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「龍造寺家純」の版間の差分

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[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])、[[龍造寺家兼]]の嫡男として誕生。
[[文明 (日本)|文明]]11年([[1479年]])、[[龍造寺家兼]]の嫡男として誕生。


当初は父・家兼と共に[[少弐氏]]の家臣として活動し、[[享禄]]3年([[1530年]])の[[田手畷の戦い]]では少弐氏方として奮戦し、[[大内氏]]を破るのに貢献した。父が[[少弐冬尚]]に疎んじられると共に少弐氏から離反したが、のちに和解が成立し父と共に帰参した。家臣の[[鍋島氏]]や旧主の[[九州千葉氏]]と姻戚関係を結ぶなど、龍造寺家の立場の強化に努めた。弟・[[龍造寺家門|家門]]を養子とし水ヶ江家の跡を継がせ、また、実子・[[龍造寺周家|周家]]を家門の養子として送り込み、本家である村中龍造寺家の[[龍造寺胤和]]から娘(後の[[慶ぎん尼|慶誾尼]])を迎え、周家の室としている。
当初は父・家兼と共に[[少弐氏]]の家臣として活動し、[[享禄]]3年([[1530年]])の[[田手畷の戦い]]では少弐氏方として奮戦し、[[大内氏]]を破るのに貢献した。父が[[少弐冬尚]]に疎んじられると共に少弐氏から離反したが、のちに和解が成立し父と共に帰参した。家臣の[[鍋島氏]]や旧主の[[九州千葉氏]]と姻戚関係を結ぶなど、龍造寺家の立場の強化に努めた。弟・[[龍造寺家門|家門]]を養子とし水ヶ江家の跡を継がせ、また、実子・[[龍造寺周家|周家]]を家門の養子として送り込み、本家である村中龍造寺家の[[龍造寺胤和]]から娘(後の[[慶誾尼]])を迎え、周家の室としている。


[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])、龍造寺家の増長を恐れる少弐氏の重臣[[馬場頼周]]に暗殺された。しかし異説も多く、一説には頼周に煽動されて豪族・[[神代勝利]]と戦って敗死。または逃亡中に暗殺されたとも言われている。
[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])、龍造寺家の増長を恐れる少弐氏の重臣[[馬場頼周]]に暗殺された。しかし異説も多く、一説には頼周に煽動されて豪族・[[神代勝利]]と戦って敗死。または逃亡中に暗殺されたとも言われている。

2020年8月2日 (日) 22:14時点における版

 
龍造寺家純
時代 戦国時代
生誕 文明11年(1479年
死没 天文14年1月23日1545年3月6日
官位 豊後守
主君 少弐資元冬尚
氏族 龍造寺氏
父母 龍造寺家兼
兄弟 家純家門、豪覚[1]
周家純家頼純、華渓、千葉胤連正室、馬場政員室、犬塚尚家
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龍造寺 家純(りゅうぞうじ いえすみ)は、戦国時代武将龍造寺隆信鍋島直茂の祖父にあたる。

生涯

文明11年(1479年)、龍造寺家兼の嫡男として誕生。

当初は父・家兼と共に少弐氏の家臣として活動し、享禄3年(1530年)の田手畷の戦いでは少弐氏方として奮戦し、大内氏を破るのに貢献した。父が少弐冬尚に疎んじられると共に少弐氏から離反したが、のちに和解が成立し父と共に帰参した。家臣の鍋島氏や旧主の九州千葉氏と姻戚関係を結ぶなど、龍造寺家の立場の強化に努めた。弟・家門を養子とし水ヶ江家の跡を継がせ、また、実子・周家を家門の養子として送り込み、本家である村中龍造寺家の龍造寺胤和から娘(後の慶誾尼)を迎え、周家の室としている。

天文14年(1545年)、龍造寺家の増長を恐れる少弐氏の重臣馬場頼周に暗殺された。しかし異説も多く、一説には頼周に煽動されて豪族・神代勝利と戦って敗死。または逃亡中に暗殺されたとも言われている。

系譜

脚注

  1. ^ 川副博『龍造寺隆信』人物往来社〈日本の武将45〉、1967年。