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*19年:交阯平定。陰氏の子、劉陽(改名して[[明帝 (漢)|劉荘]]、後の明帝)を皇太子とする。 |
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*26年:南匈奴の[[醢落尸逐鞮単于|日逐王比]]が漢に帰順。 |
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== 西暦・干支との対照表 == |
== 西暦・干支との対照表 == |
2020年8月3日 (月) 11:58時点における版
建武(けんぶ)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年 - 56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。
この元号は、漢王朝を再興した際に初めて制定されたものであることから、後に日本で天皇親政を再興した後醍醐天皇が採用する(建武(けんむ):南朝は1334年 - 1336年、北朝は1334年 - 1338年)。
- 元年:6月、劉秀(光武帝)は更始朝より独立して鄗(こう、現河北省高邑県)において即位、建武と改元。10月、洛陽遷都。
- 3年:宜陽にて戦わずして赤眉軍を降す。劉盆子、伝国璽を光武帝に奉ずる。
- 5年:斉を平定。
- 9年:隴西(隴右)の軍閥、隗囂が病死。
- 10年:隗囂の子である隗純が漢に降る。隴西を平定。
- 12年:公孫述が戦死。蜀を平定。
- 16年:交阯郡(現ベトナム北部)にて徴姉妹が反乱。
- 17年:皇后・郭氏を廃して陰氏を皇后とする。
- 18年:馬援の交阯遠征。
- 19年:交阯平定。陰氏の子、劉陽(改名して劉荘、後の明帝)を皇太子とする。
- 23年:匈奴が南北に分裂。
- 26年:南匈奴の日逐王比が漢に帰順。
西暦・干支との対照表
建武 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
西暦 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 | 31年 | 32年 | 33年 | 34年 |
干支 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 |
建武 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 35年 | 36年 | 37年 | 38年 | 39年 | 40年 | 41年 | 42年 | 43年 | 44年 |
干支 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 |
建武 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
西暦 | 45年 | 46年 | 47年 | 48年 | 49年 | 50年 | 51年 | 52年 | 53年 | 54年 |
干支 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 |
建武 | 31年 | 32年 | ||||||||
西暦 | 55年 | 56年 | ||||||||
干支 | 乙卯 | 丙辰 |
他年号との対照表
建武 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
更始 | 更始3 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
隗囂 | 漢復3 | 漢復4 | 建武3[1] | 建武4 | 建武5 | 建武6 | 龍興7[2] | 龍興8 | 龍興9 | 龍興10 |
成家 | 龍興元 | 龍興2 | 龍興3 | 龍興4 | 龍興5 | 龍興6 | 龍興7 | 龍興8 | 龍興9 | 龍興10 |
赤眉軍 | 建世元 | 建世2 | 建世3 | - | - | - | - | - | - | - |
建武 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
成家 | 龍興11 | 龍興12 | - | - | - | - | - | - | - | - |
脚注
関連項目
- 他王朝の建武
前の元号 更始(更始帝) |
中国の元号 後漢 |
次の元号 建武中元 |