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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[麻田藩]]主の菩提寺で、第2代麻田藩主の青木重兼([[端山]])が開基した。『端山紀年録』によれば、[[寛永]]7年(1630年)に[[麻田村]]東方の[[天王山]]山麓に前身となる[[松隣寺]]が建立された。[[承応]]3年(1654年)現在の[[我孫子]]に移転して仏殿、禅堂、方丈、山門、鐘楼等が建立された。[[万治]]2年(1659年)黄檗宗開祖の[[隠元隆き|隠元隆琦]]を招来して開山、摩耶山佛日寺に寺号を改名した<ref>{{Cite web|url=http://butsunitiji.com/butunitiji.html|title=摩耶山 佛日禅寺の概要|accessdate=2018-10-31|website=butsunitiji.com}}</ref>。当初は本堂の他に29宇を存する大伽藍の巨刹で、左右対称を特徴とする明朝様式の黄檗寺院としては、本山[[萬福寺]]より先に創建されたことになる。萬福寺造営奉行の拝命を受けた青木重兼が領内に黄檗寺院の建立を試みたためである。寛文元年(1661年)隠元の弟子である[[慧林性機]](萬福寺3代・[[龍興派]]祖)が初代住職に任命される。延宝8年(1680年)[[高泉性敦|高泉性潡]](萬福寺5代・[[佛国寺]]開山)、続いて元禄10(1697年)慧極道明([[聖林派]]祖・[[法雲寺]]開山)等の名僧が入寺する。続いて慧林の弟子[[別傳道経]]、[[黙堂道轟]]と続き、一部の例外を除き龍興派の和尚が代々住職がを務める一流相承の寺院となる。
[[麻田藩]]主の菩提寺で、第2代麻田藩主の青木重兼([[端山]])が開基した。『端山紀年録』によれば、[[寛永]]7年(1630年)に[[麻田村]]東方の[[天王山]]山麓に前身となる[[松隣寺]]が建立された。[[承応]]3年(1654年)現在の[[我孫子]]に移転して仏殿、禅堂、方丈、山門、鐘楼等が建立された。[[万治]]2年(1659年)黄檗宗開祖の[[隠元隆琦]]を招来して開山、摩耶山佛日寺に寺号を改名した<ref>{{Cite web|url=http://butsunitiji.com/butunitiji.html|title=摩耶山 佛日禅寺の概要|accessdate=2018-10-31|website=butsunitiji.com}}</ref>。当初は本堂の他に29宇を存する大伽藍の巨刹で、左右対称を特徴とする明朝様式の黄檗寺院としては、本山[[萬福寺]]より先に創建されたことになる。萬福寺造営奉行の拝命を受けた青木重兼が領内に黄檗寺院の建立を試みたためである。寛文元年(1661年)隠元の弟子である[[慧林性機]](萬福寺3代・[[龍興派]]祖)が初代住職に任命される。延宝8年(1680年)[[高泉性敦|高泉性潡]](萬福寺5代・[[佛国寺]]開山)、続いて元禄10(1697年)慧極道明([[聖林派]]祖・[[法雲寺]]開山)等の名僧が入寺する。続いて慧林の弟子[[別傳道経]]、[[黙堂道轟]]と続き、一部の例外を除き龍興派の和尚が代々住職がを務める一流相承の寺院となる。


[[阪神淡路大震災]]では山門にひびが入り倒壊の危険性から翌年再建された。
[[阪神淡路大震災]]では山門にひびが入り倒壊の危険性から翌年再建された。

2020年8月2日 (日) 22:13時点における版

佛日寺
地図
位置 北緯34度49分36.7秒 東経135度26分49.9秒 / 北緯34.826861度 東経135.447194度 / 34.826861; 135.447194座標: 北緯34度49分36.7秒 東経135度26分49.9秒 / 北緯34.826861度 東経135.447194度 / 34.826861; 135.447194
山号 摩耶山
宗旨 禅宗
宗派 黄檗宗
創建年 1654年
開山 1659年
開基 2代麻田藩青木重兼
正式名 摩耶山佛日禅寺
札所等 北摂三十三ヶ所観音霊場
公式サイト 佛日禅寺
法人番号 5120905003254 ウィキデータを編集
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佛日寺(ぶつにちじ、佛日禅寺)は、大阪府池田市に所在する黄檗宗の仏教寺院。山号は摩耶山。北摂三十三ヶ所観音霊場27番札所。境内には信長公記の作者太田牛一の墓所あり。

歴史

麻田藩主の菩提寺で、第2代麻田藩主の青木重兼(端山)が開基した。『端山紀年録』によれば、寛永7年(1630年)に麻田村東方の天王山山麓に前身となる松隣寺が建立された。承応3年(1654年)現在の我孫子に移転して仏殿、禅堂、方丈、山門、鐘楼等が建立された。万治2年(1659年)黄檗宗開祖の隠元隆琦を招来して開山、摩耶山佛日寺に寺号を改名した[1]。当初は本堂の他に29宇を存する大伽藍の巨刹で、左右対称を特徴とする明朝様式の黄檗寺院としては、本山萬福寺より先に創建されたことになる。萬福寺造営奉行の拝命を受けた青木重兼が領内に黄檗寺院の建立を試みたためである。寛文元年(1661年)隠元の弟子である慧林性機(萬福寺3代・龍興派祖)が初代住職に任命される。延宝8年(1680年)高泉性潡(萬福寺5代・佛国寺開山)、続いて元禄10(1697年)慧極道明(聖林派祖・法雲寺開山)等の名僧が入寺する。続いて慧林の弟子別傳道経黙堂道轟と続き、一部の例外を除き龍興派の和尚が代々住職がを務める一流相承の寺院となる。

阪神淡路大震災では山門にひびが入り倒壊の危険性から翌年再建された。

脚注

  1. ^ 摩耶山 佛日禅寺の概要”. butsunitiji.com. 2018年10月31日閲覧。