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幕府の寺社政策を担った[[以心崇伝]]、[[天海]]、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた[[鈴木正三]]、独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、臨済宗中興の祖と称される[[白隠]]らが活躍した。 |
幕府の寺社政策を担った[[以心崇伝]]、[[天海]]、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた[[鈴木正三]]、独力で[[大蔵経]]を刊行した[[鉄眼道光]]、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した[[慈雲]]、臨済宗中興の祖と称される[[白隠]]らが活躍した。 |
2020年8月2日 (日) 22:03時点における版
日本の仏教(にほんのぶっきょう)は、5世紀に罽賓国よりもたらされたとする説や、西暦538年(日本書紀では552年)に百済よりもたらされたとする説などがあるが、宗派により伝来時期や伝来元の地域が異なる。約8470万人が仏教徒であるとされる(2013年統計)[1]。現代では、仏教と神道は区別されることが多いが、幕末までは仏と神を一体で不可分とする神仏習合の時代であった。
伝統的な仏教の宗派としては、華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗の13宗がある。
文化庁の宗教年鑑の統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属している[2]。浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めており、大乗仏教が特に多いと言える。
特徴と信者数
日本には、約7万5000の寺院、30万体以上の仏像が存在する。日本最古の官寺である四天王寺、世界最古の木造寺院である法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本に存在する。
日本は2013年の統計では約8470万人が仏教徒であるとされる[1] 。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っておらず、自らを仏教徒と強く意識する機会が少ない人も多いが、ブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている[3][注釈 1]。
系譜・宗派
日本の仏教には数多くの様々な宗派が存在する。十八宗と呼ばれる18の宗派は、三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗である。
1940年の宗教団体法公布以前にはいわゆる13宗56派が公認されていた。13宗とは華厳宗、法相宗、律宗、真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、時宗、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗である。同法公布後、これら13宗56派は28宗派に再編され、第二次大戦後はさらに分派独立したものが多いが、伝統仏教の13宗の系譜はいずれも現代に引き継がれている。
ここではいわゆる伝統仏教13宗の宗祖と本山を記載する。それ以外の宗や派、比較的近年に成立した仏教系の新宗教については、それぞれの項を参照。
奈良仏教系(南都六宗系)
- 真言宗(東密) 開祖は空海(弘法大師)、本山は東寺(東寺真言宗)、高野山金剛峯寺、醍醐寺(醍醐派)、智積院(智山派)、長谷寺(豊山派)、根来寺(新義真言宗)ほか
- 天台宗(台密) 法華円宗とも 開祖は最澄(伝教大師)、本山は比叡山延暦寺
浄土系(鎌倉仏教浄土系)
- 浄土宗 開祖は法然(源空・円光大師・黒谷上人・吉水上人とも)、浄土宗(鎮西流)総本山は知恩院。法然の弟子証空の門流は西山三派といわれ、本山は光明寺(西山浄土宗)、禅林寺(西山禅林寺派)、誓願寺(西山深草派)。
- 浄土真宗 真宗・一向宗とも 開祖は親鸞、本山は本願寺(浄土真宗本願寺派・西本願寺)・真宗本廟(真宗大谷派・東本願寺)ほか。
- 融通念仏宗 大念仏宗とも(平安仏教系との考えも)開祖は良忍(聖応大師)、本山は大念仏寺
- 時宗 開祖は一遍(法諱は智真、証誠大師・円照大師とも)、本山は清浄光寺(遊行寺)
- 曹洞宗 開祖は道元(承陽大師)、本山は永平寺・總持寺
- 臨済宗 (日本における)開祖は栄西(千光国師)ら、本山は建仁寺・円覚寺・妙心寺・東福寺ほか
- 黄檗宗 旧臨済宗黄檗派 開祖は隠元(真空大師・華光大師)、本山は黄檗山萬福寺
歴史
飛鳥時代
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。歴史の教科書にはこちらの年号が載っている。この他には『梁書』によると、扶桑では大明2年(458年)に罽賓国から僧が来て仏教をもたらしたとされるが、扶桑が日本を指しているとは確定していない。
仏教が伝来した際に、次のような騒ぎが起こったと『日本書紀』に書かれている。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に問うた時、物部尾輿と中臣鎌子ら(神道勢力)は仏教に反対した。一方、蘇我稲目は、西の国々はみんな仏教を信じている。日本もどうして信じないでおれようか(「西蕃諸國一皆禮之,豐秋日本豈獨背也」)として、仏教に帰依したいと言ったので、天皇は稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ(「昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福」)として、寺を焼き仏像を難波の堀江に捨てた。
その後、仏教の可否を巡る争いは物部尾輿・蘇我稲目の子供達(物部守屋と蘇我馬子)の代にまで持ち越され、用明天皇の後継者を巡る争いで物部守屋が滅亡されるまで続いた。この戦いでは聖徳太子が馬子側に参戦していた。聖徳太子は四天王に願をかけて戦に勝てるように祈り、その通りになった事から摂津国に四天王寺(大阪市天王寺区)を建立した。馬子も諸天王・大神王たちに願をかけ、戦勝の暁には、諸天王・大神王のために寺塔を建てて三宝を広めることを誓った。このため、馬子は法興寺(別名飛鳥寺、奈良に移ってからは元興寺)を建立した。聖徳太子は『法華経』・『維摩経』・『勝鬘経』の三つの経の解説書(『三経義疏』)を書き、『十七条憲法』の第二条に、「篤(あつく)く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」(「篤敬三寶 三寶者 佛 法 僧也」)と書くなど、仏教の導入に積極的な役割を果たした。この後、仏教は国家鎮護の道具となり、皇室自ら寺を建てるようになった。
天武天皇は大官大寺(後の大安寺)を建て、持統天皇は薬師寺を建てた。このような動きは聖武天皇の時に頂点に達した。
奈良時代
中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入された。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では鎮護国家の発想の下、僧尼令や僧綱・度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言える(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれている。
こうした南都六宗と呼ばれた、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、律宗、華厳宗などが大勢を極めた。また、聖武天皇は位を孝謙天皇に譲り、出家した。聖武は妻の光明皇后の影響から信仰に厚く、国分寺、国分尼寺の建造を命じ、大和の国分寺である東大寺に大仏を建造した。出家した聖武上皇は「三宝の奴」とまで称した。仏教が定着するにつれて、実は日本の神々も仏が化身として現れた権現であるという考えである本地垂迹説が起こり、様々の神の本地(仏)が定められ、神像が僧侶の形で制作されることがあった。しかし、仏法が盛んになってくると、今度は戒律などを無視する僧などが増えたりしたため、聖武天皇の時代に鑑真が招かれた。鑑真は東大寺に戒壇を設け、僧侶に戒を授けた。聖武天皇も鑑真から戒を授かった。鑑真は唐招提寺を建立し、そこに住んだ。
平安時代
その後これら寺院群は政治に口を出すようになった。桓武天皇は、彼らの影響力を弱めるために平安京に遷都し、空海及び最澄を遣唐使とともに中国に送り出し、密教を学ばせた。新しい仏教をもって、奈良の旧仏教に対抗させようとしたのである。最澄(天台宗)、空海(真言宗)には、それぞれ比叡山と高野山を与えて寺を開かせ、密教を広めさせた。
『末法灯明記』では平安時代中期が釈迦入滅の二千年後にあたるとされ、正法の千年・像法の千年の後、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法の世が始まったと考えられた。末法の世にはどんなに努力しても誰も悟りを得ることができない。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。貴族も阿弥陀仏にすがり、極楽浄土に迎えられることを願って来迎図などを盛んに描かせ、その究極として宇治の地に平等院を建立した。その鳳凰堂の姿形は、正に極楽の阿弥陀仏の宮殿(くうでん)を模したものである。
平安時代末期に入ると社会不安が増大し、広大な所領の持ち主であり裕福であった大寺院は盗賊などに狙われる危険性が高くなった。そこで自力救済として僧侶や信徒が武装したのが僧兵である。だが、次第に僧兵そのものが勢力拡大のための武装集団と化し、対立宗派・寺院への攻撃や朝廷への強訴などの武力行使を行う集団(寺社勢力)として社会の不安要素の1つになっていった。また、寺院内に石垣や堀を巡らせる等の一種の城塞化を進める寺院も現れた。
鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、前時代末期からの動乱で仏教にも変革が起きた。それまでの仏教の主流が「鎮護国家」を標榜した国家や貴族のための儀式や研究に置かれていたものが、次第に民衆の救済のためのものとなっていったのである。主として叡山で学んだ僧侶によって仏教の民衆化が図られ、新しい宗派が作られていった。 これらの宗派では、それまでの宗派と違い、難しい理論や厳しい修行ではなく、在家の信者が生活の合間に実践できるような易しい教え(易行)が説かれている。
特に広まったのは念仏思想であった。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ける(称名念仏)事で救われるとする法然の浄土宗、浄土宗からさらに踏み込んで「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機[注釈 2]の教えを説いた親鸞の浄土真宗(一向宗)、踊りながら念仏を唱える融通念仏や時宗があった。
対して、拡大する念仏を警戒した日蓮は「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われるとする日蓮宗を創設した。
このように鎌倉時代には乱立ともいえるほど新しい宗派が誕生した。これらの宗派は、定着するまで例外なく既存の宗派に弾劾されたが、同時に旧宗派の革新も引き起こした。弾劾の中でも日蓮宗の日蓮は過激なことで知られ、他宗を非難し御題目を唱えなければ国が滅ぶと言い、幕府に強く弾圧された。しかし、民衆に浸透し一般化すると、この弾圧も次第に沈静化していった。
鎌倉時代は、武士が貴族から権力を奪い、力を着々とつけていた時代でもあった。この時代には臨済宗と曹洞宗という二つの禅宗が、相次いで中国からもたらされた。力をつけつつあった武士に好まれた事から、鎌倉などに多くの禅寺が建てられ、大いに栄えた。この代表的なものを「鎌倉五山」という。また、虎関師錬が仏教史書である『元亨釈書』を著した。
更に従来の仏教の間でも現状を批判する動きが高まってきた。特に律宗やそこから派生した真言律宗などでは社会事業などに乗り出しながら民衆の救済に加わるだけではなく、自ら国家の指定した戒壇を拒否して独自の授戒儀式を開始するなど、新しい宗派よりも革新的な動きすら見せた。
南北朝・室町時代
1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。また、尊氏の天龍寺船の派遣に協力した夢窓疎石や弟子の春屋妙葩は政治的にも影響力を持ち、彼らの弟子僧が3代将軍の足利義満時代に中国の明朝と日明貿易(勘合貿易)を開始する際には外交顧問にもなる。
このような武家と仏教界の接近は貴族文化及び武士文化に影響を及ぼし、義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化や足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合の跡を見ることができる。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。また、寺院の中には安定した収入を確保するために、所領からの収入や祠堂銭(供養料)などを元手に金融業に進出するところもあった。また、当時城砦化が進んでいた寺院に資産を預ける人々もおりその資産も元手となった。しかし、高利での貸付に耐え切れなくなった人々が徳政一揆を引き起こし、寺院がその攻撃の対象となることもあった。
僧兵の武術も武士のように洗練され、宝蔵院流槍術のように流派として確立する例もあった。
曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては浄土真宗の蓮如や日蓮宗の日親などが有名である。
戦国時代
応仁の乱後になると、治安が悪化したため、宗教勢力も僧兵を強化し武力を強化した。法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体による宗教戦争も起こった。中でも加賀国一揆等の一向一揆は守護大名の冨樫氏を滅ぼし、約80年間に渡って加賀一国を支配した(主に徴税権と裁判権)。石山本願寺などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は守護大名および戦国大名が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。
しかし尾張の戦国大名・織田信長は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦などが有名である。また、信長は、日蓮宗の僧と浄土宗の僧との宗論を主催した(安土宗論)。結果、浄土宗が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。
安土桃山時代
信長が本能寺の変で死ぬと、彼の家臣の豊臣秀吉が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した根来寺や高野山を屈服させた。さらに有力寺社を大坂城の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・豊臣秀長を派遣したり、刀狩・惣無事令によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。寺院の統制と武装解除は続く江戸幕府でも大きな問題として引き継がれていく。
ルイス・フロイスが1585年に著した日欧文化比較では、この時代の仏教寺院の堕落が指摘されている。
江戸時代
豊臣秀吉の死後に権勢を掌握した徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。人々を必ずいずれかの寺院に登録させるようにし(寺請制度)、布教活動を実質的に封じた。鎌倉仏教にとっては、檀家制度によって全国に寺院が作られたことで、全面展開がなされた。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗の本願寺は、東西に分裂させられ、勢力を弱体化させられた。全国の修験道は、聖護院を本山とする本山派と、醍醐寺を本山とする当山派のいずれかに属するように規制された。また、朱子学や国学の立場からの排仏論も起こった。
1665年(寛文5年)に江戸幕府は寛文印知と諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制(檀家制度)を行った。幕府は学問を奨励したため、各宗派で、檀林、学寮などと呼ばれる学校が整備され、教学研究が進んだ一方で、新義・異議は禁止された。江戸幕府が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派の不受不施派は、禁教令のキリスト教と同様に厳しい弾圧を受けた[4]。
1654年(承応3年)に来日した明の隠元隆琦は黄檗宗を布教している。
幕府の寺社政策を担った以心崇伝、天海、日々の職業生活の中での信仰実践を説いた鈴木正三、独力で大蔵経を刊行した鉄眼道光、サンスクリット研究、戒律復興を提唱した慈雲、臨済宗中興の祖と称される白隠らが活躍した。
明治時代
江戸時代後半より本居宣長を祖とする国学の延長により明治維新が成し遂げられ、国学的な明治政権が旧長州藩出身者により形成された。そのため、大政奉還により、天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が減少した。1871年(明治4年)に明治政府は太政官達を出し虚無僧が在籍する普化宗を廃止した。また、不受不施派やキリスト教の布教が解禁された。各宗派は仏教の近代化を推し進め、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。
大正時代
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昭和時代(戦前・戦中)
近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては1939年(昭和14年)の宗教団体法が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。宗教に関する法律の必要性は政界においても認識されており、1899年(明治32年)には第一次宗教法案が貴族院に提案されたが、否決された。1927年(昭和2年)、1929年(昭和4年)にも宗教法案が議会で提案されるが、審理未了に終わった。宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。
第二次世界大戦の日本軍では諸外国の従軍牧師に相当する職として従軍僧が存在したが軍属扱いであり、宗教者でも徴兵対象であったため僧侶だった兵士が臨時に法事を執り行うなど個人的な活動が中心であった。なお浄土真宗の各教団は軍隊布教使と呼ぶ布教使を派遣し軍人に布教活動を行っていた。
昭和時代(戦後)・平成時代・令和時代
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第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)12月28日に宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1951年(昭和26年)に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した宗教法人法が制定された。高度経済成長と時を同じくして、日蓮正宗系新宗教の創価学会や法華系新宗教の立正佼成会などが大きく勢力を伸ばした。創価学会は宗教政党公明党を組織し、政界に影響力を持っている。1970年代には、精神世界ブームに後押しされ、密教系新宗教である阿含宗や真如苑が伸張した。
1980年代後半には、漢訳経典中心であった日本では珍しくチベット仏教・原始仏教・上座部仏教・ヒンドゥー教等の影響を受けたオウム真理教が注目されたが、1980年代末期から1990年代中期にかけてオウム真理教事件と呼ばれる一連の事件を起こし、これをきっかけにして1995年(平成7年)には宗教法人法が一部改正された。
神道との関わり(神仏習合)
明治維新による強制的な神仏分離が行われる以前は、神道の神と仏は一体で混淆した信仰体系であった。日本に仏教が伝来したのは『日本書紀』によると、飛鳥時代、552年とされ、仏は新来の「神」として敬われた。6世紀末には既に神宮寺を建立したとされ、日本の仏教は当初から神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な観念は本地垂迹説として理論化された。さらに日本史における画期となった戦国時代には、天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった[5]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 総務省 (2013). 第六十三回 日本統計年鑑 平成26年. 東京: 日本統計協会
- ^ 文化庁『宗教年鑑』」
- ^ 『図解仏教』成美堂出版、32頁。
- ^ 高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P394-397
- ^ 神田千里『宗教で読む戦国時代』講談社(講談社選書メチエ)2010年 P.49-87 ISBN 978-4-06-258459-3
関連項目
外部リンク
- 公益法人全日本仏教会(日本の仏教の主要58宗派を中心とした、日本の伝統仏教界における唯一の連合体)
- 佛教リンク集 - ここから他のリンク集にもリンクしている。
- 仏教書総目録
- 日本仏教の宗派と経典