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「セリーヌ・ルブラン」の版間の差分

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==人物==
==人物==
1999年の[[1999年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では3位となった。翌年の[[2000年シドニーオリンピック|シドニーオリンピック]]では決勝で中国の[[唐琳]]に1-2の判定で敗れて2位に終わった。2001年の[[2001年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では78kg級で3位だったものの、無差別では準決勝で中国の[[トウ文]]を判定で破ると、決勝ではイギリスの[[カリーナ・ブライアント]]を指導で破り、78kg級の選手ながら無差別で優勝を飾った。2003年の[[2003年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では78kg級、無差別ともに5位だった。[[2004年アテネオリンピック]]では準決勝で日本の[[阿武教子]]と対戦して、[[ゴールデンスコア]]までもつれ込むものの、終了19秒前に[[大内刈]]で有効を取られて敗れ、3位決定戦でもキューバの[[ユリセル・ラボルデ]]に[[袖釣込腰]]で一本負けして5位に終わった。2005年の[[2005年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では3位となった。[[2008年北京オリンピック]]には[[ステファニー・ポサメ]]に国内の代表争いで敗れて出場できなかった。その後2009年の[[2009年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では5位、2010年の[[2010年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では78kg級で7位、無差別で5位とメダルを獲得するまでには至らず2011年1月の[[ワールドマスターズ]]で2位となった直後に引退を表明した<ref>[http://www.eju.net/news/?mode=showNewsItem&id=803 Merci Céline! Judo icon retires]</ref>。
1999年の[[1999年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では3位となった。翌年の[[2000年シドニーオリンピック|シドニーオリンピック]]では決勝で中国の[[唐琳]]に1-2の判定で敗れて2位に終わった。2001年の[[2001年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では78kg級で3位だったものの、無差別では準決勝で中国の[[文]]を判定で破ると、決勝ではイギリスの[[カリーナ・ブライアント]]を指導で破り、78kg級の選手ながら無差別で優勝を飾った。2003年の[[2003年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では78kg級、無差別ともに5位だった。[[2004年アテネオリンピック]]では準決勝で日本の[[阿武教子]]と対戦して、[[ゴールデンスコア]]までもつれ込むものの、終了19秒前に[[大内刈]]で有効を取られて敗れ、3位決定戦でもキューバの[[ユリセル・ラボルデ]]に[[袖釣込腰]]で一本負けして5位に終わった。2005年の[[2005年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では3位となった。[[2008年北京オリンピック]]には[[ステファニー・ポサメ]]に国内の代表争いで敗れて出場できなかった。その後2009年の[[2009年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では5位、2010年の[[2010年世界柔道選手権大会|世界選手権]]では78kg級で7位、無差別で5位とメダルを獲得するまでには至らず2011年1月の[[ワールドマスターズ]]で2位となった直後に引退を表明した<ref>[http://www.eju.net/news/?mode=showNewsItem&id=803 Merci Céline! Judo icon retires]</ref>。


==主な戦績==
==主な戦績==

2020年8月4日 (火) 03:21時点における版

獲得メダル

セリーヌ・ルブラン
フランスの旗 フランス
柔道
オリンピック
2000 シドニー 78kg級
世界柔道選手権
2001 ミュンヘン 無差別
1999 バーミンガム 78kg級
2001 ミュンヘン 78kg級
2005 カイロ 78kg級

セリーヌ・ルブラン(Céline Lebrun 1976年8月25日- )は、フランス出身の元女子柔道選手。階級は78kg級。身長169cm[1]

人物

1999年の世界選手権では3位となった。翌年のシドニーオリンピックでは決勝で中国の唐琳に1-2の判定で敗れて2位に終わった。2001年の世界選手権では78kg級で3位だったものの、無差別では準決勝で中国の佟文を判定で破ると、決勝ではイギリスのカリーナ・ブライアントを指導で破り、78kg級の選手ながら無差別で優勝を飾った。2003年の世界選手権では78kg級、無差別ともに5位だった。2004年アテネオリンピックでは準決勝で日本の阿武教子と対戦して、ゴールデンスコアまでもつれ込むものの、終了19秒前に大内刈で有効を取られて敗れ、3位決定戦でもキューバのユリセル・ラボルデ袖釣込腰で一本負けして5位に終わった。2005年の世界選手権では3位となった。2008年北京オリンピックにはステファニー・ポサメに国内の代表争いで敗れて出場できなかった。その後2009年の世界選手権では5位、2010年の世界選手権では78kg級で7位、無差別で5位とメダルを獲得するまでには至らず2011年1月のワールドマスターズで2位となった直後に引退を表明した[2]

主な戦績

脚注

外部リンク