コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「小笠原忠真」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
38行目: 38行目:
大名茶人でもあり、同地の[[茶湯]]隆盛の基盤を築いた。[[上野焼]]の育成に尽力した外、茶人の[[古市了和]]を召し抱えて[[小笠原家茶道古流]]を興した。
大名茶人でもあり、同地の[[茶湯]]隆盛の基盤を築いた。[[上野焼]]の育成に尽力した外、茶人の[[古市了和]]を召し抱えて[[小笠原家茶道古流]]を興した。


元和5年、[[黄檗宗]]の開祖[[隠元隆き|隠元隆琦]]の高弟[[即非如一]]を招き、広寿山[[福聚寺 (北九州市)|福聚寺]]を建立した。
元和5年、[[黄檗宗]]の開祖[[隠元隆琦]]の高弟[[即非如一]]を招き、広寿山[[福聚寺 (北九州市)|福聚寺]]を建立した。


[[糠漬け]]を好み、[[小倉城]]入封の際にも糠床を持ち込み、城下の人々にも糠漬けを奨励した。現代の小倉においても旧城下の[[小倉北区|小倉]]では各家に代々受け継がれた「百年床」という糠床がある<ref>{{cite web|url=http://www.kid.ne.jp/kokurajou/html/syuuhen/syuuhen.html|title=小倉城周辺のパノラマ 漬物処 糠蔵|work=小倉城-小倉文化史の散策-|accessdate=2013-12-13}}</ref>。
[[糠漬け]]を好み、[[小倉城]]入封の際にも糠床を持ち込み、城下の人々にも糠漬けを奨励した。現代の小倉においても旧城下の[[小倉北区|小倉]]では各家に代々受け継がれた「百年床」という糠床がある<ref>{{cite web|url=http://www.kid.ne.jp/kokurajou/html/syuuhen/syuuhen.html|title=小倉城周辺のパノラマ 漬物処 糠蔵|work=小倉城-小倉文化史の散策-|accessdate=2013-12-13}}</ref>。

2020年8月2日 (日) 22:05時点における版

 
小笠原忠真
小笠原忠真
時代 江戸時代前期
生誕 慶長元年2月28日1596年3月26日
死没 寛文7年10月18日1667年12月3日
改名 春松丸(幼名)、忠政、忠真
別名 忠眞
墓所 福岡県北九州市小倉北区の広寿山福聚寺
官位 従四位下侍従左近将監
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光家綱
信濃松本藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩
氏族 府中小笠原氏
父母 小笠原秀政登久姫
兄弟 忠脩忠真敬台院保寿院忠知
松平重直忠慶長俊溝口政房原昌行
円照院、那須藤
長安市松姫長宣、嘉禰、鍋姫、忠雄真方坂牧忠増長弘、千代姫、姫松ら
齢昭院
テンプレートを表示

小笠原 忠真(おがさわら ただざね)は、江戸時代前期の大名茶人信濃国松本藩2代藩主、播磨国明石藩主、豊前国小倉藩初代藩主。

生涯

下総国古河城に生まれる。徳川秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗り、晩年に忠真と名を変えた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父と長兄・忠脩が戦死したため、総領家の家督を相続することとなり、信濃松本8万石を領した。また、忠脩未亡人で母方の従妹でもある亀姫を正室とし、亀姫と忠脩の子である長次を養育した。

後に播磨三木明石10万石を経て、豊前小倉15万石に移封された。前小倉藩主39万石の細川忠利は義兄弟である。

島原の乱の際には長崎守備の任を果たした。剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたといわれる。

大名茶人でもあり、同地の茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力した外、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。

元和5年、黄檗宗の開祖隠元隆琦の高弟即非如一を招き、広寿山福聚寺を建立した。

糠漬けを好み、小倉城入封の際にも糠床を持ち込み、城下の人々にも糠漬けを奨励した。現代の小倉においても旧城下の小倉では各家に代々受け継がれた「百年床」という糠床がある[1]

系譜

参考文献

  • 『城下町小倉の歴史』 長崎街道城下町の会
  • 『原色茶道辞典』 淡交社
  • 『歴史街道』2019年4月号 PHP[2]

参照

  1. ^ 小倉城周辺のパノラマ 漬物処 糠蔵”. 小倉城-小倉文化史の散策-. 2013年12月13日閲覧。
  2. ^ 小笠原忠真~戦国最強のサラブレッド!家康が鬼孫と激賞した小倉藩祖”. shuchi.php.co.jp. 2020年2月5日閲覧。

関連項目