コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「黄崇」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
19行目: 19行目:
}}
}}


'''黄 崇'''(こう すう、? - [[263年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀漢]]の武将・政治家。[[益州]][[巴西郡]][[ロウ中市|閬中県]]の出身。父は[[黄権]]。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書黄権伝に記述がある。
'''黄 崇'''(こう すう、? - [[263年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[蜀漢]]の武将・政治家。[[益州]][[巴西郡]][[中市|閬中県]]の出身。父は[[黄権]]。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書黄権伝に記述がある。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年8月3日 (月) 11:52時点における版

黄崇
蜀漢
尚書郎
出生 生年不詳
益州巴西郡閬中県
死去 炎興元年(263年
益州広漢郡綿竹県
拼音 Huáng Chóng
主君 劉禅
テンプレートを表示

黄 崇(こう すう、? - 263年)は、中国三国時代蜀漢の武将・政治家。益州巴西郡閬中県の出身。父は黄権。『三国志』蜀書黄権伝に記述がある。

生涯

章武2年(222年)、荊州に親征していた劉備夷陵の戦い陸遜に大敗した。父の黄権は劉備の信任が厚く、このときは別働隊を任され荊州北部でに備えていた。しかし、劉備の敗戦によって進退窮まり、やむなくへ降伏した。このため、黄権の妻子の処罰を進言したものがいたが、劉備は「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ」と進言を退けた。

黄崇はそのまま蜀漢へ出仕し、後に尚書郎へ任じられた。

炎興元年(263年)冬、陰平の間道を通って剣閣を迂回してきたの鄧艾軍を迎撃するため、諸葛瞻に従って涪に向かった。諸葛瞻は涪から動こうとしなかったので、黄崇は「速やかに進軍して要害を占拠し、敵を平地に進入させないようにするべきです」と何度も進言したが聞き入れられず、黄崇は涙を流したという。

その後、鄧艾が軍を進めたので諸葛瞻は綿竹まで退却した。黄崇は兵を鼓舞して奮戦したが、力及ばず戦死した(蜀漢の滅亡)。