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伯父鎮漣(鎮並)の妻の[[玉鶴姫]]は、夫を謀殺した父の龍造寺隆信に抗い、鎮貞を頼りに、付き従う家臣、女性と共に塩塚まで来て、同地で自決(同地には、「史跡・蒲池鎮漣夫人他、百八人殉難之地」と刻まれた石標と地蔵がある[http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/044tamatsuru.html 玉鶴姫の意地])。
伯父鎮漣(鎮並)の妻の[[玉鶴姫]]は、夫を謀殺した父の龍造寺隆信に抗い、鎮貞を頼りに、付き従う家臣、女性と共に塩塚まで来て、同地で自決(同地には、「史跡・蒲池鎮漣夫人他、百八人殉難之地」と刻まれた石標と地蔵がある[http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/044tamatsuru.html 玉鶴姫の意地])。


次子は、祖父鑑盛と父統安を弔うため僧籍に入り、瀬高の来迎寺の僧侶となり[[応誉]]と号した。応誉は後に[[柳川藩]]祖[[立花宗茂]]の正室[[立花ぎん千代|誾千代]]の[[菩提寺]]の[[良清寺]]を開き、子孫は[[立花氏]]の[[家老]]格として遇された。ちなみに歌手の[[松田聖子]](蒲池法子)の生家は、この子孫である。
次子は、祖父鑑盛と父統安を弔うため僧籍に入り、瀬高の来迎寺の僧侶となり[[応誉]]と号した。応誉は後に[[柳川藩]]祖[[立花宗茂]]の正室[[立花千代|誾千代]]の[[菩提寺]]の[[良清寺]]を開き、子孫は[[立花氏]]の[[家老]]格として遇された。ちなみに歌手の[[松田聖子]](蒲池法子)の生家は、この子孫である。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年8月2日 (日) 22:17時点における版

 
蒲池統安
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正6年11月9日1578年12月7日
改名 鎮安→統安
官位 駿河左近大夫
主君 大友義鎮(宗麟)
氏族 蒲池氏
父母 父:蒲池鑑盛、母:貞口院(乙鶴姫、田尻鑑種姉)
兄弟 鎮久鎮漣統安統康(統春)
鎮貞応誉
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蒲池 統安(かまち むねやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将蒲池氏の重臣。塩塚城主。初めは兄達と同様、大友義鎮(宗麟)からの偏諱を受けて鎮安(しげやす)と名乗ったが、後に義鎮の子・義統からの偏諱を受けて統安に改名した。

生涯

天正6年(1578年)の耳川の戦いに、父蒲池鑑盛、兄鎮漣と共に3千の兵を従えて大友氏方の武将として出陣。既に家督を継いでいた兄鎮漣は、直属の兵2千余を引き連れて柳川に帰城。戦いは島津氏の「釣り野伏戦法」により大友氏の大敗北となるが、統安は父鑑盛と共に、島津氏の本営への突入を何度も果敢に試み、父と共に壮烈な戦死を遂げる(この時は筑後に戻り、柳川の戦いで討ち死にしたともいわれる)。柳川市の沖ノ端のニ宮神社に、甥の宗虎丸(蒲池久鎮)と共に祭神とされた。

子孫

統安の長子の鎮貞(塩塚鎮貞)が塩塚の家督を継いだが、天正9年(1581年)、龍造寺隆信が蒲池鎮漣を肥前で謀殺し、筑後に侵攻した折、塩塚城を守り討死する。 伯父鎮漣(鎮並)の妻の玉鶴姫は、夫を謀殺した父の龍造寺隆信に抗い、鎮貞を頼りに、付き従う家臣、女性と共に塩塚まで来て、同地で自決(同地には、「史跡・蒲池鎮漣夫人他、百八人殉難之地」と刻まれた石標と地蔵がある玉鶴姫の意地)。

次子は、祖父鑑盛と父統安を弔うため僧籍に入り、瀬高の来迎寺の僧侶となり応誉と号した。応誉は後に柳川藩立花宗茂の正室誾千代菩提寺良清寺を開き、子孫は立花氏家老格として遇された。ちなみに歌手の松田聖子(蒲池法子)の生家は、この子孫である。

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