウ青春記』には、松崎が実名で言及されており、物理の試験の答案に詩を書き綴ったところ合格点に1点足りない点数が付けられたことや、宿直として寮にやって来た松崎から、試験の出題範囲を聞き出そうとしたエピソードなどが記されている[7][8]。
1949年、新制大学として発足した信州大学文理学部の所属となり[9]、1966年からは新たに発足した教養部で教鞭を執った。信州大学では図書館長、教養部長を務めた[10]。1983年、信州大学を定年退職して松商学園短期大学学長となり[11]、1993年までその職にあった[12]。
晩年は、旧制高等学校記念館にしばしば通い、ボランティアでガイドをしていた[12]。勲三等旭日中綬章。
出典・脚注
- ^ “訃報”. 信州大学物理同窓会. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、1 大所帯で育つ”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、2 屋代中学へ進学”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、3 旧制松高時代”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、4 東大合格し上京”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ a b 松崎一、佐藤文子. “私の半生、6 松高教師に就任”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 『北杜夫全集 第十三巻』(新潮社)所収「どくとるマンボウ青春記」 (pp.5-170)では、宿直のエピソード (pp.63-64)の最後に松崎の名が記されている。そこでは、それ以前の文中で紹介されていた物理の試験をめぐるエピソード (pp.52-53)の教授が、松崎であることも言及されている。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、8 北 杜夫 打てば響く 滅法楽しい学生”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、9 信大発足 行き違いあり 学長空席のまま”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、10 60年安保 渋滞に-後味悪いデモ行進”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ 松崎一、佐藤文子. “私の半生、11 松商短大へ赴任 信大退官 新たな教育の場へ”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
- ^ a b 松崎一、佐藤文子. “私の半生、12 学長を勇退 時間に縛られない 夢を実現”. 信濃毎日新聞松本専売所. 2011年5月18日閲覧。
関連項目
- 玉井袈裟男 - 信州大学教養部〜松商学園短期大学と、長く同僚であった農学者、社会教育指導者
学職 | ||
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先代 清水正男 |
松商学園短期大学学長 第7代:1983年 - 1993年 |
次代 赤羽賢司 |