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'''龍造寺 胤栄'''(りゅうぞうじ たねみつ<ref>「栄」の字を“みつ”と読むのは、[[横岳氏]]所蔵の『[[歴代鎮西志]]』に所収された[[慶誾尼]]宛ての書状の胤栄の名が「太年(たね)栄」と書かれており、その「栄」の字に編者が「ミツ」と仮名を振っていることによる。(『日本の武将45 龍造寺隆信』)</ref>)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[龍造寺氏]]18代当主。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
2020年8月2日 (日) 22:14時点における版
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 大永4年(1524年) |
死没 | 天文17年3月22日(1548年4月30日) |
別名 | 胤光 |
墓所 | 佐賀県佐賀市の高伝寺 |
官位 | 宮内大輔、豊前守 |
氏族 | 龍造寺氏 |
父母 | 龍造寺胤久 |
兄弟 | 胤栄、家就、胤明 |
妻 | 龍造寺家門娘 |
子 | 於安 |
龍造寺 胤栄(りゅうぞうじ たねみつ[1])は、戦国時代の武将。龍造寺氏18代当主。
生涯
肥前国国人・龍造寺氏17代当主・龍造寺胤久の子として誕生。父同様、水ケ江龍造寺氏の龍造寺家兼の補佐を受けたが、傀儡に近い存在で、家兼と対立し、一時、大内氏に亡命した。しかし天文14年(1545年)に龍造寺氏の一族の多くが殺されると、翌天文15年(1546年)に家兼に協力して共に馬場頼周を討つ。
天文16年(1547年)には大内義隆により肥前の代官に任じられる等重用されていたが、天文17年(1548年)、病死。嗣子がいなかった為、一族相談の結果、分家の水ケ江龍造寺氏より家兼の曾孫・胤信(後の龍造寺隆信)が本家の家督を継承する事となった。しかし、この家督継承に不満を持つ家臣達も少なくなく、天文20年(1551年)には、龍造寺鑑兼を担いだ胤栄旧臣の土橋栄益らによる内紛が起こる事となった。
胤栄の未亡人(龍造寺家門の娘)は隆信に再嫁した。娘の於安は小田政光の嫡子・鎮光に嫁ぎ、鎮光が龍造寺隆信に背いた為に謀殺されると、波多親に再嫁している[2]。
偏諱を受けた人物
脚注
- ^ 「栄」の字を“みつ”と読むのは、横岳氏所蔵の『歴代鎮西志』に所収された慶誾尼宛ての書状の胤栄の名が「太年(たね)栄」と書かれており、その「栄」の字に編者が「ミツ」と仮名を振っていることによる。(『日本の武将45 龍造寺隆信』)
- ^ 『北肥戦誌』の記述