「普門寺 (高槻市)」の版間の差分
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しかし、[[永禄]]4年([[1561年]])に元[[管領]]・[[細川晴元]]を隠居させるため城郭として築城され([[三好氏]]ではないかと言われている)、出家してこの寺に隠棲している。この頃の普門寺は「普門寺城」と呼ばれ、この時に中興したと思われている。管領晴元や14代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義栄]]の居城となり、境内には塔堂伽藍が立ち並び、巨刹であったと伝えられる。晴元没後の永禄9年([[1566年]])には[[三好三人衆]]に擁立された足利義栄が入り、ここで[[将軍宣下|宣下式]]を行い征夷大将軍に就任している。 |
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[[ファイル:150521 Fumonji Takatsuki Osaka pref Japan03bs5.jpg|thumb|left|150px|[[隠元隆琦|隠元]]作石畳]] |
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当初は設巌により[[臨済宗#建長寺派|建長寺派]]として創建されたが、[[慶長]]9年([[1604年]])に妙心寺派に移り、[[龍安寺]]末寺となった。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])に師の後を継いだ[[龍渓性潜]]が入山して第9代住持となり、その後40年かけて[[方丈]]や諸堂を造営し、隆盛を誇ったと伝えられる。[[明暦]]元年([[1655年]])には龍渓が明の高僧・[[ |
当初は設巌により[[臨済宗#建長寺派|建長寺派]]として創建されたが、[[慶長]]9年([[1604年]])に妙心寺派に移り、[[龍安寺]]末寺となった。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])に師の後を継いだ[[龍渓性潜]]が入山して第9代住持となり、その後40年かけて[[方丈]]や諸堂を造営し、隆盛を誇ったと伝えられる。[[明暦]]元年([[1655年]])には龍渓が明の高僧・[[隠元隆琦]]をこの寺に招き、隠元は[[黄檗宗]]総本山である[[萬福寺]]を開くまでの約7年半をこの寺の住持として滞在している。隠元は萬福寺の住持を3年間努めた後隠棲しており、日本で住持として一番長く過ごしたのがここ普門寺である。隠元が普門寺の住持となったことにより、普門寺はこのときに黄檗宗へと改宗しており、妙心寺と揉めることとなる。普門寺滞在中は寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限されていたものの、[[後水尾天皇|後水尾上皇]]を始め各地から僧が集まり、仏殿、鐘堂、石庭などが整備され大いに栄えたという。 |
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隠元が萬福寺へと去った後は、黄檗宗への改宗を巡って妙心寺内での対立もあり、[[寛文]]元年([[1661年]])頃には龍渓も自らが入山して再興した[[慶瑞寺]]へと移り、普門寺は再び臨済宗妙心寺派に復帰し、龍安寺の輪番所となり、専任住持が置かれることはなかった。最盛時には3万[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]に及び[[三輪神社 (高槻市)|三輪神社]]や[[本照寺 (高槻市)|本照寺]]も境内であったが、[[明治|明治時代]]の[[廃仏毀釈]]で寺地や諸堂を失い、[[昭和]]初期まで専任住職も置かれずに荒廃していたが、その後再興され、昭和52年([[1977年]])には方丈が国の重要文化財に、昭和56年([[1981年]])には庭園が名勝の指定を受けている。また境内には、戒名「龍昇院殿前右京兆心月清公大居士」と刻まれ、細川晴元の墓と言われている[[宝篋印塔]]が建っている。 |
隠元が萬福寺へと去った後は、黄檗宗への改宗を巡って妙心寺内での対立もあり、[[寛文]]元年([[1661年]])頃には龍渓も自らが入山して再興した[[慶瑞寺]]へと移り、普門寺は再び臨済宗妙心寺派に復帰し、龍安寺の輪番所となり、専任住持が置かれることはなかった。最盛時には3万[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]に及び[[三輪神社 (高槻市)|三輪神社]]や[[本照寺 (高槻市)|本照寺]]も境内であったが、[[明治|明治時代]]の[[廃仏毀釈]]で寺地や諸堂を失い、[[昭和]]初期まで専任住職も置かれずに荒廃していたが、その後再興され、昭和52年([[1977年]])には方丈が国の重要文化財に、昭和56年([[1981年]])には庭園が名勝の指定を受けている。また境内には、戒名「龍昇院殿前右京兆心月清公大居士」と刻まれ、細川晴元の墓と言われている[[宝篋印塔]]が建っている。 |
2020年8月2日 (日) 22:08時点における版
普門寺 | |
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所在地 | 大阪府高槻市富田町4-10-10 |
位置 | 北緯34度49分49.99秒 東経135度35分34.41秒 / 北緯34.8305528度 東経135.5928917度座標: 北緯34度49分49.99秒 東経135度35分34.41秒 / 北緯34.8305528度 東経135.5928917度 |
山号 | 慈雲山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 |
釈迦如来 十一面千手観音菩薩 |
創建年 | 1390年(明徳元年) |
開山 | 設巌 |
正式名 | 慈雲山 普門寺 |
文化財 |
本堂(重要文化財) 庭園(国の名勝) |
法人番号 | 5120905002198 |
普門寺(ふもんじ)は、大阪府高槻市富田町にある臨済宗妙心寺派の寺院。
沿革
この寺は、1390年(明徳元年)設巌の開山により創建されたと伝えられ、その後一旦は荒廃していたようである。
しかし、永禄4年(1561年)に元管領・細川晴元を隠居させるため城郭として築城され(三好氏ではないかと言われている)、出家してこの寺に隠棲している。この頃の普門寺は「普門寺城」と呼ばれ、この時に中興したと思われている。管領晴元や14代将軍足利義栄の居城となり、境内には塔堂伽藍が立ち並び、巨刹であったと伝えられる。晴元没後の永禄9年(1566年)には三好三人衆に擁立された足利義栄が入り、ここで宣下式を行い征夷大将軍に就任している。
当初は設巌により建長寺派として創建されたが、慶長9年(1604年)に妙心寺派に移り、龍安寺末寺となった。元和3年(1617年)に師の後を継いだ龍渓性潜が入山して第9代住持となり、その後40年かけて方丈や諸堂を造営し、隆盛を誇ったと伝えられる。明暦元年(1655年)には龍渓が明の高僧・隠元隆琦をこの寺に招き、隠元は黄檗宗総本山である萬福寺を開くまでの約7年半をこの寺の住持として滞在している。隠元は萬福寺の住持を3年間努めた後隠棲しており、日本で住持として一番長く過ごしたのがここ普門寺である。隠元が普門寺の住持となったことにより、普門寺はこのときに黄檗宗へと改宗しており、妙心寺と揉めることとなる。普門寺滞在中は寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限されていたものの、後水尾上皇を始め各地から僧が集まり、仏殿、鐘堂、石庭などが整備され大いに栄えたという。
隠元が萬福寺へと去った後は、黄檗宗への改宗を巡って妙心寺内での対立もあり、寛文元年(1661年)頃には龍渓も自らが入山して再興した慶瑞寺へと移り、普門寺は再び臨済宗妙心寺派に復帰し、龍安寺の輪番所となり、専任住持が置かれることはなかった。最盛時には3万m2に及び三輪神社や本照寺も境内であったが、明治時代の廃仏毀釈で寺地や諸堂を失い、昭和初期まで専任住職も置かれずに荒廃していたが、その後再興され、昭和52年(1977年)には方丈が国の重要文化財に、昭和56年(1981年)には庭園が名勝の指定を受けている。また境内には、戒名「龍昇院殿前右京兆心月清公大居士」と刻まれ、細川晴元の墓と言われている宝篋印塔が建っている。
文化財
重要文化財
方丈(本堂)
- 元和7年(1621年)に現在の地に移築
- 昭和52年(1977年) - 国の重要文化財に指定
- 昭和57年(1982年) - 2年かけて全解体・修理、瓦葺から杮葺に戻すなど創建当時に復元
- 25年に1度程度、杮葺屋根の葺き替えを実施することにしており、2008年に復元後初めての葺き替えが行われた。
名勝(国指定)
- 観音補陀落山の庭
阿武山を借景した池泉式枯山水庭園で、京都の妙蓮寺の僧であった玉淵坊の作とされる。京都の桂離宮「天の橋立」と同時期に作成されたと思われており、その石組みが組み込まれている。枯山水としては変わった様式になっている。地形は多少の起伏があり、低い所を水面、やや小高い所を岸または島に見立て、要所に石を組み、石橋を架したまとまりのよい枯山水庭であり、玉淵坊の作風を知る上で貴重である。昭和56年(1981年)に国の名勝に指定されているが、平成12年(2000年)に、方丈や山門、毘沙門堂(旧行者堂)、隠元禅師作と伝えられる黄檗式石畳、普門寺城の遺構とみられる土塁等も庭園の景観に係わるものとして追加指定されている。
普門寺城
築城の時期は不明な点が多いが、一旦荒廃していた寺を細川晴元が幽閉された前後に、芥川山城の支城として築城されたのではないかと言われている。規模に関しても現在の規模とは異なり、周辺の三輪神社、本照寺、高槻市立富田小学校も城郭の一部だったようで最盛期には約3万m2もあった。「富田寺内絵図」によると、北、西、南側に門が見受けられ、普門寺城の周りには水堀を巡らし、南西側には「筒井池」という池がありこの池も堀の一部であったようである。しかし、三輪神社が独立したり、戦後の農地解放等によって規模が六分の一にまで縮小した。また昭和中後期頃までには大規模な堀や土塁が残っていたようであるが、現在は境内の北側に土塁跡がわずかに残っている程度である。
施設情報
交通アクセス
拝観
- 拝観時間:午後1時30分 - 午後4時