「千呆性侒」の版間の差分
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17歳のとき[[崇聖寺 (福州市)|雪峰崇聖寺]]に参じ[[即非如一]]の下で出家する。[[明暦]]3年(1657年)2月に即非に随って日本へ渡海。[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]に入って即非の法嗣となり、[[寛文]]5年(1665年)即非より嗣法を受けた。同8年(1668年)、即非の命によって広福庵(明治期に廃絶)を建立。同年7月に崇福寺中興第二代なり[[元禄]]6年(1693年)まで住持した。同11年(1698年)、即非が示寂するとその[[舎利]](遺骨)を崇福寺に納めた。同年11月には萬福寺に赴き[[隠元隆琦]]80歳の大賀を祝った。 |
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[[延宝]]3年(1676年)5月、[[長崎市|長崎]]が飢饉に見舞われると衆徒を率いて[[托鉢]]を行い飢えた人々に粥を施した。同年9月に再度凶作になると、[[書画]]を売り、大鍋を鋳造し多くの人々に粥を施した。この鍋は'''万人鍋'''と呼ばれいまも現存する。 |
[[延宝]]3年(1676年)5月、[[長崎市|長崎]]が飢饉に見舞われると衆徒を率いて[[托鉢]]を行い飢えた人々に粥を施した。同年9月に再度凶作になると、[[書画]]を売り、大鍋を鋳造し多くの人々に粥を施した。この鍋は'''万人鍋'''と呼ばれいまも現存する。 |
2020年8月2日 (日) 22:11時点における版
千呆性侒 | |
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1636年 - 1705年 | |
喜多元規筆 即非・千呆像(部分) 寛文6年賛 絹本着色 | |
生地 | 福建福州府長楽県 |
宗派 | 臨済宗黄檗派 |
寺院 | 黄檗山萬福寺 |
師 | 即非如一 |
弟子 | 霊源海脈・雪広(恵雲)・玉岡海昆・江外海長・衣鉢海龍 |
千呆性侒(せんがい しょうあん、崇禎9年(1636年) - 宝永2年2月1日(1705年2月24日))は、中国明末に生まれ、日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧。黄檗山萬福寺第6代住持となり、黄檗流の能書家で知られた。
俗姓は陳。道号を千呆(千獃とも)・曇瑞。法諱を性侒(性安とも)。
略伝
17歳のとき雪峰崇聖寺に参じ即非如一の下で出家する。明暦3年(1657年)2月に即非に随って日本へ渡海。崇福寺に入って即非の法嗣となり、寛文5年(1665年)即非より嗣法を受けた。同8年(1668年)、即非の命によって広福庵(明治期に廃絶)を建立。同年7月に崇福寺中興第二代なり元禄6年(1693年)まで住持した。同11年(1698年)、即非が示寂するとその舎利(遺骨)を崇福寺に納めた。同年11月には萬福寺に赴き隠元隆琦80歳の大賀を祝った。
延宝3年(1676年)5月、長崎が飢饉に見舞われると衆徒を率いて托鉢を行い飢えた人々に粥を施した。同年9月に再度凶作になると、書画を売り、大鍋を鋳造し多くの人々に粥を施した。この鍋は万人鍋と呼ばれいまも現存する。
元禄元年(1688年)、鳥取藩主池田光仲に要請され、龍宝山興禅寺の中興開山となる。同8年(1695年)、黄檗山萬福寺第6代に選出され翌年正月に晋山する。同年5月には徳川綱吉に謁見し住持の継席を報告した。
その後、幕府の寄進などを受け諸堂を修繕、さらに威徳殿・延寿殿・福寺寮などを建て石峰寺の開山となった。また伊予の千秋寺・尾張の護国山東輪寺を創建し師即非を開山とした。
宝永2年(1705年)2月、示寂。世寿70。万松岡で荼毘にふされ舎利を瑞光院に安置。後に石峰寺に塔された。
黄檗流の能書で知られ道釈人物図・蘭竹図などを画いた。
註
参考文献
- 大槻幹郎編『黄檗文化人名辞典』1988年 思文閣出版 ISBN 4784205381