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「慕容垂」の版間の差分

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==== 翟魏を滅ぼす ====
==== 翟魏を滅ぼす ====
同月、翟遼がこの世を去ると、後を継いだ子の[[テキショウ|翟釗]]は鄴城へ侵攻した。後燕遼西王慕容農はこれを返り討ちにした。
同月、翟遼がこの世を去ると、後を継いだ子の[[翟釗]]は鄴城へ侵攻した。後燕遼西王慕容農はこれを返り討ちにした。


12月、慕容垂は魯口へ赴き、[[392年]]2月には魯口より河間・勃海・平原へ赴いた。翟釗は将軍翟都を派遣して館陶へ侵攻し、蘇康砦に駐屯した。
12月、慕容垂は魯口へ赴き、[[392年]]2月には魯口より河間・勃海・平原へ赴いた。翟釗は将軍翟都を派遣して館陶へ侵攻し、蘇康砦に駐屯した。

2020年8月10日 (月) 06:23時点における版

成武帝 慕容垂
後燕
初代皇帝
王朝 後燕
在位期間 384年 - 396年
姓・諱 慕容垂
道明
諡号 成武帝
廟号 世祖
生年 咸和元年(326年
没年 建興11年4月10日
396年6月2日
慕容皝(第5子)
淑儀蘭氏
后妃 段元妃
陵墓 宣平陵
年号 建興386年 - 396年

慕容 垂(ぼよう すい、拼音: Mùróng Chuí)は、五胡十六国時代後燕の創建者。道明[1]小字阿六敦。元々の名は慕容覇、字は道業といったが、後に改名した。鮮卑慕容部の出身であり、本貫は昌黎郡棘城県(現在の遼寧省錦州市義県の北西)。前燕の初代君主慕容皝の五男であり、母は淑儀蘭夫人。兄に慕容儁慕容恪、弟に慕容徳などがいる。

前燕の皇族で幼い頃より各地の征伐に従軍し、東晋桓温を撃退するなど活躍したが、奸臣の慕容評等に命を狙われて前秦に亡命した。383年に前秦が淝水の戦いで大敗すると自立して前燕の復興として後燕を建国した。395年、太子の慕容宝参合陂の戦いで大敗すると自ら反撃したが退軍中に病を患って死去した。

生涯

慕容皝の時代

若き日

前燕の初代君主慕容皝と淑儀の蘭夫人のあいだに生まれた。元々の名は慕容覇であるが、本頁では慕容垂で統一する。

339年10月、兄の盪寇将軍慕容恪と共に宇文別部(宇文部の傍系)へ侵攻し、これを攻略した。

342年11月、慕容皝が高句麗征伐の軍を興すと、その先鋒部隊を慕容垂と建威将軍慕容翰(慕容皝の庶兄)に委ねた。慕容垂らは先発して軍を進めて故国原王率いる高句麗軍本隊と交戦を繰り広げ、その間に後続の慕容皝本隊が到着すると、左常侍鮮于亮らと共に総攻撃を仕掛けて大勝を挙げた。さらに前燕軍は勝ちに乗じて追撃を掛け、高句麗の都である丸都を陥落させると、5万の兵を捕虜とし、宮殿を焼き払い丸都城を破壊してから軍を帰還させた。

344年2月、慕容皝が宇文部討伐の為に親征を行うと、慕容垂は慕容恪・広威将軍慕容軍(慕容皝の弟)・折衝将軍慕輿根らと共に別動隊を率いて三道に分かれて進軍した。宇文部の南羅大渉夜干は精鋭を率いてこれを迎え撃ったが、先鋒部隊の慕容翰は自ら出撃して交戦を行い、さらに慕容垂が傍らよりこれに加勢し、共に渉夜干軍を撃破してその首級を挙げた。これを見た宇文部の兵卒は恐れ慄いて戦わずして崩壊し、前燕軍は勝ちに乗じて追撃を掛け、勢いのままに都城を攻略した。こうして宇文部は滅亡し、この戦勝により前燕は領土を千里余り広げた。

今回の功績により、慕容垂は都郷侯に封じられた。

345年11月、後趙の将軍鄧恒は数万の兵を擁して楽安に駐屯し、攻城具を準備して前燕領の徒河へ侵攻する準備を行った。これを受け、慕容皝は慕容垂を平狄将軍[2]に任じ、徒河の鎮守を命じた。慕容垂が赴任すると、鄧恒はその威名を恐れ憚り、遂に攻め入る事は無かった。

慕容儁の時代

中原進出を説く

348年11月、慕容皝がこの世を去り、兄の慕容儁が燕王の位を継いだ。

349年5月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに皇族同士が後継の座を争って殺し合うようになり、中原は大混乱に陥った。慕容垂はこの状況を中原進出の絶好機と考え、慕容儁へ「石虎の凶暴残虐な様は極まっており、天すらもこれを見捨てました。僅かに残った子孫も、魚の如く互いの肉を食い合っております。今、中国は倒懸(逆さまに吊るされる事)する程の苦しみを味わっており、みな仁恤(憐れんで情けを掛ける事)を待ち望んでおります。もし大軍で一撃を与えれば、その勢いで必ずや征伐出来るでしょう」と上書し、後趙征伐を訴えた。だが、慕容儁はまだ慕容皝の喪中であった事から、これを認めなかった。

その為、慕容垂は任地である徒河を離れて自ら国都の龍城を詣でると、直接慕容儁へ「得難くして失い易いのが時というものです。万一石氏が衰弱から再興したならば、あるいは他の英雄がこれに取って代わったならば、ただ大利を逃すのみならず、後患が怖ろしくなりましょう」と訴え、改めて出兵を請うた。これに慕容儁は「中で乱が起こったといえども、鄧恒が安楽(現在の北京市順義区の北西)に拠っており、その兵は強く兵糧も充足している(鄧恒は後趙の征東将軍であり、当時前燕との国境の最前線である安楽を守備していた)。今もし趙を討とうとしても、東道は通れまい。そうなれば盧龍を通るしかないが、盧龍山は険しく道が狭い。虜(蛮族の事。ここでは後趙を指す)どもに高所を取られてしまえば、全軍の煩いとなる。これをどう考える」と問うと、慕容垂は「鄧恒が石氏の為に我らを阻もうとも、その将兵は郷里へ帰りたがっております。大軍で臨んだならば自ずと瓦解する事でしょう。臣(慕容垂)は殿下(慕容儁)の為に前駆となって東へ進み、徒河から密かに令支(現在の河北省唐山市遷安市の南西)まで赴き、その不意を衝きます。これを聞けば奴らは必ずや震駭し、上は城門を閉じて籠城することも出来ず、下は城を棄てて逃潰することしょう。どうして我を阻むことなど出来ましょう!そうすれば殿下は安全に進軍することが出来、難を留めることもないでしょう」と答えた。折衝将軍慕輿根もまた「王子(慕容垂)の言は千載一時(またとない好機)です。失するべきではありません」と進言し、さらに他の群臣もみな中原奪取を強く請うたので、慕容儁は遂に出征を決断した。慕容垂は前鋒都督・建鋒将軍に任じられ、出陣に際しては軍の先鋒を務めるよう命じられた。

出征開始

350年2月、慕容儁は遂に計画を実行に移し、自ら大軍勢を率いて征伐を決行した。慕容垂は別動隊2万を率いて東道より徒河へ進み、三陘まで到達した。安楽を守備する後趙の征東将軍鄧恒は慕容垂の到来を大いに恐れ、倉庫を焼き払って安楽から撤退し、後趙の幽州刺史王午と合流して薊城に籠った。慕容垂は徒河魯口南部都尉孫泳を安楽城へ急行させ、消火を行って穀物や絹布を保護させた後、自らもまた遅れて安楽に入城した。その後、北平郡の兵糧を確保した上で再び出撃し、臨水[3]へ進んで慕容儁本隊と合流した。

3月、前燕軍は無終へと軍を進め、薊城へ逼迫した。王午は将軍王佗に数千の兵を与えて薊城の守備を任せると、自らは鄧恒と共に逃亡して魯口まで撤退した。前燕軍は薊へ到達するやすぐさま城を攻め落とし、王佗を捕らえて処断した。この時、慕容儁は捕らえた敵兵千人余りを尽く生き埋めにしようとしたが、慕容垂はこれを諫めて「趙(後趙)が暴虐であるから王師(王の軍勢)がこれを討伐しているのですぞ。まさに今、泥にまみれ火に焼かれるような苦しみから民を救い出し、中州を慰撫しようとしている所なのです。それなのに、始めて薊城を陥としたばかりでもう士卒を生き埋めになさろうとする。これでは王師の名声など貰えませんぞ」と訴えたので取りやめた。これ以降、中原の民は次々と前燕の下に集うようになり、幽州の大半の地域が前燕に靡いた。

同月、前燕軍は次いで范陽まで進出し、さらに翌月には鄧恒・王午の守る魯口へ向けて進撃した。清梁まで到達した時、鄧恒配下の将軍鹿勃早が数千の兵で夜襲を仕掛け、その半数が前燕の陣営へ侵入した。彼らはまず慕容垂の陣へ突入したが、慕容垂は奮戦して自ら10人余りの兵を殺して敵軍の進撃を食い止めた。これにより、前燕軍はその隙に防備を整えることが出来、慕容儁は宿衛を離れて高い丘の上へ避難する事が出来た。その後、折衝将軍慕輿根・内史李洪が精鋭数百人を率いて鹿勃早軍を撃ち破って敗走させ、前燕軍はこれを40里余りに渡って追撃し、数千の兵をほぼ全滅させた。こうして勝利を収めたものの、慕容儁は敵軍が未だ強勢であると判断し、薊まで一時撤退した。

呉王に封爵

352年4月、慕容垂は繹幕において数万の兵を擁していた段勤(既に滅亡した段部の大人段末波の子)の討伐に向かった。軍を進めて繹幕まで到達すると、段勤は弟の段思と共に城を挙げて降伏した。

同年11月、群臣500人の勧めを受けて慕容儁が帝位に即くと、慕容垂は給事黄門侍郎に任じられた。353年12月、使持節・安東将軍・北冀州刺史に昇進し、常山の防衛を命じられた。

354年4月、呉王に封じられた。また、信都の統治を命じられ、任地に赴いた。

治績を上げる

程なくして侍中・録留台尚書事に改任され、前燕の旧都である龍城を鎮守する事となったが、その優れた統治により東北(遼西・遼東一帯を指す)の民から絶大な支持を得るようになった。その後、中央へ帰還した。

やがて征南将軍・荊兗二州に任じられて任地に赴くと、ここでも大いに治績を挙げ、梁・楚の南方までその名声は響き渡った。その後、再び中央に呼び戻されたが、既にその名望により朝廷でも一目置かれる存在となっており、王公以下の群臣で彼に追従しようとしない者はいなかったという。また時期は不明だが、撫軍将軍にも任じられた。

357年5月、中軍将軍慕輿虔・護軍将軍平熙らと共に歩兵・騎兵合わせて8万を率い、塞北(北の国境の外側)に割拠している丁零討伐に向かった。慕容垂らは軍を進めてこれを大破し、討ち取るか捕らえた者は10万を超え、鹵獲した馬は13万匹、牛羊は数え切れぬ程であった。

同年12月、東夷校尉・平州刺史[4]に任じられ、遼東を鎮守するよう命じられた。

359年12月、慕容儁は病を発して床に伏せるようになると、慕容垂を任地の遼東より鄴に呼び戻した。

慕容暐の時代

慕容恪の執政

360年1月、慕容儁が崩御して嫡男の慕容暐が帝位に即いたが、彼はまだ幼かったので太宰録尚書事となった慕容恪が朝政を主管するようになった。

3月、慕容垂は使持節・征南将軍・都督河南諸軍事・河南大都督・南蛮校尉・兗州牧・荊州刺史に抜擢され、東晋との国境に近い梁郡睢陽県の蠡台の鎮守を任された。

365年2月、慕容恪と共に当時東晋の領土であった洛陽へ侵攻した。3月、慕容垂らは金墉城(洛陽城の東北にあり、防衛上の拠点となる城)を陥落させ、守将である寧朔将軍竺瑶を襄陽へ敗走させ、もう一人の守将である東晋の冠軍長史沈勁沈充の子)を捕らえて処刑した。こうして洛陽全域を手中に収めた。

その後、慕容垂は都督荊揚洛徐兗豫雍益涼秦十州諸軍事・征南大将軍・荊州牧に任じられ、兵1万を率いて洛陽のすぐ南に位置する魯陽(現在の河南省平頂山市魯山県)の防衛に当たった。

367年4月、慕容恪は病に倒れてこの世を去った。彼は死ぬ間際、慕容垂を大司馬(軍部の最高司令官)に任じるよう遺言したが、太傅慕容評の意向により実行される事は無かった。

これ以降、国政の実権は慕容評と皇太后の可足渾氏が握るようになった。

枋頭の戦い

368年2月、侍中・車騎大将軍に昇進し、儀同三司(儀礼の格式が三公と同格)の特権を与えられた。

369年4月、東晋の大司馬桓温が前燕征伐の兵を挙げた。前燕の諸将は各地で桓温軍に敗戦を重ね、下邳王慕容厲や楽安王慕容臧の率いる主力軍でも全く抗する事が出来ず、遂に東晋軍は枋頭(現在の河南省鶴壁市浚県の南東)まで到達した。7月、慕容評はこれを大いに恐れ、慕容暐を伴って鄴を離れて旧都である龍城まで後退しようとしたが、慕容垂は進み出て「臣が迎撃いたします。もしも勝てなければ、それから逃げても遅くありません」と訴えた。これにより、慕容臧に代わって慕容垂は使持節・南討大都督に任じられ、征南将軍慕容徳を始めとした5万の将兵を従えて桓温を迎え撃った。この時、慕容垂は上表し、司徒左長史申胤・黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰をいずれも参軍従事として配下につけた。

8月、まず悉羅騰を差し向けて桓温軍の前鋒を攻撃し、嚮導(行軍の案内役)である段思を捕らえた。さらに悉羅騰と虎賁中郎将染干津に命じて魏・趙方面へ侵攻していた桓温配下の将軍李述を攻撃させ、これを撃ち破って桓温軍の士気を削いだ。9月、慕容徳に騎兵1万を、蘭台治書侍御史劉当に騎兵5千を与えて石門に駐屯させ、水路での糧道を遮断させた。さらに豫州刺史李邽[5]に五千の兵を与えて陸路での糧道を遮断させた。これにより兵糧の運搬が滞り、次第に東晋軍の兵糧が底を突き始めた。また、慕容徳軍の前鋒である慕容宙は敗走した振りをして東晋軍を誘き寄せ、伏兵により奇襲を仕掛けて大打撃を与えた。

桓温は次第に戦況が不利となり、兵糧が不足しているのに加え、さらに前秦から援軍が到来しているとの報を受けたので、攻勢を諦めて陸路で退却を始め、東燕より倉垣へ出て700里余りを進んだ。前燕の諸将は先を争ってこれを追撃しようとしたが、慕容垂は「そうすべきではない。温(桓温)は退却開始時(に攻撃を受ける事)を大いに恐れており、必ずや備えを厳重にし、精鋭を選んで後詰としているだろう。これを撃っても必ずや志を得る事は出来ない。まずはこれを緩めるべきだ。そうすれば彼らは我が軍が至っていないのを幸いとし、必ずや昼夜問わずに急いで退却するだろう。その士衆が疲弊して気が衰えるのを待ち、然る後に撃つのだ。これで勝てぬ訳がない」と述べると、騎兵八千を率いて徐行しながらも桓温軍の後を追った。桓温が果たして撤退の速度を速めると、数日してから慕容垂は諸将へ「温を討つべき時が来た」と宣言し、これを急追して襄邑で追いついた。この時、慕容徳には先んじて軽騎4千を与えて間道より進ませ、襄邑の東の谷川に兵を潜伏させており、慕容垂は慕容徳軍と共に東晋軍を挟撃して3万を討ち取る事に成功した。こうして東晋軍は総退却する事となった。

慕容評との対立

慕容垂が襄邑から鄴へ帰還すると、桓温撃退の功績によりその威名は大いに轟くようになった。だが、慕容評はもともと声望が高い慕容垂の存在を快く思っておらず、この一件により益々忌避するようになった。また、慕容垂は上奏して「今回募った将士はみな命がけで功績を建てました。特に将軍孫蓋らは精鋭と戦って強固な敵陣を陥しました。どうか厚い恩賞を賜りますよう」と請うたが、慕容評はこの請願を握りつぶした。これ以降も慕容垂は幾度もこの事を要請したので、遂に慕容評と朝廷で言い争うようになった。可足渾皇太后もまたかねてより慕容垂を疎ましく思っており、今回の戦功を不当に引き下げていた。遂に両者は共謀し、慕容垂の排斥を企むようになった。

慕容恪の子の慕容楷と慕容垂の母の兄の蘭建はこれを知り、慕容垂へ「先んじて発すれば、人を制する事が出来ます(他者より先に行動を起こせば、より有利な立場に立つ事が出来るという事)。ただ評(慕容評)と楽安王臧(慕容臧)を除くだけでよいのです。残りは何も為す事は出来ますまい」と告げ、政変を起こす事を勧めたが、慕容垂は「骨肉(親族同士)で殺し合うのは国の一番の乱である。我はたとえ死そうともそのような事は出来ぬ」と述べ、応じなかった。しばらくして、二人はまたも慕容垂へ「内(可足渾皇太后)は既に(慕容垂誅殺を)決意したようです。早く発するべきです」と訴えたが、慕容垂は「もはや弥縫(一時的に取り繕う事)する事は出来ぬのか。それならば我は外に出てこれを避けるのみだ。他の考えを議論するつもりはない」述べ、鄴から脱出して災いを避ける事とした。

だが、慕容垂は内心まだ悩んでおり、この事を諸子へ話せなかった。世子の慕容令は父の様子を見て「この頃、尊(父君)の顔色に憂いが見られます。太傅(慕容評)は主上(慕容暐)が幼沖である事につけ込み、賢人を妬んでおります。(慕容垂が)功績を挙げて名望が高まった事で、その恨みがますます表れているのではありませんか」と尋ねると、慕容垂は「その通りだ。我は力を尽くし命を掛けて強寇(東晋軍)を破ったが、これはもとより家国の保全を思ったからこそだ。それが功を成し遂げた後で、身の置き所を無くさせられるとは思わなかった。汝は既に我が心を知っているようだが、どう謀を為すかね」と問うた。これに慕容令は「主上は闇弱であり、太傅に委任しております。一度禍が発すれば、その煩いはすぐさま駆け巡りましょう。今、一族を保ちつつ大義も失わぬ為には、龍城へ逃げるほかありません。そこで遜って謝罪し、主上が察してくれるのを待つのです。周公も東へ居を構えましたが、(主君の)感悟により帰還を許されました。これこそ大いなる幸いです。もしこれがうまくいかなければ、内は燕(平州)・代(并州北部)の諸城を撫し、外は群夷(諸々の異民族)を懐け、険阻なる肥如を守って自立するのです。それが次の策でしょう」と勧めると、慕容垂は「善し!」とこれに同意した。

前秦へ亡命

11月1日、慕容垂は大陸沢(現在の河北省邢台市にかつて存在していた湖)で狩猟がしたいと願い出た上で、平服のまま鄴を出奔し、そのまま龍城へ急行した。この時、段夫人、世子の慕容令、その弟の慕容宝・慕容農・慕容隆・慕容馬奴・慕容麟、慕容恪の子の慕容楷、蘭建、郎中令高弼も同行させたが、妃の可足渾氏だけは鄴に留めた。だが、邯鄲まで到達した所で、慕容垂から寵愛を受けていなかった末子の慕容麟が脱走を告訴してしまった。これにより、慕容垂の側近は多数が逃散してしまった。これを聞いた慕容評は慕容暐へ報告すると共に、西平公慕容強に精鋭兵を与えて追撃を命じた。慕容強は范陽まで到達したものの、慕容令が後詰として厳重に備えていたので、それ以上近づく事が出来なかった。

日が暮れると、慕容令は慕容垂へ「本来は東都(龍城)を保って安全を確保したかったのですが、今、事は既に漏れてしまい、謀を設けるにも及びません。秦主(前秦の苻堅)は英傑を招延しているそうですから、これに帰順した方が良いでしょう」と勧めた。慕容垂はその方針に同意して「今日の計はここに捨て置き、自らを安んじるものとする!」と述べ、騎兵を分散させてその痕跡を消しながら、南山の傍らより鄴の方向へ再び戻った。

また、慕容令は慕容垂へ「太傅は名望・才能ある者を妬み、事を構えて以來、人々は大いに憤恨しております。今、鄴城の中に尊(父君)の身の置き所は無く、嬰児(赤子)を思う母のように、夷・夏(異民族と漢民族)問わずこれに同情しております。もし衆の心に順じ、その無防備な所を襲えば、掌を指すが如く容易くこれ(鄴)を取れるでしょう。事が定まった後、悪い制度を見直して改め、朝政を大いに正し、主上を輔けるのです。そうすれば国は安まり家は存続し、その功は大いなるものとなりましょう。今日の機会は誠に失するべきではありません。願わくば騎兵数人を給わりください。これをもって対処するには充分です」と告げ、方針を転換して鄴を奇襲するよう勧めた。だが、慕容垂は「もし汝の謀に従えば、事が成れば誠に大福となろうが、成せなくば悔いても及ばぬぞ!西奔(西の前秦へ亡命)したほうがよい。万全をもって可とするものである」と述べ、この意見を退けた。

この時、子の慕容馬奴は密かに慕容垂に背いて逃げ帰ろうとしたので、これを誅殺してから西へ進んだ。

黄河まで到達すると、津吏から渡河を禁じられたが、これを斬り殺して渡った。遂に洛陽まで到達すると、そのまま西へ進んで前秦へ亡命した。

乙泉塢の塢主である呉帰は亡命途上の慕容垂らを討伐しようと目論み、閿郷(弘農郡湖県にある)まで追撃したが、慕容令がこれを返り討ちにして退散させた。

前秦の時代

苻堅に帰順

かつて太宰慕容恪が亡くなった時、苻堅はこれを好機として前燕併呑を目論んだが、慕容垂の威名を憚って手を出す事が出来なかった。その為、苻堅は慕容垂の亡命を聞いて大喜びし、自ら出迎えるとその手を執って「天は賢傑(才知が傑出している人物)を生んだか。必ずや互いに協力して大功を成すべきであり、これこそ自然の定めである。卿(慕容垂)と共に天下を定めたならば、岱宗(泰山)へ事業の完遂を告げ(封禅)、然る後に卿を本国(郷里である遼西・遼東地方)へ還し、代々幽州に封じよう。そうすれば、卿は国を去った事による子としての孝を失う事もなく、君主への忠も失う事なく朕に帰する事が出来よう。なんと美なる事か!」と語ると、慕容垂は感謝して「羈旅(流亡)の臣とは、罪を免じられるだけでも幸いなのです。本国での栄誉など、どうして望みましょうか!」と答えた。

苻堅はまた慕容令や慕容楷の才覚も愛しており、いずれも礼をもって厚遇し、巨万の富を下賜し、いつも進見する度に属目してこれを見守った。関中の士民もまた、かねてより慕容垂父子の名を聞き及んでいたので、みな彼らを慕ったという。慕容垂は冠軍将軍に任じられ、賓徒侯に封じられた。また華陰の五百戸を食邑とした。

王猛の暗躍

こうして慕容垂らは前秦に仕える事になったものの、宰相の王猛だけは慕容垂の才覚や名望を危険視しており、度々苻堅へ誅殺を勧めていた。苻堅はこれを聞き入れなかったが、王猛は必ずやその存在が災いとなると思い、機を見て除かんと考えていた。

11月、王猛は建威将軍梁成洛州刺史鄧羌と共に3万の兵を率いて前燕領の洛陽へ侵攻し、370年1月には洛州刺史慕容筑を降伏させて洛陽を占拠した。

王猛が長安を出発するより前の事、彼は慕容令を参軍事に任じて征伐に従軍させるよう要請し、軍の嚮導(行軍の案内役)とした[6]。さらに、出発間際には慕容垂の下を訪れて酒を酌み交わし、落ち着いた様子で慕容垂へ「我はこれから広く東夏の地(中国の東側)を清めんとしている。これから遠く別れる事となるが、卿は何か贈り物は持っていないかね。その人を偲ぶ事が出来るような物だと有難い」と述べ、餞別が欲しいと申し出た。その為、慕容垂は身に着けていた刀を外して手渡した。その後、王猛は洛陽を攻略すると、入城した折に慕容垂の知人である金熙という人物を買収し、慕容垂からの使者と偽らせて慕容令の下へ差し向けた。そこで金熙は慕容令へ向け、慕容垂からの伝言として「我ら父子がここに来たのは、死から逃れる為である。今、王猛からは仇のように妬まれ、その讒毀は日ごとに深くなっている、秦王は表向き厚善してくれてはいるが、その心を知る事は難しい。丈夫が死から逃れようとし、それも出来ずにこの世を去るなど、まさに天下の笑いものである。我は東朝(前燕朝廷)が最近(我々の亡命に)悔悟しており、主(慕容暐)と後(可足渾皇太后)が互いに非難しあっていると聞いた。我は今、東(前燕)へ還る事にした。故に汝にも告げたのだ。我は既に行動を起こしているから、速やかに発するように」と、嘘の言葉を伝えさせた。慕容令はこれが真実かどうか疑い、終日躊躇したが、王猛は金熙に慕容垂から貰った刀を渡していたので、慕容令はこれを見て遂に信用した。そして、狩猟に出ると偽って城を脱出すると、前燕の楽安王慕容臧が統治する石門へ亡命した。

これを受け、王猛は慕容令が謀反を起こしたと上表し、連座により慕容垂をも除こうとした。これを聞いた慕容垂は自らにも禍が及ぶと恐れて東へと逃亡を図ったが、藍田で追手に捕まってしまい、長安へ送還された。

苻堅は慕容垂と東堂で引見すると、彼を労って「卿は家国との和を失い、朕に投じてその身を委ねてきた。その賢子(慕容令)が本(故郷)を忘れられず、首丘を懐かしんだとしても、それは各々の志であり、深く咎めるには足りぬ。しかし、燕はまさに滅亡を迎えており、令(慕容令)がこれを存続させることは出来まい。自ら虎口へ入っていった事を惜しむばかりだ。ただ、父子兄弟といえども罪は互いに及ぶものではない。卿はどうしてこのように懼れ、狼狽する事があろうか!」と述べ、慕容垂へ一切罪を問わず、爵位を復活させて以前と変わらぬ待遇で接した。

慕容令は前燕に亡命したものの、慕容垂が変わらず前秦で厚遇されている事から内通を疑われ、龍城のさらに東北にある沙城へ移されて厳重に監視された。その後、反乱を起こして龍城を襲撃するも失敗してしまい、誅殺された。

前燕滅亡

370年5月、苻堅は前燕征伐を大々的に敢行すると、王猛を総大将に任じ、楊安張蚝・鄧羌ら10将と歩兵騎兵合わせて6万の兵を与えて出撃させた。前燕軍はこれを迎え撃つも連戦連敗を喫し、要地である壷関晋陽は瞬く間に陥落し、慕容評率いる30万の軍も潞川において大敗を喫し、10月には首都である鄴も包囲された。

11月、苻堅は自ら10万を率いて長安より出撃し、慕容垂もまたこれに従軍した。彼らは鄴を包囲中の王猛軍と合流を果たし、共に城を攻め立てて同月の内に陥落させた。慕容垂は苻堅に従って入宮すると、鄴に残してきた諸子と再会し、互いに涙を流し合った。この時、慕容評は鄴を脱出して遼東まで逃走を図っていたが、捕縛されてしまい長安へ送還された。だが、苻堅はこれを罪には問わず、給事中に任じた。君主の慕容暐もまた捕縛されたが、罪を許されて将軍として取り立てられた。

373年、慕容垂は京兆尹に任じられ、泉州侯にも封じられた。以降、本格的に各地の征伐にも従軍するようになり、大いに大功を挙げる事となる。

襄陽攻略

378年2月、長楽公苻丕・尚書慕容暐・武衛将軍苟萇は歩兵騎兵7万を率い、東晋領の襄陽へ侵攻した。慕容垂もまた揚武将軍姚萇と共に5万の兵を与えて南郷より出撃し、苻丕らの加勢に向かった。

4月、慕容垂は南陽へ侵攻し、これを攻略して太守鄭裔を捕らえた。その後、襄陽城を包囲していた苻丕軍に合流した。襄陽の守将である梁州刺史朱序は奮戦して城をよく守ったので、前秦軍は大いに苦しめられたものの、379年2月には遂に陥落させて朱序を捕らえる事に成功した。

東晋征伐を説く

382年、苻堅は東晋征伐に強い意欲を燃やしていたが、群臣からは再三に渡り反対されていた。その中にあって、慕容垂は進み出て「陛下の徳は軒(黄帝)・唐()にも等しく、その功はを超え、その威沢(威勢と恩沢)は八表(世界)を被っており、遠夷(遠方の異民族)は重訳(言葉が通じない為、幾度も翻訳する事)してまで帰順の意を示しております。司馬昌明(東晋の孝武帝司馬曜)は燃え残りのような資(地位)にしがみつき、王命(苻堅の降伏命令)を拒んでおります。これを誅さなければ、法は安寧となりましょうか!かつて孫氏は江東に跨って僭称しましたが、最後には晋に併呑されました。その勢いの差は歴然です。臣が聞くところによりますと、小は大に敵わず、弱は強を御す事はないといいます。ましてや大秦は符に応じており、陛下には聖武があり、百万の強兵を有し、韓白(韓信白起)のような才が朝廷に溢れ、偸魂(東晋)に仮号を命じております。それなのにどうして子孫の代までこの賊どもを遺しておけましょうか!詩には『築室于道謀、是用不潰于成(多数の人間が好き勝手に意見を言い合えば、小さな小屋すら造るのは難しいという諺)』とあります。陛下は神謀を決断されたのですから、朝臣に広く尋ねて聖慮(皇帝の決めた考え)を乱すべきではありません。昔、晋武(西晋の武帝司馬炎)が呉を平定した時、これに賛同した者は、張杜(張華杜預)のほか数人の賢人だけでした。もし群臣の言に耳を貸していれば、不世の功を立てる事が出来たでしょうか!諺には『憑天俟時、時已至矣、其可已乎!(天に拠って時を待ち、時が既に至っていれば、どうしてそれを止めようか!)』といいます」と述べた。苻堅はこれに大いに喜んで「我と天下を定める者は、卿一人である」と述べ、帛五百匹を下賜した。

これ以降も慕容垂は、姚萇らと共にいつも苻堅へ、呉(東晋)の平定や封禅の事(天下統一後に行う天地への祭祀)について説いていた。苻堅はますます江南攻略に意欲を燃やすようになり、この事について夜通しで語り合ったという。

桓沖撃退

383年5月、東晋の車騎将軍桓沖は前秦征伐の兵を挙げ、10万を率いて襄陽へ侵攻し、さらに前将軍劉波・冠軍将軍桓石虔・振威将軍桓石民らを派遣して沔北の諸城を攻撃した。6月、桓沖軍の別動隊が万歳・築陽を攻撃し、これらを陥落させた。苻堅の命により、慕容垂は鉅鹿公苻叡・左衛将軍毛当と共に歩兵・騎兵併せて5万を率いて襄陽救援に向かった。苻叡軍が新野へ、慕容垂軍が襄陽郡鄧城県まで軍を進めると、桓沖は沔南まで後退した。7月、慕容垂は驍騎将軍石越と共に軍の前鋒となり、沔水まで進んだ。そして夜になると、軍の兵士全員に十本の炬火を持たせ、樹の枝に括り付けさせた。これにより光が数十里を照らし、これをみた桓沖は大軍が迫っていると恐れ、上明まで撤退した。

東晋との決戦

東晋軍が撤退すると、遂に苻堅は大軍を挙げて東晋征伐を敢行する詔を下すと共に、大々的に徴兵を行って準備を推し進めた。但し、朝臣はみな苻堅の出征を望んでおらず、賛成していたのは慕容垂・姚萇と貴族の子弟(若年の者の中には戦功を挙げて名を上げたいと願う者が多かった)のみであった。

8月、苻堅は東晋攻略を決行すると、陽平公苻融が歩兵・騎兵併せて総勢25万を率いる前鋒軍の総大将となり、慕容垂は諸将と共にその傘下に入った。苻堅自らもまた戎卒60万余りと騎兵27万を率いて後軍となった。前秦軍の襲来に東晋は震えあがり、朝廷は尚書僕射謝石を征虜将軍・征討大都督に、徐兗二州刺史謝玄を前鋒都督に任じて兵8万を与え、輔国将軍謝琰・西中郎将桓伊らと共に迎撃させた。また。龍驤将軍胡彬に水軍5千を与え、寿春を救援させた。

9月、前鋒軍はまず潁口(潁河が淮河に合流する場所)へ到達し、10月には寿春へ侵攻すると、これを陥落させて東晋の平虜将軍徐元喜・安豊郡太守王先を捕らえた。また、慕容垂は単独で別動隊を率いて鄖城(江夏郡雲杜県東南にある)を攻略し、東晋の将軍王太丘の首級を挙げた。

11月、東晋の龍驤将軍劉牢之は洛澗を遮断していた衛軍将軍梁成・揚州刺史王顕弋陽郡太守王詠らの軍を撃破し、1万5千の兵を討ち取った。これにより、謝石は水陸両方から進軍を開始したが、淝水の南岸において前秦の驃騎将軍張蚝に敗れた。その後、前秦軍は北に引いて淝水の近くに陣を布いたので、両軍は淝水を挟んでにらみ合いの状態となった。

苻堅は軍を後退させる振りをして東晋軍を河に誘い出そうとしたが、東晋からの降将である尚書朱序が寝返って陣の後方より大声を挙げて「秦兵は敗れた!」と叫び回ったので、東晋軍が近づいても後退に歯止めが利かなくなってしまった。東晋軍は渡河を果たすと前秦軍へ突撃を掛け、前秦は記録的な大敗を喫し、混乱により味方に踏み潰された死体が野を覆い川を塞いだ。

苻堅を護衛

苻堅もまた流れ矢に当たって負傷し、単騎で淮北まで逃走したが、食料もなく飢えに苦しんだ。この時、前秦の諸軍は尽く壊滅していたが、ただ慕容垂率いる3万の兵だけが陣営を全うしていた。その為、苻堅は千騎余りを伴って慕容垂の陣に逃げ込んだ。

世子の慕容宝は慕容垂へ「かつて家国(前燕)は傾覆し、皇綱は廃弛してしまいました。至尊(慕容垂)は天からの符命を著らかにして聖明なる命を下し、中興の業を隆起させ、少康の6代帝)の功績を建てるべき存在です。天命・人心はいずれも至尊(慕容垂)に帰しております。これまで時運だけが至っておらず、故にその志を見せずに隠し、奮う時を待っておられました。今、天は(苻堅の)乱徳を厭い、衆が土崩するのを憂えております。その為、上天は神機(壮大な考え)を啓示し、これを我らに授けられたのです。今、秦主(苻堅)の兵は敗れ、我らにその身を委ねております。これは燕祚を復興せよという天からの報せでなのです。この千載一時の好機を失ってはなりません。皇天の意思を恭しく承り、これを取るべきです。それに、そもそも大きな功績を立てる者は小さな節を顧みず、大きな仁を為す者は小さな惠みにはとらわれぬものです。秦は既に二京(前燕の都であった鄴・龍城)を盪覆(転覆)させ、神器(皇帝の器物)を辱めました。この仇恥は深く、比べられるものがありません。願わくば信念や微恩(苻堅から受けた恩)などといったものに囚われ、社稷の重みを忘れる事のありまえせんよう!五木の祥(五木とは樗蒲の道具。慕容宝はかつて長安にいた頃、樗蒲において今後の吉凶を占い、三度とも最高の目である盧が出た為、これを瑞祥とした)は、今至っているのです」と述べ、苻堅の誅殺を勧めた。だが、慕容垂は「汝の言葉は正しい。しかし、彼は赤心(嘘偽りの無い心)をもって我にその命を投じてきたのだ。これをどうして害したりできようか!それにもし天が見捨てたのであれば、これを図る事などいくらでも出来よう。どうしてその存亡を患う必要があるのか。徳に報いるためにも危機から保護すべきであり、命に従って北に戻るのだ。そして静かに好機を待ち、(自立を)図るべきである!既に宿心(かねてよりの考え)など担ってはおらぬ。ただ、天下は義をもって取るべきであろう」と述べ、これを退けた。

さらに奮威将軍慕容徳もまた「そもそも隣国同士がを併呑しあうのは自然の道理です。秦は強かったが故に燕を併呑しました。そして今、秦が弱いが故にこれを図るのです。これは仇に報いて恥を注ぐものであり、宿心を担う事とは話が違います!昔、鄧の祁侯は三甥(鄧の大臣である騅甥・聃甥・養甥)の進言に耳を傾けず、に滅ぼされました。王の夫差は子胥(伍子胥)の諫言に背いた為、禍を勾践より受ける事となりました。前事を忘れず、後事の師表(手本)とするのです。願わくは、湯武(殷の湯王・周の武王)の成した足跡を棄てず、韓信の敗北の鉄を踏まざる事を。彼方の土崩に乗じ、天罰を恭行し、逆氐(苻堅)を斬り、宗祀を復し、中興を建て、洪烈(大いなる功業)を継ぐのです。これは天下が与えた絶好の機会であり、失してはなりません。兄はどうして(その機会を)得ておきながら取ろうともせず、却って数万の衆を(苻堅へ)授けようというのですか。もし、これを解放して兵権を授けてしまえば、天の時に背くばかりか、後に害をもたらしましょう。これがどうして至上の計でありましょう。『当断不断、反受其乱(断ずべき時に断じなければ、かえってその乱を受ける)』とも言います。願わくば兄上が疑いませぬよう」と説いたが、慕容垂は「我はかつて太傅(慕容評)により容れられず、身の置き所が亡くなり、死の危機から逃れて秦へ来たのだ。秦主(苻堅)は国士として我を遇し、その恩礼は行き届いていた。後にまた王猛により責められる事となり、自ら釈明する事も出来なかったが、秦主だけは理解してくれた。この恩をどうして忘れてもよいだろうか!未だその徳の十分の一も報いてはおらぬ。もしの運が必ず窮し、暦数(運命)が我に帰するというのであれば、ここで授首(斬首)しない事を患う必要など無いであろう。関西(函谷関以西を指す。関中と同義)は我が有する地ではない。我は関東の地(函谷関以東)で衆を集めて撫し、端拱(清廉・倹約をもって統治する事)して関東を定め、先業(先代からの事業)を服すのみだ。君子とは、乱に乗じて禍を為さないものだ。ここは、静観すべきである」と述べ、苻堅の郷里である関西の地は手を出さない事を示した。

冠軍行参軍趙秋もまた「明公(慕容垂)はまさに燕祚(燕の皇帝)を継承する立場にあり、これは図讖(予言書)においても顕著に表れております。今、天時は既に至っているというのに、それでもまだ何を待っているのでしょうか!もし秦主(苻堅)を殺して鄴都に拠り、鼓行して西へ向かえば、三秦(関中)すらもまた苻氏の有するものではなくなりますぞ!」と訴えた。

その他の側近も大半が苻堅を殺害するよう勧めたが、慕容垂はこれを一切聞き入れず、苻堅から受けた大恩に報いるために自らの束ねる兵の指揮権を全て苻堅に返上した。

権翼からの刺客

その後、苻堅は敗残兵をかき集めながら退却し、洛陽まで至った。兵は10万余りが集まり、百官・威儀・軍容もほぼ元通りの陣容となった。

この時、慕容農は慕容垂へ「尊(慕容垂)は危機につけこんで人(苻堅)に迫る事はありませんでした。その義声は天地を感動させるには充分です。この農が聞くところによりますと、秘記には『燕は河陽(洛陽のすぐ傍)にて復興する』との記述があります。そもそも未熟な果実を自ら取るのと、落ちるのを待つのでは、旬日(10日)も変わりません。しかしながら、その難易や美悪は甚だ違っておりましょう!」と述べ、行動を起こすよう勧めた。慕容垂は内心これに同意した。

そこで澠池に到着した時、苻堅へ「北の辺境の民(丁零の翟斌)は王師(前秦軍)の敗報を聞き、不穏の動きをしております。臣が詔書を奉じてこれに赴き、鎮慰・安集させる事を請います。また、併せて陵廟にも拝謁させていただきますよう」と請うと、苻堅はこれを許した。

前秦の尚書右僕射権翼は慕容垂の離反を懸念してこれに頑強に反対したが、苻堅は聞き入れずに将軍李蛮・閔亮・尹固に3千の兵を与えて慕容垂を送らせた。だが、権翼は密かに壮士を派遣して河橋南の空倉の中に忍ばせ、慕容垂を襲撃せんと画策した。だが、慕容垂はこれを予知しており、涼馬台(現在の河南省洛陽市孟津県の南西)より草を結った筏で黄河を渡らせると、典軍程同に自らと同じ衣装を与え、馬に乗って僮僕(下僕)と共に河橋へ向かわせた。すると予想通り伏兵が現れたが、程同は馬を馳せて逃げ果せた。

前秦からの離反

12月、慕容垂は安陽へ到着すると、参軍田山に書を与えて鄴を守る長楽公苻丕の下へ派遣した。苻丕は慕容垂の到来を聞いて造反を疑ったが、それでも自らこれを出迎えた。趙秋は慕容垂へ、宴会の席で苻丕を捕らえ、鄴に拠って挙兵するよう勧めたが、慕容垂は従わなかった。苻丕もまた慕容垂の襲撃を目論んだが、侍郎姜譲は臣下の独断で行うべき事ではないとして、相手の動向を探ってから判断するよう勧めた。苻丕はこれに従って慕容垂に鄴の西に宿泊する事を認め、慕容垂は苻丕と面会すると淮南での敗戦について詳細報告を行った。この時、慕容垂は前燕の旧臣達と密かに連絡を取り合い、燕の復興計画を進めた。

当時、丁零である前秦の衛軍従事中郎翟斌が河南において反乱を起こしており、豫州牧・平原公苻暉の守る洛陽を攻めんとした。そこで、苻堅は宿駅を介して慕容垂へ書を送り、翟斌の討伐を命じた。苻丕もまたこの命令を受け、慕容垂を呼び出して「斌(翟斌)の兄弟は王師(皇帝軍)が小失したと見るや、その凶勃さを露わにした。子母の軍ではとても相手にはならぬ。冠軍(冠軍将軍慕容垂)の英略がなければ、滅する事は出来ぬ。患いとなってしまうが、一行してはもらえぬか」と請うと、慕容垂は「下官は殿下の鷹犬であります。どうしてその命を聞き入れない事などあり得ましょうか」と答えた。苻丕は金帛を下賜しようとしたが、慕容垂は一切を受け取らず、代わりに前燕の時代に有していた田園を求めると、苻丕はこれを聞き届けた。こうして慕容垂は洛陽へ派遣される事となったが、苻丕は慕容垂の造反を内心疑っていたので、彼には老兵2千と古びた武具を与えるのみに留めた。また、広武将軍苻飛龍に氐族の騎兵1千を与えて副将とし、慕容垂を監視させた。

慕容垂は出陣前に鄴にある宗廟を詣でたいと請うたが、苻丕は認めなかった。その為、慕容垂は許可なく密かに入城しようとしたが、役人により入城を拒否されたたので、激怒してその役人を殺害すると亭を焼き払ってから引き返した。

その後、慕容垂は予定通り洛陽へ出発したが、慕容農・慕容楷・慕容紹・慕容宙については苻丕により鄴へ留められた。安陽の湯池まで至った時、前秦の将軍閔亮・李毗が鄴から到来し、苻丕と苻飛龍が慕容垂を陥れようとしていると事を密告した。慕容垂はこれに激怒し、その配下の将兵へ「我は苻氏へ忠を尽くしてきた。だが彼ら(苻丕・苻飛龍)は専ら我ら父子を陥れる事ばかり考えている。これでは我が望もうとも、得られるものではない!」と言い放った。そして、兵が少ない事を理由に河内に留まって募兵を行うと、10日程度で八千の兵をかき集めた。

洛陽を守る平原公苻暉は慕容垂のもとへ使者を派遣し、到着が遅い事を詰り、速やかに赴くよう命じた。

慕容垂は苻飛龍へ「今、寇賊(翟斌軍)は遠くありません。昼に休んで夜に進軍し、その不意を襲うべきです」と献策すると、苻飛龍はこれに同意した。その夜、慕容垂は密かに世子の慕容宝を苻飛龍の陣営の前へ進ませ、自らは末子の慕容隆と共に後方に留まり、氐兵に命じて5人でを編成させた。そして密かに慕容宝と約定を交わし、鼓声を合図として前後から苻飛龍軍を挟撃した。これにより苻飛龍を殺害してその兵を尽く殺した。ただ、参佐の中で関西出身の者だけはみな逃がしてやり、併せて苻堅へ書を届けさせ、苻飛龍を殺した理由について陳述した。

慕容紹・慕容農らの脱出

慕容垂は河を渡って橋を焼き払い、さらに募兵して3万の兵を集めると、将兵へ向けて「我は表面的には秦に従っているように見せていたが、内は(燕王朝の)興復を図っていた。法を乱す者は軍において常刑があろう。命を奉る者は即日賞されよう。天下が定まれば、功績に応じて封爵しよう。これに違う事は無い」と宣言した。

また、遼東鮮卑の可足渾譚を河内の沙城へ留めて兵を招集させ、さらに田山を鄴へ派遣して密かに慕容農らへ挙兵したことを告げ、呼応するよう命じた。この時、既に夕暮れとなっていたので、慕容農・慕容楷・慕容宙は鄴城内の宿泊所に留まった。慕容紹だけは先発で鄴を脱出して蒲池へ赴き、苻丕の駿馬数百頭を盗んで慕容農・慕容楷の到来を待った。翌日、慕容農・慕容楷・慕容宙もまた数十騎を率い、身なりをやつして鄴を脱出し、列人まで逃走すると、群盗を招聘して1万数千を集めた。慕容紹もまた辟陽へ逃れ、多くの衆がこれに呼応した[7]

384年1月、苻丕は大宴会を開いて賓客を招いたが、慕容農を呼びだしても彼は出席せず、ここで始めて逃走した事に気づいた。その為、四方へ人を派遣して行方を捜索させ、三日後に列人に居るとの情報を得たが、既に慕容農らが起兵した後であった。

翟斌と合流

前燕の旧臣である慕容鳳王騰段延は当時翟斌の配下であり、彼らは慕容垂を盟主として推戴するよう翟斌へ勧めた。翟斌はこれに従い、慕容垂へ帰順の使者を派遣した。この時、慕容垂は洛陽へ侵攻しようと考えており、この申し出を拒絶する事で洛陽を守る苻暉へ対して自らの臣節を示そうと思った。また翟斌の帰順が本気かどうか計りかねていた事もあり、翟斌へ「我ら父子は秦朝に寄命しており、その危機を救おうとしているのだ。主上(苻堅)より不世の恩を荷い、更生の惠を蒙ってきた。君臣の関係といえども、その義は父子より深いのだ。どうして小隙が生じたからといって、心変わりなど出来ようか。我は豫州(豫州牧苻暉)を救いに来たのであり、君(翟斌)の下へ赴くわけではない。どうしてそのような議を我に持ってくるのか!君は既に大事を建ててている。成し遂げればその福を享受し、敗れればその禍を受けるだろう。我の預かり知るところではない」と言うのみであった。

慕容垂は洛陽へ向かったが、苻暉は既に慕容垂が苻飛龍を殺したことを知っていたので、門を閉ざして入城を拒んだ。

その後、翟斌は長史郭通を派遣して再び慕容垂へ帰順を申し出たが、慕容垂はなおも認めなかった。郭通は「将軍(慕容垂)がこの通を拒まれるのは、翟斌兄弟が山野に住まう異類(異民族の蔑称)であり、奇才も遠略も無く、必ずや何も成し得ないと考えておられるからでしょうか。ただ将軍は今これを頼みとする事を考えるのでは無く、大業を成し遂げる事を考えて判断されるべきでしょう!」と訴えると、慕容垂はこれに同意した。ここにおいて翟斌は衆を率いて慕容垂の軍勢と合流した。

燕王の時代

燕王に即位

慕容垂は配下の将兵と謀議して「洛陽は四面を敵に囲まれ、北は大河に阻まれているが、燕・趙からは制御されやすく、形勝の便(険阻な地勢)とはいえぬ。北の鄴都を取り、これに拠って天下を制するべきだ」と方針を決め、みなこれに同意した。こうして、洛陽から兵を退いて東へ向かった。

その途上でかつての夫余王余蔚の勢力とも合流し、彼を滎陽郡太守に任じた。また、昌黎鮮卑の衛駒もまた衆を率いて慕容垂の傘下に入った。

同月、滎陽に到達すると、群臣は慕容垂へ尊号を称するよう固く請うた。慕容垂は司馬睿の故事(愍帝前趙に囚われると、群臣は司馬睿へ帝位を称するよう勧めたが、司馬睿は愍帝が囚われているといえどもまだ生きている事から皇帝は名乗らずに王を名乗り、愍帝が亡くなった後に帝位を称した)に倣い、慕容暐に配慮して帝号は称さなかったが、大将軍・大都督・燕王を称し、承制(諸侯守相を任命する事)を行う事とし、この行政機関を「統府」と称した。府には四佐を置き、群臣はみな慕容垂と相対する際には臣と称するようになり、上表や下詔・官爵の封拝についてはいずれも古の王に倣うものとした。弟の慕容徳を車騎大将軍に任じて范陽王に封じ、甥の慕容楷を征西大将軍に任じて太原王に封じ、翟斌を建義大将軍に任じて河南王に封じ、翟檀を柱国大称軍に任じて弘農王に封じ、余蔚を征東将軍・統府左司馬に任じて夫余王に封じ、衛駒を鷹揚将軍に任じ、慕容鳳を建策将軍に任じた。こうして、慕容垂は正式に前秦から自立した(後燕の建国)

その勢力は20万にも及び、石門より出撃して河を渡り、鄴へ向けて進撃した。

慕容農の蜂起

同月、列人へ逃走していた慕容農は烏桓族の魯利張驤と結託して武装蜂起し、列人の民衆をかき集めて士卒に加えた。さらに匈奴屠各種の畢聡・卜勝・張延・李白・郭超、東夷の余和・勅勒、易陽烏桓の劉大らもまた各々部衆数千を従えて呼応し、慕容農は自らの判断で張驤を輔国将軍に、劉大を安遠将軍に、魯利を建威将軍に任じた。

また出撃して陽平郡館陶県を攻略し、多くの兵器や資材を強奪した。さらに趙秋・蘭汗・段讃・慕輿希を広平郡平恩県の康台を制圧させ、数千匹の軍馬を略奪した。これにより兵士はさらに集結してその軍勢は数万に及ぶと、張驤らは慕容農を使持節・都督河北諸軍事・驃騎大将軍・監統諸将に推戴した。当初、慕容農はまだ慕容垂と合流していなかった事から、独断となる事を恐れて敢えて部下を褒賞してなかったが、趙秋の勧めにより次第に恩賞を与えるようになると、さらに多くの衆が馳せ参じた。慕容垂もまたこれを聞き、その措置を許可した。

さらに慕容農は、西では上党に割拠する庫傉官偉を、東では東阿に割拠する乞特帰、北では燕国に割拠する前秦の光烈将軍平叡とその兄である汝陽郡太守平幼をそれぞれ招聘した。彼らはみな前燕の旧臣であり、各々数万の兵を率いて馳せ参じたので、総勢10万を超える軍勢となった。

また、蘭汗らを東郡頓丘県へ侵攻させ、これを攻略した。慕容農の軍令はよく整っており、勝手に略奪に走る兵卒が居なかったので、民衆は喜んだという。

これを聞いた苻丕は石越に1万余りの歩兵・騎兵を与え、慕容農討伐を命じた。石越が列人の西まで迫ると、慕容垂は趙秋・綦毋騰に迎撃を命じ、趙秋らは敵の前鋒軍を敗った。石越が柵を築いて軍備を固めると、慕容農は日が暮れ始めるのを待ってから軍鼓を鳴らして軍を出撃させ、城西に陣取った。牙門劉木は壮士四百を率いて柵を乗り越え敵陣へ突入し、前秦軍を大いにかく乱した。慕容農は大軍を率いて後続し、前秦軍を大敗させて陳において石越を討ち取り、その首を慕容垂へ送った。

石越は前秦の驍将として誉れ高く、故に苻堅は彼に苻丕の補佐を委ねていた。それがこうして戦死した為、民衆は衝撃を受け、盗賊があちこちで群起するようになったという。

鄴へ集結

同月、慕容垂もまた鄴へ到達した。この時、前秦の建元20年を改め、燕の元年と称し、服色や朝儀についてはいずれも前燕時代のしきたりに合わせた。かつて岷山公であった庫傉官偉を左長史に、尚書段崇を右長史に、滎陽出身の鄭豁らを従事中郎に任じた。慕容農もまた軍を率いて慕容垂に合流すると、慕容垂は彼が自称していた官爵をそのまま授けた。慕容楷・慕容紹・慕容宙らもまた各々兵を率いて慕容垂へ合流した。

また、世子の慕容宝を王太子に立て、従弟の慕容抜ら17人と甥の宇文輸、蘭建の子の蘭審らをみな王に封じ、その他の宗族や功臣37人を公に封じ、さらに87人の臣下を功績に応じて侯・伯・子・男に封じた。

可足渾譚は2万余りの兵を集めて慕容垂に呼応すると、野王へ侵攻してこれを降し、それから慕容垂に合流した。平幼とその弟である平叡・平規もまた数万の衆を率いて慕容垂に呼応し、鄴へ馳せ参じた。3月には庫傉官偉もまた数万の兵を率いて鄴へ到達し、慕容垂は彼を安定王に封じた。

苻堅・苻丕の詰問

苻丕は侍郎姜譲を慕容垂の下へ派遣し、これまでの不忠な振る舞いを責め咎めると共に「かつて大駕(皇帝軍)が失拠した時、君は鑾輿(皇帝の座車。ここでは苻堅の事を指す)を保衛し、その勤王・誠義たるや先人の功業を凌ぐものである。かつての規範を元通りとし、忠貞の節を全うさせるべきであろう。どうして崇山の功を捨て、このような過ぎたる事を為すか!過ぎたる地位や身分は改める事が出来るのだ。これは先賢の嘉事であるぞ。深く詳思すべきである。まだ遅くはないぞ」と述べ、帰順を説いた。だが、慕容垂は姜譲へ「我は主上より不世の恩を受けている。故に長楽公(苻丕)の身の安全を図ろうと考え、全軍をもって京師(長安)へと向かわせようとしているのだ。然る後に家国の業を修復し、秦とは長きに渡って隣国としての好みを築こうと考えている。どうして機運を閉ざし、鄴から帰ろうとせぬのか。大義の為には親や子ですら棄てねばならぬというのに、ましてや情誼を顧みていられようか!公がもし迷って帰ろうとしないのであれば、我も軍勢を窺わせねばならぬ。今、事は既に起こっており、単馬で命を乞おうとも助かりはせぬぞ」と答えた。だが、姜譲は血相を変えて反論して「将軍は家国に容れられず、聖朝に亡命してきた。燕の尺土にどうして将軍の分など有ろうか!主上は将軍と風俗は異なり、趣向も同じではない。それでも、将軍を一見してただ者では無いと認め、断金(金をも断つような強固な関係)をもって将軍と接するようになった。その寵愛は宗族や旧臣を超えるものがあり、等しく懿藩を任されている。古えの君臣の冥契の重を鑑みても、これより甚だなものがあったろうか!将軍には六尺の孤と、万里の命を付したにもかかわらず、王師が小敗した途端、二心を図ろうとは何事か!そもそも、名分無いままに師(軍)を起こしても、終に成功する事などない。それは天が廃する所であり、人民が支える事もないからである。将軍は無名の師を起こした。天が廃する所を興さんとしているが、可とすべき所は見つけられない。長楽公(苻丕)は主上の元子(世継ぎ)であり、その名声や徳は唐・衛を凌ぐものがある。そして陝東の任に当たり、朝廷のために城を保っているのだ。百城の地をもってすれば、将軍の両手を縛り上げ、送還する事が出来ないと思うか!大夫たるもの王事の為に死し、国君(君主)たるもの社稷の為に死すものだ。それなのに将軍は冠を裂いて冕を毀し、本を抜いて源を塞ごうとしているのだぞ。将軍が軍勢を総動員させるつもりならば、今更これ以上話す事も無い。ただ、将軍の七十の年を思えば、白旗を懸首して欲しい。高世の忠を逆鬼にする事はないのだ。心中、将軍の為にこれを憂えている」と言い放った。これを聞いて慕容垂は黙然としてしまった。側近はみな慕容垂へ誅殺を勧めたが、慕容垂は「古の兵交において、使者はその間を往来した。犬が吠えるのはその者が主では無いからであり、彼もまた同じだ。どうして罪に問おうか!」と述べ、礼を尽くしてから姜譲を帰らせた。

次いで、苻堅に対して上表文をしたため、苻丕からの書状と合わせて送り、利害を述べて苻丕を長安へ帰すよう請うた。その内容は『臣の才は古人に及ばず、禍が蕭牆(国内の事。ここでは前燕を指す)に起こり、この身が時難に侵されるに至り、聖朝(前秦)に帰命致しました。陛下の恩は周・漢より深く、この身に余る微顧の遇を賜り、恐れ多くも位は列将に、爵は通侯(列候)となりました。これに報いるべく、力を共にして我が誠心を献納する事を誓いましたが、いつも力の及ばぬ事を恐れておりました。去年夏、桓沖は送死(決死)して襲来しましたが、雲が消えるかのように退却し、逆撃して鄖城を討ち、捕らえるか討ち取った数は1万にもなりました。これは誠に陛下の神算が並外れている事によるものであり、これにより愚臣もまた死など恐れずに戦果を挙げる事が出来ました。さらには桂州まで到達し、懸旌を閩・会の地に懸けようとしておりましたが、図らずも天は乱徳を助け、大駕(皇帝の車。転じて皇帝軍を指す)は引き返さざるを得なくなりました。陛下は単騎にて臣の下へ逃れられると、臣は決して二心など抱かず、奉じて護衛しました。陛下はどうしてその聖明をもって、臣の単心(忠誠心)を鑑みられないのでしょうか。皇天后土もこれ(慕容垂の忠誠心)を知っておりましょうぞ。臣は詔を奉じて北巡し、長楽(苻丕)により束縛される事となりましたが、丕(苻丕)は外では衆心を失っており、内では猜忌を多く募らせております。今、臣は外庭において外泊を強いられ、謁廟の要請も聞き入れられませんでした。丁零の逆豎(反逆者)が豫州を寇逼するようになると、丕は垂に単軍でこれに赴くよう迫り、到着までの道程に期限を設け、弱兵二千のみを配し、兵杖(武具)に至っては一切与えず、飛龍(苻飛龍)を刺客として潜ませました。また、洛陽に至ると平原公暉(苻暉)もまた信納しませんでした。臣は密かに、進んでも淮陰の功高の慮(淮陰公韓信は多大な功績を挙げた事で疑われ、誅殺された)をもたらし、退いても李広の失利の愆(李広は行軍に遅れて衛青より詰問を受け、自害した)をもたらすのではないか、と考えるようになりました。恐れているのは青蝿(目上に媚び諂い、他者を陥れる人)が、白黒(真実と嘘)を交じり乱れさせる事です。丁零の夷夏どもは、臣の忠義を疑い、(反乱軍の)盟主に推戴しようとしました。臣は善なる始まりを受託したにもかかわらず、遂に完遂させる事が出来ず、涙を流して西京(長安)を望み、涙を流して離れました。軍を石門に進めるや、至る所より雲のように馳せ参じました。再び周武(周の武王)が孟津で会そうとも、漢祖(劉邦)が垓下に集おうとも、この不期の衆より多くはないでしょう。長楽公(苻丕)に全軍を挙げて難に赴かせようと、礼を以って使者を送りましたが、丕は匹夫の志を固守し、変通の理に達しておりません。臣の子である農(慕容農)は故営を収集して不慮の事態に備えると、石越は鄴城の兵を傾けて軽はずみにも急襲しようとしてきました。ですが、両者の兵陣が交わる前に越は命を落としました。臣は既に単車にて巡りますと、帰順する者が雲の如く集まり、これは実に天符と言うべきであり、臣の力などではありません。鄴は臣の国の旧都であり、恵みを及ぼしてくださるのでしたら、然る後に西面(長安の方角を向く事)してその命を受け、永久に東藩(中国の東側)を守りましょう。上は陛下が遇臣の意を成し、下は愚臣が感報の誠を全うせん事を。今、軍を進めて鄴を包囲するのは、丕へ天時・人事を諭すためです。丕が機運を察する事無く、門を閉ざして守りを固め、時に決戦を挑み、鋒戈が交じわる事が続き、飛矢が誤まって当たる事で陛下の天性の念を傷つけてしまうのではないかといつも恐れております。臣は誠に神聴を蔑ろにするつもりは無く、(苻丕が鄴を脱出すれば)すぐに兵を断って鋭を止め、敢えて竊攻(奇襲)などは致しません。そもそも運は推移するものであり、去るも来るも常事であります。陛下がこれを察せられますように』というものであった。

苻堅はこれに対して下書して「朕は不徳ではあるが、恐れ多くも霊命を賜り、万邦(数多の国々)に君臨すること30年に及んだ。幽裔(辺境の地)の彼方であっても来庭しない場所は無かったが、ただ東南の一隅のみ、王命に違い続けていた。朕はここにおいて六師(全軍)を奮い、天罰を恭行しようとしたが、玄機(奥深く精妙なる道理)が吊るされる事は無く、王師(皇帝軍)は敗績してしまった。卿の忠誠の至りを頼みとしたが、卿は朕の躬(身体)を輔翼(助け守る事)した事により、社稷が隕される事は無かった。まさしく卿の力だ。詩には『中心蔵之、何日忘之(心の中に抱き続けていれば、何日経とうとも忘れる事は無い)』というではないか。卿を任ずるに当たり元相とし、卿を爵するに当たり郡侯とするのは、広く艱難から救う事を願うと共に、その勲烈に敬意を表し、これに報いんがためである。どうして伯夷代の孤竹国の王子)の清く明哲なる操を毀し、柳恵(周代のの賢者である柳下恵)を淫夫にできようか!この表を覧じて嘆く所であり、朝臣も恥じいるばかりだ。卿は本朝(前燕)に容れられず、匹馬にてその命を投じてきた。朕は将位をもって卿を寵遇し、上賓をもって卿を礼遇した。旧臣と同じく任じ、勲輔(功績ある重臣)と等しく爵した。歃血(盟約を交わす事)して断金(固い絆を結ぶ事)し、誠心をもって接しあった。卿に食椹・懐音(いずれも恩徳を与える事)したのは、偕老(年老いるまで共存する事)を保つためだ。どうして水を蓄える事で舟が覆り、獣を養う事で反害される事など考えようか。そうなっては、噬臍(後悔)しても、及ばぬであろう!偽りの言で衆を乱し、これを誇示すること常ならざる程だ。周武の事を卿のような凡人がどうして論じてよいだろうか!失籠の鳥を網に掛けて繋ぎ止める事など出来ず、脱網の鯨をどうして制する事が出来ようか!翹陸(外へ飛び出す事)を懐に抱いているのであれば、もはや何を聞く事があろうか。心配するのは、卿は老いつつあり、このまま老いて賊となる事だ。生きては叛臣、死しては逆鬼となり、幽顕(冥界と現世)に跋扈し、毒をまき散らして存亡させては、中原の士女はどれほど痛み苦しむであろうか!朕の暦運の興喪が、どうして卿によるものであろうか!ただ長楽(苻丕)・平原(苻暉)は未立の年であり、卿を両都(鄴・洛陽)で遇した際、その経略(方策)が朕の心に適ってはいなかった。恨む所はこの点のみである」と述べ、責め咎めた。苻丕もまたこれに激怒し、書を送って慕容垂を詰った。

鄴城包囲

同月、慕容垂は鄴への攻勢を開始し、まず外郭を攻略すると、苻丕は軍を退いて中城を守った。これにより関東六州の郡県の多くが後燕へ人質を送り、降伏を請うようになった。慕容垂は陳留王慕容紹を行冀州刺史に任じて広阿に駐屯させ、これらの郡県を慰撫させた。

2月、慕容垂は丁零・烏桓の兵20万余りを動員し、飛梯(雲梯)や地下道の掘削など手を尽くして中城を攻めたが、攻略出来なかった。その為、方針を切り替えて持久戦の構えを取ると、堀りの深い広大な包囲陣を築いてこれを守り、老弱な兵は魏郡鄴県の肥郷へ送り、さらに新興城を築いて輜重を備蓄した。

同月、范陽王慕容徳は前秦領の枋頭へ進軍してこれを攻略し、守備兵を置いてから帰還した。

当時、東胡王晏館陶に割拠して鄴城の苻丕を援護しており、鮮卑や烏桓を始め、郡県の民の中にも塢壁を築いて慕容垂に臣従しない者が多かった。その為、慕容垂は太原王慕容楷・陳留王慕容紹にこれらの討伐を命じた。慕容楷は辟陽へ駐屯し、慕容紹だけが数百騎を率いて王晏の下へ赴き、禍福を説いて帰順を誘った。王晏はこれに応じ、慕容紹に従って慕容楷の下へ赴いた。これにより、鮮卑・烏桓・塢壁の民数十万が続々と降伏するようになった。慕容楷は老弱な者を辟陽に留め、守宰を設置して彼らを慰撫させた。また、壮年の男子10万余りを徴発し、王晏と共に鄴にいる慕容垂の下へ赴いた。慕容垂は大いに喜んで「汝ら兄弟(慕容楷・慕容紹)は文武の才を兼ね備えている。それでこそ先王(慕容恪)を継ぐに足る者だ!」と称賛した。

慕容垂はその後も鄴への攻勢を続けたが、なお陥落する気配を見せなかったので、僚佐を集めて軍議を開き、対応策を議論した。右司馬封衡は漳水から水を引き込んで鄴を水攻めにする事を提案すると、慕容垂はこれに同意して実行に移した。

信都・高城・常山・中山を攻略

当時、前秦の冀州刺史・阜城侯苻定は信都を鎮守し、高城男苻紹は高城を、高邑侯苻亮・重合侯苻謨は常山を、固安侯苻鑒は中山を各々鎮守していた。

同月、慕容垂は楽浪王慕容温に諸軍を統率させて信都へ侵攻させたが、攻略出来なかった。4月、慕容垂は撫軍大将軍慕容麟に兵を与え、慕容温に加勢するよう命じた。5月、苻定・苻紹は後燕に降伏した。これを受け、慕容麟は軍を退き、西の常山へ侵攻し、6月にはこれも攻略して苻亮・苻謨をみな降伏させた。さらに進んで中山を包囲すると、7月には中山もまた攻め降して苻鑒を捕らえ、そのまま中山に駐屯した。この戦いにより慕容麟の威声は大いに轟いたという。

翟斌誅殺

この時期、翟斌は次第に自らの功績を誇って驕慢となっており、際限なく慕容垂へ褒賞を求めていた。また、彼は鄴がなかなか陥落しないのを見て、慕容垂を見限ろうと密かに考えるようになった。同月、太子慕容宝は翟斌の粛清を進言したが、慕容垂は「河南での盟約(翟斌を傘下に加えた時の誓い)に背くことは出来ぬ。もし難を為すようであれば斌の罪は明らかとなろうが、今はまだ何ら事を起こしていないのに、これを殺せば人々は必ずや我が翟斌の功績や能力を忌憚したと言うであろう。我は豪傑を収攬し、大業を隆起させようとしているのに、狭量を示して天下を失望させるわけにはいかぬ。奴が陰謀を企むのであれば、我は知略でこれを防ぐのみだ。そうすれば何もできぬであろう」と述べ、訴えを退けた。范陽王慕容徳・陳留王慕容紹・驃騎大将軍慕容農もまた「翟斌の兄弟は功績を誇って驕慢となっております。必ずや国の患いとなるでしょう」と訴えたが、慕容垂は「驕るようになればその敗北も速くなろう。どうしてこれが患いをなそうか!奴には大功があるのだ。自ら滅びるのをするのを待つべきであろう」と反対し、むしろ礼遇を重くした。

同年7月、翟斌は傘下の丁零や徒党へ、自らを尚書令に推挙するよう密かに命じた。その意を受けて彼らがこれを上奏すると、慕容垂は群僚へどう取り扱うべきか尋ねた。安東将軍封衡は血相を変えて「馬は千里を走る事が出来ますが、束縛からは逃れられません。畜生が人の制御から逃れられぬのは明白です。斌(翟斌)は戎狄の小人でありますが、偶然にもこの重要な時勢に遭遇した事で、兄弟共に王に封じられました。驩兜以来、未だこのような福が与えられた者はおりません。それなのに、たちまちこの栄華の極みを忘れ、再びこのように求めてきました。その魂爽は錯乱しており、必ずや年を跨がずに死する事でしょう」と訴えた。この意見を聞き、慕容垂は表情を変えずにこれに同意した。そして「翟王(翟斌)の功であれば、確かに上輔(宰相)に据えるべきであろう。だが、未だに台(朝廷)は建てられておらず、この官(尚書令)を慌てて置くような時期ではない。六合(天下)が廓清(悪しき物を取り除く事)されるのを待ち、改めてこれを議論するとしよう」と命を下し、丁零の申し出を退けた。翟斌はこれに怒り、密かに苻丕と内通するようになり、丁零を差し向けて水攻めの為に設けていた堤防を決壊しようとした。だが、実行する前に作戦は露見し、慕容垂は翟斌とその弟である翟檀・翟敏を誅殺した。ただ、その他の者は全て赦した。

翟真の自立

翟斌の甥である翟真は夜闇に乗じ、衆を伴って北の邯鄲へ逃走した。その後、再び鄴の包囲陣へ向けて侵攻し、苻丕と結託して内外より挟み撃ちにしようとした。慕容垂は太子慕容宝・冠軍将軍慕容隆に迎撃を命じ、慕容宝らは翟真を返り討ちにし、邯鄲へ撤退させた。太原王慕容楷・陳留王慕容紹は慕容垂へ「丁零には大志などなく、ただ、寵が過ぎたるが為に乱となったのです。今、急をもって攻めれば、衆は結集して寇を為すでしょうが、緩をもって攻めれば自ら散じるでしょう。散じるのを待ってからこれを撃てば、勝てない訳がありません」と述べると、慕容垂はこれに同意した。

8月、翟真は邯鄲より更に北へと逃走を開始すると、慕容垂は慕容楷・慕容農に騎兵を与えて追撃を命じた。慕容楷らは下邑にて翟真軍に追いついたが、これを攻撃するも大敗を喫した。翟真はそのまま北へ向かい、中山のすぐ傍の承営に割拠するようになった。

苻丕・東晋・丁零の結託

鄴中では秣も兵糧も尽き、松の木を削って馬の飼料にする程となった。これを知った慕容垂は諸将へ「苻丕は窮地に陥っているが、必ずや投降はしないであろう。丁零(翟斌・翟真ら)が叛擾して以来、我が腹心の患いとなっている。そこで新城まで軍を退き、丕(苻丕)が西へ帰る道を開いておくのだ。そうすれば秦王へ疇昔の恩を返す事も出来、翟真を討つ計を図る事も出来よう」と命じ、夜に慕容垂は包囲を解いて新城へ移った。また、慕容農に清河・平原を巡回させ、租税の徴収に当たらせた。慕容農は基準を設けて公正に徴収に当たり、その軍令は厳整であり、侵暴する事もなかったので、穀物や絹の徴収は捗り、軍資は充足するようになった。

同月、慕容農は黄泥を守る翟嵩を攻め、これを破った。

9月、前秦の兗州刺史張崇は東晋の彭城内史劉牢之より攻撃を受け、鄄城を放棄して後燕に亡命した。慕容垂は彼を龍驤将軍に任じた。

少し遡る事同年7月、前秦の幽州刺史王永・平州刺史苻沖は二州の兵を併せて後燕へ侵攻した。慕容垂は寧朔将軍平規に迎撃を命じると、王永は昌黎郡太守宋敞を繰り出した。両軍は范陽において交戦となったが、平規は宋敞を破って薊南まで進出した。8月、王永は前秦の振威将軍劉庫仁に救援を要請し、これに応じた劉庫仁は将軍公孫希に騎兵三千を与えて救援を命じた。公孫希は薊南に進んで平規を撃破すると、さらに勝ちに乗じて進撃して唐城に駐屯し、中山を守る慕容麟軍と対峙するようになった。

承営にいる翟真は東晋の将軍公孫希や前秦の昌黎郡太守宋敞らと連携して後燕に対抗するようになり、長楽公苻丕もまた冗従僕射光祚を使者として翟真の下へ派遣し、同盟を結んで後燕を孤立させようとした。さらに苻丕は陽平郡太守邵興に数千騎を与え、冀州の郡県へ寝返りを持ち掛けさせた。この時、後燕の軍勢は次第に疲弊しており、前秦軍は勢い取り戻していたので、冀州の郡県の多くはどちらにもつかずに趨勢を見守っていたが、趙郡出身の趙粟らは挙兵して後燕に背き、邵興に呼応した。

慕容垂は冠軍大将軍慕容隆・龍驤将軍張崇に兵を与えて邵興討伐を命じ、驃騎大将軍慕容農にも清河より出撃して慕容隆らに合流するよう命じた。慕容隆は邵興と襄国において交戦し、これを大破した。邵興は広阿まで逃走を図ったが、慕容農は慕容隆らと合流する為に進軍している途上で邵興と遭遇し、これを捕らえた。光祚は邵興と襄国で合流する手はずであったが、これを聞いて西山より鄴へ逃げ帰った。慕容隆はさらに趙粟らを討伐に向かい、全て撃ち破った。これにより、冀州の郡県は再び後燕に従った。

東晋の振威将軍劉庫仁は公孫希が平規を破ったと聞き、大挙して苻丕の救援に赴こうと考え、雁門上谷代郡より兵を徴発して繁畤に駐屯した。この時、かつて前燕で太子太保を務めていた慕輿句の子である慕輿文と、零陵公の地位にあった慕輿虔の子である慕輿常は劉庫仁に従っていたが、密かに慕容垂の下に帰順しようと考えていた。彼らは雁門・上谷・代郡から徴発された兵が遠征を嫌っている事を知り、これに乗じて乱を起こした。そして夜のうちに劉庫仁を殺害すると、その駿馬を奪って後燕へ亡命した。公孫希の兵もまたこの乱を聞いて自潰し、公孫希は翟真の下へ亡命した。

11月、慕容農は信都より西へ侵攻し、魯口に割拠する丁零の翟遼を攻撃して破った。翟遼は無極まで退却し、慕容農は蒿城まで進撃してこれに迫った。12月、慕容農は慕容麟の軍勢と合流して再び翟遼を攻め、これに大勝した。翟遼は単騎で翟真の下へ奔った。

これより以前、苻丕は東晋の建武将軍謝玄(東晋の北伐軍の総司令官)へ救援を要請しており、謝玄はこれに応じて劉牢之・滕恬之らに2万の兵を与えて救援を命じ、さらに水陸より二千石の米を鄴城へ送った。

慕容垂は鄴の包囲を解いたものの、苻丕はなお鄴を去ろうとしなかったので、范陽王慕容徳へ「苻丕は我らが解放しても去ろうとしない。そればかりか晋師(東晋軍)を引き入れて鄴都を固守しようとしている。放置しておくべきではない」と語り、再び兵を率いて鄴城を包囲し、西にのみ逃走路を空けておいた。

385年1月、後燕の帯方王慕容佐と寧朔将軍平規は共に薊へ侵攻し、王永を幾度も破った。2月、王永は宋敞に命じて和龍と薊城の宮殿を焼き払うと、3万の衆を率いて壷関へ退却した。こうして慕容佐らは薊へ入城し、後燕の支配圏はさらに広がった。

2月、慕容農は慕容麟と中山で合流すると、共に翟真討伐に向かった。慕容農らは数千騎を率いて承営へ到達すると、まず敵軍の偵察を行ったが、翟真はこれを察知して兵を繰りだして攻撃した。慕容農らは驍騎将軍慕容国に百騎余りを与えて迎え撃たせ、これを撃ち破った。翟真は城へ退却したものの、兵士達は先を争って門に殺到したので、その流れにより多数の兵が踏み潰されて命を落とした。この混乱に乗じ、後燕軍は承営の外郭を攻略した。

西燕の建国

これより以前の384年3月、慕容泓(慕容暐の弟)は慕容垂の自立を知って自らも前秦から離反し、鮮卑の衆数千を糾合して華陰に駐屯した。慕容沖(慕容泓の弟)もまた平陽で挙兵し、慕容泓に呼応した。やがて両軍は合流して10万を超える強大な勢力となり、前秦の本拠地長安目掛けて進撃した。この時、慕容泓は都督陝西諸軍事・大将軍・雍州牧・済北王を自称した。また、慕容垂を丞相・都督陝東諸軍事・領大司馬・冀州牧・呉王に封じると宣言したが、彼は慕容垂の傘下に入る事を善しとせず、燕興という独自の元号を立てるなど(これを西燕の建国と見做す場合もある)、慕容垂とは別の路線を歩むことを鮮明にした。慕容泓は長安を攻め立てるも、5月には臣下の裏切りに遭って誅殺され、慕容沖が後を継いだ。慕容沖は385年1月には阿房宮において皇帝に即位し、更始と改元した(正式な西燕の建国)。

中山を確保

この時期、前燕皇帝慕容暐が既に苻堅に誅殺されたという報告が、後燕にも伝わった(慕容暐は後燕・西燕が興ってからも前秦の首都長安に留まっていたが、謀反を起こしたとして前年に殺害された)。これを受け、群臣はみな慕容垂に帝位に即位するよう勧めたが、慕容垂は慕容沖が既に関中で帝号を称している事から、これを認めなかった。

同年3月、慕容垂は未だ鄴が落ちる気配がないのを見て、攻勢を諦めて北へ移動し、冀州の中山に都を構えようと考えた。そこで慕容温を中山へ駐屯させ、都として運用する為の整備に当たらせた。また慕容麟を信都へ駐屯させ、慕容農を鄴へ呼び戻した。遠近の民は慕容垂が鄴攻略を諦めて中山へ移ると聞き、後燕の勢いが衰えたと考え、去就をどうすべきか迷うようになった。

慕容温は中山へ入城するもその兵力は甚だ弱く、対する丁零は四つの城に分拠して勢力を築いていた。慕容温は旧民を慰撫すると共に新しい民を招聘し、農桑を奨励したので、帰順する民が相次いだ。これにより砦に割拠する郡県の勢力は争って兵糧を送るようになり、倉庫は充足するようになった。翟真は中山へ夜襲を仕掛けたが、慕容温はこれを返り討ちにすると、再び攻め入ろうとはしなくなった。慕容温は1万石の兵糧を慕容垂へ送り届けると共に、中山において宮殿の造営を開始した。

劉牢之撃退

同月、劉牢之は後燕の黎陽郡太守劉撫の守る孫就柵(黎陽の境にある)を攻撃すると、慕容垂は慕容農に鄴の包囲を委ねて自ら救援に向かった。前秦の長楽公苻丕はこれを好機と見て、夜闇に乗じて出兵して後燕の陣営を襲撃したが、慕容農は返り討ちにした。慕容垂もまた劉牢之軍を撃破し、黎陽へ後退させてから鄴に帰還した。

4月、劉牢之は再び攻勢を開始し、鄴へ進撃した。慕容垂はこれを阻むも敗れ去り、包囲を解いて新城まで後退し、その後さらに北へ退却した。劉牢之は苻丕とは合流せずに慕容垂を追撃し、苻丕もまた慕容垂退却を聞き、兵を発して後続させた。劉牢之は董唐淵において追いつき、幾度も退却中の後燕軍に損害を与えた。劉牢之軍はさらに二百里に渡って追撃を続け、五橋沢において後燕の輜重を襲ったが、ここで慕容垂は「秦と晋は瓦合(方針はばらばらだが、協力し合っている状態)しており、同時に対すれば強敵となろう。一勝すれば共に勢いを増そうが、一敗すれば共に潰えよう。(東晋と前秦の)心は同じではないのだ。今、両軍は相継いでいるが、未だ合流していない。急ぎこれを撃つべきだ」と宣言し、軍を反転させて逆にこれを撃ち、敵軍を大破して数千の首級を挙げた。劉牢之が単騎で逃走すると、慕容徳と慕容隆は五丈橋を遮断して退路を断ったが、劉牢之は馬を馳せて五丈澗を飛び越え、後続の前秦軍に身を寄せた。

食糧難に苦しむ

同月、鄴中の飢餓はいよいよ耐え難いものとなり、苻丕は遂に衆を率いて鄴を離れ、兵糧を確保するために枋頭に入った。劉牢之は代わりに鄴に入城して敗残兵の収集に当たり、その軍勢は少し戻ったが、今回の敗戦により本国より召喚命令を受けたので、軍を帰還させた。

既に後燕と前秦の抗争が始まって対峙して1年が経過しており、幽州・冀州では大飢饉により人が互いに食い合う程となり、村落は静まり返ってしまった。後燕の兵士も多数が餓死していまい、慕容垂は兵糧確保の為、養蚕を禁止して代わりに桑を植えさせ、兵糧の確保に努めた。

中山に拠る

4月、慕容垂は北上して中山へ進出を開始し、驃騎大将軍慕容農を軍の前鋒とした。かつて慕容農を信都より鄴へ呼び戻した時、慕容農は常山郡高邑県を通った。この時、従事中郎眭邃が軍を離脱して郷里に戻ってしまったが、慕容農は罪に問わずにそのまま留まる事を認め、仮として眭邃を高陽郡太守に抜擢した。また、その僚属にも趙北出身の者が多かったので、彼らを尽く郷里に帰らせてやり、凡そ3人を補太守に、20人余りを長史に抜擢した。これにより大いに民心を得る事出来、今回慕容農が再びこの地(中山と常山は隣接しており、いずれも趙北地域である)へ到来すると、眭邃らはみな慕容農を出迎え、これまで通り後燕に仕えた。

行唐攻略

慕容垂が中山へ拠点を移すと知り、翟真は距離を置くために承営を放棄して常山郡の行唐へ拠点を移した。この時、翟真の司馬鮮于乞は翟真とその宗族を殺害すると、自立して趙王を名乗ったが、部族の民は共に鮮于乞を誅殺し、翟真の従弟の翟成を新たな主とした。この一連の混乱により、衆人の多くが後燕に降伏し、翟遼は黎陽に奔走した。

同月、慕容垂は常山へ侵攻して翟成の守る行唐を包囲した。

7月、翟成の長史鮮于得は翟成を殺害して後燕に降伏した。こうして慕容垂は行唐に入城を果たすと、その衆を尽く生き埋めにした。

鄴を占拠

同月、苻丕は枋頭を離れて再び鄴へ帰還したが、関東の情勢は日に日に後燕優勢に傾いていたので、もはや鄴を守り通す事は不可能と考えた。

8月、遂に鄴の放棄を決断すると、前秦の驃騎将軍張蚝・并州刺史王騰の守る晋陽へ逃れた。この時、長安は既に西燕君主慕容沖の攻勢により陥落しており、苻堅は逃走中に後秦君主姚萇に捕らえられ、やがて誅殺された。苻丕にもその情報が届くと、彼は後を継いで帝位に即位し、太安と改元した。

これにより後燕軍は鄴へ入城を果たし、慕容垂は魯王慕容和を南中将郎に任じて鄴の統治を委ねた。

蔡匡討伐

同月、慕容麟・慕容隆は信都を出立して勃海・清河の攻略に向かった。慕容麟は東晋の勃海郡太守封懿を攻撃してこれを捕らえ、歴口に駐屯した。

10月、繹幕出身の蔡匡は自らの治める砦ごと後燕に背いたので、慕容麟・慕容隆は共にこれを征伐した。この時、東晋の泰山郡太守任泰は密かに軍を繰り出して蔡匡救援に向かわせており、その軍は蔡匡の砦から南8里の所まで到達した。ここで初めて後燕軍はその到来に気づき、諸将は蔡匡を降していないうちに外敵が突如現れた事で、大いに動揺した。慕容隆は蔡匡を捨て置いてまず任泰を撃ち、これを大破して千を越える兵を斬首した。これにより蔡匡もまた降伏し、慕容垂はこれを処刑してその砦を破壊した。

余巌討伐と遼東奪還

これより以前の4月、慕容垂は帯方王慕容佐に龍城の鎮守を命じていたが、6月に高句麗が遼東へ侵攻すると、慕容佐は司馬郝景に兵を与えて救援を命じるも高句麗に敗れ、これにより遼東・玄菟を失陥する事となった。

7月、後燕の建節将軍余巌が武邑で反乱を起こし、四千余りの民を略奪しながら北の幽州へと進んだ。これを受け、慕容垂は幽州にいる将軍平規に早馬を出して「固守して撃って出る事の無いように。我が丁零を破るまで耐えるのだ。その後で我自らが討伐に向おう」と厳命した。だが、平規は命に背いて出撃し、返り討ちに遭ってしまった。余巌は勝ちに乗じて薊へ侵攻し、千戸余りを略奪してから去っていった。道中でも略奪を繰り返し、令支に到達するとこれを拠点とした。

8月、慕容農に蠮螉塞から凡城を経由して龍城へ向かわせ、余巌討伐を命じた。

10月、慕容農は龍城へ到達すると、士馬を十日余り休ませた。しばらくして歩騎3万を率いて再び軍を発し、令支まで進撃した。余巌の兵は大いに動揺し、城を放棄して慕容農に降伏した。進退窮まった余巌もまた城を出て降伏し、慕容農は彼を兄弟と共に処断した。さらに高句麗へも進撃し、奪われていた遼東・玄菟の二郡を奪還した。

その後、帰還の途上の龍城において、慕容農は上疏して前燕の旧都龍城にある陵廟を修繕する許可を求めた。慕容垂はこれを認め、慕容農を使持節・都督幽平二州北狄諸軍事・幽州牧に任じ、龍城の鎮守を命じた。また、平州刺史慕容佐を龍城から移して平郭を鎮守させた。慕容農は法制を創立し、寛大さを旨として事業を行い、刑獄には清廉をもって当たり、賦役を省いて農桑を奨励した。これにより民の暮らしは豊かとなり、四方から流入してくる民は前後して数万口にも上った。これより以前、幽州・冀州の流民の多くが高句麗へ避難していたが、慕容農は驃騎司馬龐淵を遼東郡太守に任じ、彼らを招聘して慰撫させた。

王兗討伐

同月、慕容麟は博陵に割拠する前秦の王兗を攻撃した。城内の矢や兵糧が底を尽くと、功曹張猗は城を出て衆を糾合し、慕容麟へ呼応した。12月、慕容麟は博陵を攻略し、王兗・苻鑒を捕らえて処刑した。前秦の昌黎郡太守宋敞は烏桓・索頭の兵を率いて王兗救援に向かっていたが、既に陥落した事を知り引き返した。

皇帝の時代

皇帝即位

同月、慕容垂は中山へ入城を果たすと、諸将へ向けて「楽浪王(慕容温)は流散した民を招き、倉廩(食糧庫)を充足させた。外には兵糧を供給し、内には宮殿まで造った。蕭何といえどもこれに及ぶまい!」と述べ、慕容温の働きを激賞した。そして正式に中山を都と定めた。

386年1月、後燕の群臣は改めて慕容垂へ、尊号(帝位)に即いて典儀(朝廷の儀礼)を備え、郊燎(祭天)の礼を修めるよう勧めた。慕容垂はこれを聞き入れ、皇帝即位を宣言した。

2月、領内に大赦を下し、建興と元号を定めた。公卿・尚書・百官を設置し、宗廟・社稷を修繕し、慕容宝を皇太子に立てた。左長史庫傉官偉・右長史段崇・龍驤将軍張崇・中山尹封衡を吏部尚書に、慕容徳を侍中・都督中外諸軍事・領司隷校尉に、撫軍将軍慕容麟を衞大将軍に任じ、その他の者も格差に応じて任官した。3月、生母の蘭氏を文昭皇后と追尊した。4月、慕容垂は子の慕容農を遼西王に、慕容麟を趙王に、慕容隆を高陽王に封じた。また、范陽王慕容徳を尚書令に、太原王慕容楷を左僕射に、楽浪王慕容温を司隷校尉に任じた。

昨年12月より、慕容垂は従弟の北地王慕容精を冀州刺史に任じ、苻定の守る信都を攻撃していたが、なかなか攻め降せずにいた。

6月、慕容垂は太原王征西将軍慕容楷・趙王衛軍将軍慕容麟・陳留王鎮南将軍慕容紹・章武王征虜将軍慕容宙に命じ、前秦の冀州牧苻定・鎮東将軍苻紹・幽州牧苻謨・鎮北将軍苻亮らを攻撃させた。慕容楷は先んじて書を送り、禍福を述べて降伏を説くと、これにより苻定らはみな降伏した。慕容垂は苻定らを侯に封じて「秦主(苻堅)の徳に報いるのだ」と宣言した。

同月、西燕君主慕容沖は配下の刁雲らに殺害され、代わりに慕容永が君主に推戴された。彼は後燕に使者を派遣して称藩の意思を示したが、同年10月には慕容永は長子において皇帝位へ即いて中興と改元し、再び慕容垂とは袂を分かった。

鮮于乞撃破

8月、慕容垂は皇太子慕容宝に中山の留守を任せ、趙王慕容麟を尚書右僕射・録留台尚書事に任じた。その後、自ら軍を率いて范陽王慕容徳らと共に南へ侵攻し、高陽王慕容隆には東の平原へ向かわせた。

同月、丁零の鮮于乞曲陽の西山に割拠していたが、慕容垂が南伐に出たと聞くと出陣して中山へ侵攻し、民を略奪した。慕容麟は迎撃の為に城を出ると、敢えて魯口へ向かうと喧伝したが、夜になると軍の進路を変えて鮮于乞の陣営へ向かった。明朝には到着し、その陣営を襲撃して鮮于乞を捕らえた。

北魏との協力

当時、鮮卑拓跋部の大人拓跋珪王であった拓跋什翼犍の孫)は、匈奴独孤部の大人劉庫仁の後盾を得て自立しており、魏王を称して盛楽に都を構えていた。

8月、拓跋珪は叔父の拓跋窟咄との間で内乱状態となり、匈奴賀蘭部へ身を寄せると共に外朝大人安同を後燕へ派遣し、慕容垂へ救援を要請した。慕容垂はこれに応じ、慕容麟を派遣して救援させた。

10月、慕容麟が魏へ到達する前に拓跋窟咄は魏へ侵攻し、賀蘭部の有力者である賀染干はこれに味方(賀蘭部もまた拓跋珪を支持するか否かで勢力が2分していた)して魏の北部へ侵攻すると、魏の民衆は大いに動揺した。慕容麟はこれを聞いてすぐさま安同らを帰らせ、援軍の到来を告げさせると、これが知れ渡った事で人心はやや落ち着いた。拓跋窟咄が高柳まで進軍すると、慕容麟は拓跋珪と軍を合わせてこれを迎え撃ち、大いに破った。大敗した拓跋窟咄は劉衛辰のもとへにげたが、誅殺された。

12月、慕容垂は拓跋珪へ使者を派遣し、西単于に任じて上谷王に封じる旨を告げたが、拓跋珪は慕容垂の傘下に入る事を善しとせず、これを受けなかった。

呉深撃退

同年9月、後燕の宦官の呉深は清河に割拠し、後燕に反旗を翻した。慕容垂はこれを攻撃するも勝利出来なかった。

12月、慕容垂は再び呉深の砦へ侵攻し、これを破った。呉深は単騎で逃走し、慕容垂は聊城の逢関陂まで進出した。

温詳征伐

かつて、後燕の太子洗馬であった温詳は東晋に寝返り、済北太守に任じられて東阿に勢力基盤を築いていた。慕容垂は范陽王慕容徳・高陽王慕容隆に討伐を命じると、温詳は従弟の温攀に河南岸を防衛させ、子の温楷に碻磝を防衛させた。

387年1月、慕容垂は河上で観兵を行い、温詳を威圧した。高陽王慕容隆は進み出て「温詳の徒はみな白面(青二才)の儒生であり、烏合の衆に過ぎません。長河(長大なる黄河)を頼みとして守りを固めておりますが、もし大軍が渡河すれば、必ずやその旗を望んで動揺し、崩壊するでしょう。戦わずともよいかと」と述べると、慕容垂はこれに同意した。その後、鎮北将軍蘭汗・護軍将軍平幼を碻磝から西に40里の地点より渡河させ、慕容隆には大軍を北岸に並べて敵軍を威圧させた。これにより温攀・温楷は守備を放棄して城まで逃走し、平幼はこれを追撃して大破した。温詳は夜のうちに妻子を伴って彭城まで逃走し、3万戸余りの衆が後燕に降伏した。慕容垂は太原王慕容楷を兗州刺史に任じ、東阿を守らせた。

苻丕が鄴から晋陽へ逃走した時、冗従僕射光祚・黄門侍郎封孚鉅鹿郡太守封勧は共に東晋に降った。慕容垂が再び鄴を包囲した時、前秦の旧臣である朱粛らも衆を伴って東晋に降った。東晋朝廷は詔を下し、光祚らを河北諸郡の太守に任じ、いずれも済北・濮陽に屯営させ、温詳と協力させた。ここにおいて温詳が敗れると、みな後燕の陣営を詣でて降伏した。慕容垂はこれを許し、以前通りに待遇した。特に光祚の事は前秦時代から一目置いていたので、中常侍に抜擢した。

斉渉・張願征伐

安次の人である斉渉は八千家余りの衆を糾合して新柵に勢力基盤を築いており、かつて彼は後燕に称藩する事で慕容垂より魏郡太守に任じられていた。だが、387年1月に後燕に背き、張願(東晋の泰山郡太守であったが、離反して翟遼に帰順していた)と結託した。張願は1万余りを率いて祝阿の甕口へ進み、翟遼の勢力を引き入れようとした。

高陽王慕容隆は慕容垂へ「新柵は堅固であり、攻めても速やかに抜くのは難しいでしょう。もし、久しく城下に兵を頓していれば、張願は流民を従え、西の丁零を招き入れ、その患いはさらに深くなるでしょう。願の衆は多いといえども、みな新たに帰属したばかりであり、力戦する事は無いでしょう。まずこちらを先に撃つべきです。張願父子はその驍勇を頼みとしており、必ずや逃げる事を善しとしないでしょうから、一戦で生け捕れましょう。張願さえ破れば、斉渉が単独で生き残る事は出来ますまい」と勧めると、慕容垂はこれに従った。

2月、范陽王慕容徳・陳留王慕容紹・龍驤将軍張崇に歩兵騎兵2万を与え、慕容隆と合流させて張願討伐を命じた。後燕軍が斗城に至ると、甕口より20里余りの地点で鞍を解いて休息をとった。すると張願が兵を率いて突如到来し、後燕軍はこれに大いに動揺し、慕容徳の軍は退走してしまったが、慕容隆は兵の混乱を抑えて動かなかった。張願の子である張亀が陣営を攻撃してくると、慕容隆は側近の王末にこれを迎え撃たせ、張亀を討ち取った。さらに進軍して張願を攻めると、張願は軍を退いて退却した。慕容徳もまた1里余り後退した所で兵を整え、再び進軍して慕容隆に合流した。両軍はさらに甕口へ進軍し、大勝を挙げて7千800の首級を挙げ、張願は辛うじて三布口まで逃走した。後燕軍が歴城に進出すると、青州・兗州・徐州の郡県は多数が降伏した。慕容垂は陳留王慕容紹を青州刺史に任じて歴城を鎮守させ、慕容徳らを帰還させた。新栅の人である冬鸞は斉渉を捕らえて慕容垂の元へ送った。慕容垂は斉渉父子を誅殺したが、その他の者はみな赦罪した。

4月、慕容垂は碻磝より中山に帰還した。

慕容盛らの帰順

386年の11月、慕容垂の子である慕容柔と、慕容宝の子である慕容盛・慕容会は、当時慕容永に従って長子に居たが、後燕に帰順しようと考えて陣営を脱走し、中山へ向かった。387年4月、慕容垂は慕容柔・慕容盛・慕容会らを迎え入れると、領内に大赦を下した。また、慕容盛へ「長子の人情は如何か。攻め取れそうか」と尋ねると、慕容盛は「西軍(西燕)は擾擾(乱れ落ち着かない様)としており、人は東帰の志(慕容部の郷里である関東へ帰りたいという願望)を有しております。陛下はただ仁政を修めて待てばよいかと。そして大軍で臨めば、必ずや戈(武器)を投げ出してこちらに来るでしょう。孝子が慈父に帰するのと同じです」と答え、西燕の支配圏一帯の地図を作製した。慕容垂はこれに喜んで「昔、魏武(曹操)は明帝(曹叡)の頭を撫して寵愛し、遂にこれを侯とした。祖父が孫を愛するのは、ただこのようであればよいのだな」と語った。その後、慕容柔を陽平王に、慕容盛を長楽公に、慕容会を清河公に封じた。

なおも長子に留まっていた慕容垂の子孫は、やがて慕容永により男女の別なく皆殺しとなったという。

翟遼を攻撃

387年4月、高平出身の丁零翟暢は後燕の高平郡太守徐含遠を捕らえ、郡ごと翟遼に降った。

慕容垂は諸将へ「遼(翟遼)は一城の衆をもって、三国(後燕・西燕・東晋)の間で帰順と離反を繰り返している。討たぬわけにはいかぬ」と述べ、翟遼討伐に乗り出す事を宣言した。5月、章武王慕容宙を監中外諸軍事に任じ、皇太子慕容宝の補佐を委ねて中山を守らせると、自らは諸将を率いて南の翟遼征伐に向かい、太原王慕容楷を前鋒都督に任じた。翟遼の衆はみな燕・趙の出身であったので、慕容楷が到来したと聞いて「太原王(慕容恪)の子は、我らの父母である!」と述べ、みな帰順した。翟遼はこれを恐れ、使者を派遣して降伏を請うと、慕容垂は翟遼を徐州牧に任じて河南公に封じた。

慕容垂が黎陽へ至ると、翟遼は肉袒(罪人のように上半身をさらけ出す事)して出迎え、今までの振る舞いを謝罪した。慕容垂は降伏を受け入れ、厚く慰撫してから帰還した。

同月、井陘出身の賈鮑は北山の丁零翟遥ら五千人余りを味方に引き入れると、慕容垂の留守を突いて中山を夜襲し、城の外郭を陥落させた。章武王慕容宙は外へ出撃して敵の不意を突き、皇太子慕容宝は城内においてこれを鼓譟した。後燕軍はこれを大破してその衆を尽く生け捕りとし、ただ翟遥・賈鮑だけが単騎で逃走した。

慕容垂は黎陽より中山へ帰還した。

劉顕征伐

5月、北魏より再び使者安同が到来し、共同で劉顕を討つ事を持ち掛けてきた。

同月、鉄弗部の大人劉衛辰は後燕へ遣使し、貢物として馬を献上しようとしたが、道中で独孤部の大人劉顕により略奪されてしまった。慕容垂はこれに怒り、太原王慕容楷に兵を与えると、趙王慕容麟と共に劉顕を討伐させた。後燕軍はこれに大勝し、劉顕は馬邑西山まで逃走すると、北魏君主拓跋珪もまた軍を率いて慕容麟と合流し、弥沢において劉顕を再び破った。遂に劉顕は西燕へ亡命し、慕容麟は尽くその部衆を傘下に加え、数えきれない程の馬・牛・羊を鹵獲した。

8月、慕容垂は劉顕の弟である劉可泥を烏桓王に封じてその衆を慰撫させた。また、独孤部の八千家余りを中山に移した。

王敏・許謙・呉深撃破

387年3月の事、上谷出身の王敏が後燕の上谷郡太守封戢を殺害し、代郡出身の許謙は後燕の代郡太守賈閏を追放し、各々独孤部の劉顕に帰順した。同年5月には呉深もまた再び兵を挙げており、後燕の清河郡太守丁国を殺害していた。

同年7月、後燕の趙王慕容麟は上谷に侵攻して王敏を撃ち、その首級を挙げた。

388年2月、後燕の青州刺史・陳留王慕容紹は東晋の平原郡太守辟閭渾に迫られ、黄巾固まで軍を後退させた。

3月、趙王慕容麟は許謙を攻撃してこれを破り、許謙は西燕へ亡命した。慕容垂は代郡を廃止し、その民を尽く龍城に移した。

同月、慕容垂は皇太子慕容宝の為に承華観を起工し、彼を録尚書事に任じて政治の一切を委ね、慕容垂自身は大綱を総覧するのみとした。

4月、慕容垂は夫人の段氏を皇后に立て、慕容宝を領侍中・大単于・驃騎大将軍・幽州牧に任じた。また、前妃の段氏(現皇后の伯母)を成昭皇后に追諡した。

8月、後燕の護軍将軍平幼は章武王慕容宙と共に呉深を攻め、これを破った。呉深は繹幕へ逃走した。

王祖・張申撃破

387年5月の事、章武出身の王祖は挙兵して後燕の章武郡太守白欽を殺し、勃海出身の張申もまた高城ごと後燕に反旗を翻した。その為、慕容垂は楽浪王慕容温にこれらの討伐を命じた。同年10月には翟遼がまたも後燕に反旗を翻し、王祖・張申を傘下に加え入れると、彼らを派遣して清河・平原を侵略させた。

だが、388年2月には翟遼は再び方針を翻し、司馬眭瓊を後燕へ派遣して謝罪したが、慕容垂は彼が幾度も離反と臣従を繰り返していた事から一切取り合わずに眭瓊を処刑した。遂に翟遼は魏天王を称し、建光と改元して自立した(翟魏の建国)。

同年9月、張申が広平へ侵攻し、王祖が楽陵へ侵攻した。後燕の高陽王慕容隆は兵を率いてこれらの討伐に向かった。

12月、太原王慕容楷・趙王慕容麟もまた合口において高陽王慕容隆と合流し、共に張申を攻撃した。王祖は諸砦の兵を率いてこれを救援し、夜闇に乗じて後燕軍の陣営を攻撃したが、後燕軍はこれを返り討ちにして撤退させた。慕容楷・慕容麟は張申の砦を抑え、慕容隆は平幼と共に別々の道より王祖を追撃し、大戦果を挙げてから夜明けと共に帰還した。その敵軍の首級を懸けて張申に示すと、張申もまた抗戦を諦めて出降し、王祖もまた謝罪して帰順の意を示した。

慕容農の帰還

389年1月、慕容垂は陽平王慕容柔に襄国を鎮守させた。

遼西王慕容農は龍城を5年に渡って鎮守しており、諸々の政務を適切に遂行していたが、上表して「臣はかつて出征し、すぐにこの地に鎮しました。配下の将兵は長年安逸として過ごしておりますが、青・徐・荊・雍では遺寇(残った外敵)はなお盛んであります。願わくば職務を交代させて帰還させていただきたく思います。微力ながらも生の限り尽くし、この身が亡ぼうとも恨むことはありません。これが臣の志です!」と訴えた。

慕容垂はこれを認めて慕容農を呼び戻し、侍中・司隷校尉に任じ、代わりに高陽王慕容隆を都督幽平二州諸軍事・征北大将軍・幽州牧に任じた。また、龍城においては留台を建て、高陽王慕容隆を録留台尚書事に任じた。また、慕容暐や諸々の宗室で、苻堅により殺された者の招魂を行い、これを葬った。また、護軍将軍平幼を征北長史に任じ、散騎常侍封孚を司馬に任じて録留台尚書事を兼務させた。慕容隆は慕容農の時代の規定を継続し、これを広めた。これにより、遼碣(遼水・碣石一帯)は遂に安定した。

後燕の清河郡太守賀耕は兵を糾合して定陵で反乱を起こし、翟遼に呼応した。慕容農はこれを討伐して賀耕を処断し、定陵城を破壊した。そのまま進軍して鄴へと入城した。鄴城は広く守るに難しい城であったので、鳳陽門の大道の東に城を新たに築き、防備を強化した。

慕容温の死

4月、慕容垂は長楽公慕容盛に薊城を鎮守させ、前燕の首都であった頃の宮殿を修繕させた。翌年1月には薊に行台(臨時行政機関)を設置し、長楽公慕容盛を録行台尚書事に任じた。

389年5月、范陽王慕容徳・趙王慕容麟は共に賀蘭部の賀訥を攻撃し、さらに勿根山まで追撃した。進退窮まった賀訥は降伏を請うて上谷へ逃れ、その弟の賀染干を人質として中山へ送った。

10月、慕容垂は楽浪王慕容温を冀州刺史に任じた。慕容温が任地に赴任すると、翟遼は丁零人の故堤に偽りの降伏を申し入れさせ、慕容温の陣営に潜り込ませた。数日後、故堤は慕容温を刺し殺し、長史司馬駆と共に守備兵二百戸を伴って西燕へ亡命した。遼西王慕容農は襄国においてこれを迎え撃ち、その大半を捕らえたが、ただ故堤だけは捕縛を免れた。

390年4月、趙王慕容麟は北魏君主拓跋珪と意辛山で合流すると、賀蘭・紇突鄰・紇奚の三部を攻撃し、これを破った。

呉柱討伐

9月、北平出身の呉柱は千人余りの衆を纏め上げ、沙門法長を天子として祭り上げて挙兵し、北平郡を破った。さらには広都へ侵攻して白狼城に入った。この時、後燕の幽州牧慕容隆は夫人の葬送を行っており、郡県の守宰はみなこれに集まっていた。その為、衆は呉柱の反乱を聞き、慕容隆へ城に戻り、大軍を送り出してこれを討つよう請うた。慕容隆は葬送を一旦中止し、広平郡太守・広都令をまず任地へ帰らせ、続いて安昌侯慕容進に百騎余りを与えて白狼城へ向かわせた。呉柱の配下はこれを聞いてみな自潰し、呉柱は捕らえられて処断された。

賀蘭部撃破

391年1月、賀蘭部において内乱が置き、賀訥と賀染干が対立して互いに攻め合うようになった。魏王拓跋珪は後燕へ使者を送り、これを機に両者を討伐するよう要請し、自ら嚮導(行軍の案内役)を派遣すると述べた。2月、慕容垂は趙王慕容麟を派遣して賀訥を撃たせ、鎮北将軍蘭汗に龍城の兵を与えて賀染干を撃たせた。

4月、蘭汗は賀染干を牛都において破った。

6月、趙王慕容麟は賀訥を赤城において破り、賀訥を生け捕りとしてその部落数万を降伏させた。慕容垂は賀訥の部落を返し、賀染干の部落を中山に移した。

北魏との決別

慕容麟は帰還すると、慕容垂へ「臣が観ますに、拓跋珪の挙動はいずれ国の患いとなるでしょう。朝廷に連れて来て手元に置き、その弟に国事を監督させたほうがよいかと」と勧めた。だが、慕容垂は従わなかった。

7月、慕容垂は范陽に赴いた。

魏王拓跋珪は異父弟の拓跋觚を使者として後燕へ派遣した。この時、慕容垂は老いによる衰えがあり、国事についてはその子弟が代行していた。彼らは拓跋觚を都へ抑留して人質とし、さらに北魏へ名馬を求めた。だが、拓跋珪はこれを拒絶して後燕と国交を断絶すると、西燕と結ぶようになった。拓跋觚は脱走を図ったが、後燕の皇太子慕容宝は追撃して捕縛した。慕容垂はこれを罰さず、拓跋觚を厚遇した。

10月、慕容垂は中山に帰還した。

翟魏を滅ぼす

同月、翟遼がこの世を去ると、後を継いだ子の翟釗は鄴城へ侵攻した。後燕遼西王慕容農はこれを返り討ちにした。

12月、慕容垂は魯口へ赴き、392年2月には魯口より河間・勃海・平原へ赴いた。翟釗は将軍翟都を派遣して館陶へ侵攻し、蘇康砦に駐屯した。

3月、慕容垂は自ら軍を率いて翟釗討伐に向かい、南へ進撃して蘇康砦に迫った。4月、翟都は南へ退却して滑台に拠った。翟釗は西燕へ救援を要請したが、西燕君主慕容永は応じなかった。同月、領内に大赦を下した。

6月、慕容垂は黎陽へ軍を進めて黄河に臨むと、そのまま渡河しようと考えたが、翟釗は南岸に兵を並べてこれを阻んだ。諸将は翟釗の兵が精鋭揃いである事から、渡河すべきでは無いと進言したが、これに慕容垂は笑って「豎子(青二才)が何をなすというのか。我が今これから、卿らの為にこれを殺さん」と宣言すると、陣営を移動させて西津に就いた。そして黎陽より西に四十里の地点において百艘余りの牛皮船を作り、疑兵と武器だけを載せて河を渡らせた。翟釗はこれを知り、すぐさま兵を退いて西津へ赴いたが、慕容垂は密かに中塁将軍桂林王慕容鎮・驃騎将軍慕容国を夜の内に黎陽津より渡河させ、河南に陣営を築かせて夜明けには完成した。翟釗はこれを聞き、すぐに軍を反転させて慕容鎮らの陣営を攻めた。慕容垂は慕容鎮らに守備を固くして決して戦わぬよう命じ、翟釗の兵は往来を繰り返した事で疲弊しており、陣営を攻略できずに撤退した。これを受け、慕容鎮らは出撃し、驃騎将軍慕容農もまた西津より渡河し、共に挟撃して大いに破った。翟釗は滑台へ撤退すると、妻子や残兵数百騎を従えて北へ逃走した。そして河を渡って白鹿山(修武県の北にある)に登ると、険阻な地勢を頼みとして守りを固めた。これにより追撃していた慕容農もうかつに手出しできなかったが、彼は敢えてこれを攻めずに兵を退き、騎兵のみを留めて様子を探らせ、兵糧が尽きるのを待った。翟釗が予想通り食料を求めて下山してくると、兵を戻してこれを討ち、その衆を尽く捕らえた。翟釗は単騎で西燕の長子へ亡命し、一時は厚遇されたものの、やがて謀反を起こした事で誅殺された。

かつて、郝晷・崔逞・崔宏・張卓・夔騰・路纂はみな前秦に仕えていたが、国内が乱れた事で東晋に帰順して官職を授かり、河南において各々勢力を保っていた。やがて彼らは翟魏からも官爵を授かるようになったが、翟魏が敗れるとみな後燕に降降り、慕容垂は各々を才能に従って抜擢した。翟釗が収めていた七郡の民3万戸余りにはこれまで通りの暮らしを約束し、章武王慕容宙を兗豫二州刺史に任じて滑台を鎮守させた。また、翟魏のより移住させられていた徐州の民七千戶余りを黎陽へ移し、彭城王慕容脱を徐州刺史に任じ、黎陽を鎮守させた。また、崔蔭を慕容宙の司馬に任じ、統治の補佐を委ねた。

かつて陳留王慕容紹が鎮南将軍、太原王慕容楷が征西将軍、楽浪王慕容温が征東将軍であった頃、崔蔭は彼ら全員の補佐を務めていた。彼は才幹があって明敏・強正であり、諫言を善く行っており、四王はみな憚ったという。任地においては刑法を簡素にし、賦役を軽減した。これにより流民は基準時、戸口は増加していった。

7月、慕容垂は鄴へ赴くと、太原王慕容楷を冀州牧に、右光禄大夫余蔚を左僕射に任じた。

12月、慕容垂は中山へ帰還すると、遼西王慕容農を都督兗豫荊徐雍五州諸軍事に任じ、鄴を鎮守させた。

393年4月、慕容垂は皇太子慕容宝に大単于を加え、安定王庫傉官偉を太尉に、范陽王慕容徳を司徒に、太原王慕容楷を司空に、陳留王慕容紹を尚書右僕射に任じた。5月、子の慕容熙を河間王に、慕容朗を勃海王に、慕容鑒を博陵王に封じた。

西燕征伐へ

10月、慕容垂は西燕討伐を目論み、諸将と議論を交わした。諸将はみな「永(慕容永)には隙がありません。それに我らは連年に渡り征討を行っており、士卒は疲弊しております。実行すべきではありません」と反対したが、范陽王慕容徳は「永は国の枝葉(宗族)でありましたが、位号を僭称し、人々を惑わしております。まずこれを除き、民心を一つにするべきです。士卒は疲れているといえども、どうして中止してよいでしょうか!」と勧めた。慕容垂は「司徒(慕容徳)の考えはまさに我と同じである。我は老いてはいるが、智を振り絞ればこれを取るには十分であろう。この賊をこのまま留め、子孫に災いを残すべきではない」と述べ、遂に征伐を決断して戒厳令を布いた。

11月、慕容垂は中山より歩騎7万を率いて出発し、鎮西将軍・丹陽王慕容瓚・龍驤将軍張崇を井陘より出撃させて西燕の武郷公慕容友の守る晋陽を攻めさせ、征東將軍平規には鎮東将軍段平の守る沙亭を攻めさせた。西燕君主慕容永は尚書令刁雲・車騎将軍慕容鍾に5万の兵を与えて潞川を守らせた。12月、慕容垂は鄴へ到達した。

394年2月、慕容垂は清河公慕容会に鄴の鎮守を委ねると、司州・冀州・青州・兗州の兵を動員し、太原王慕容楷を滏口より、遼西王慕容農を壷関より出撃させ、自らは沙亭より出撃して西燕へ侵攻した。向かう所で嘘の行軍情報を流すと共に、軍を分散させて駐屯し、敵の情報網を攪乱した。その為、西燕君主慕容永は道を分けて兵を配置し、守りを固めると共に、台壁に兵糧を蓄えた。また、従子の征東将軍慕容小逸豆帰(西燕には当時慕容逸豆帰が2人いたので、それぞれを慕容大逸豆帰・慕容小逸豆帰と称していた)・鎭東将軍王次多・右将軍勒馬駒に数万余りの衆を与え、台壁を守らせた。

4月、慕容垂は鄴の西南に軍を屯営し、1月余り動こうとしなかった。慕容永はこれを不審に思い、太行は道が広い事から、慕容垂が奇策を用いてこれを取り、尽く諸軍を引き入れて軹関に駐屯させる気では無いかと考えた。そこで各道に配していた諸軍を戻して軹関の太行口を閉じ、ただ台壁には一軍のみを留めた。慕容垂は大軍を率いて滏口より出撃し、天井関に入った。

5月、後燕軍が台壁に到達すると、慕容永は従兄の太尉慕容大逸豆帰を派遣して救援させたが、平規がこれを返り討ちにした。慕容小逸豆帰もまた迎撃に出たが、遼西王慕容農がこれを破った。この戦いで勒馬駒を討ち取り、王次多を捕らえ、遂に台壁を包囲した。慕容永は太行より軍を帰還させ、自ら精鋭5万を率いて河曲に陣を布いてこれを拒んだ。だが刁雲・慕容鍾は大いに恐れ、衆を率いて後燕に降った。慕容垂は台壁の南に軍を並べ、慕容農・慕容楷を分けて二翼とし、驍騎将軍慕容国に千騎余りを与えて深澗(深い渓谷の川)において伏兵とした。慕容永が決戦を請うと、慕容垂はこれと交戦するも偽って後退し、慕容永は衆を率いてこれを追撃した。数里に渡って移動すると、慕容国は渓谷の中より騎兵を出し、その退路を断った。さらに慕容農・慕容楷らと共に四面より一斉に攻撃し、これを大破した。斬首する事八千余り、慕容永は長子へ逃げ帰った。

晋陽の守将はこれを聞き、城を捨てて逃走した。丹陽王慕容瓚らは進軍して晋陽を占領した。

6月、慕容垂は進軍して西燕の首都長子を包囲した。慕容永は後秦へ亡命しようとも考えたが、侍中蘭英の諫めにより籠城を決意した。

8月、長期間の包囲により慕容永は困窮し、子の常山公慕容弘らを派遣して東晋の雍州刺史郗恢へ救援を要請し、併せて玉璽一紐を献上した。東晋朝廷はこれに応じ、青兗二州刺史王恭・豫州刺史庾楷にこれを救援させた。慕容永は東晋軍が救援しないのではと恐れ、さらに皇太子慕容亮を人質として派遣したが、平規はこれを追って慕容亮を高都において捕らえた。慕容永はまた北魏にも救援を要請し、拓跋珪もまた申し出に応じて陳留公拓跋虔・将軍庾岳に騎兵5万を与えて救援を命じ、東へ渡河させて秀容に屯営させた。だが、東晋・北魏の軍が到達する前に、西燕の将軍伐勤賈韜らは密かに内応し、門を開いて後燕軍を迎え入れた。慕容永は北門より逃走を図るも、後燕の前鋒隊がこれを捕らえた。慕容垂はその罪を数え上げた上で処刑し、さらに刁雲・慕容大逸豆帰ら30人余りの公卿・大将もまた処断した。こうして慕容永が統括する8郡の7万6千800戸余りを傘下に加え、前秦の乗輿・服御・伎楽・珍宝を多数手に入れ、これにより朝廷に必要な器物は整えられた。慕容垂は丹陽王慕容瓚を并州刺史に任じて晋陽を鎮守させ、宜都王慕容鳳を雍州刺史に任じて長子を鎮守させた。また、西燕の尚書僕射屈遵・尚書王徳・秘書監李先・太子詹事封則・黄門郎胡毋亮・中書郎張騰・尚書郎公孫表らを才能に従って任官した。

9月、慕容垂は長子より鄴へ赴いた。

10月、慕容垂が東の陽平・平原を巡行し、遼西王慕容農を渡河させて安南将軍尹国と共に青・兗を攻略させた。慕容農は廩丘を、尹国は陽城を攻め、いずれも攻略した。東晋の東平郡太守韋簡は戦死し、高平・泰山・琅邪諸郡はみな城を捨てて逃走し、慕容農はさらに進軍して海に臨むと、全ての城に守宰を置いた。

11月、遼西王慕容農は辟閭渾を龍水において破り、臨淄まで進出した。12月、慕容垂は慕容農らを帰還させた。慕容垂は龍城の廟において戦勝を告げた。

395年1月、慕容垂は散騎常侍封則に貢物を持たせて後秦へ向かわせた。また、平原より広川・勃海・長楽において狩りを行ってから帰還した。

北魏征伐を敢行

4月、魏王拓跋珪は後燕に背き、辺境の諸部を侵略した。5月、慕容垂は北魏へ決断し、皇太子慕容宝・遼西王慕容農・趙王慕容麟に衆8万を与えて五原より出撃させ、范陽王慕容徳・陳留王慕容紹にも別動隊として歩騎1万8千を与えて後継とした。散騎常侍高湖は諫めて「魏と燕は代々婚姻を為しており、彼らの内に難があった時も、燕はこれを存続させました。その施したる徳は厚く、久しく友好を結んでおりました。ですが、馬を求めるも得られなかった事で、その弟(拓跋觚)を抑留しました。非は我らの方にあるのに、どうしていきなり兵を挙げようというのですか!拓跋渉圭(拓跋珪)は沈勇にして知略があり、幼い頃より艱難を経験し、その兵馬は精強であり、軽々しく当たるべきではありません。皇太子(慕容宝)は春秋に富み(年齢が若いという意味)、志果は気鋭でありますが、今これを委ねて專任すれば、必ずや相手を小魏と思って侮るでしょう。万に一つも不覚を取れば、その威重に傷がつきます。願わくば陛下がこれを深くお考え下さる事を!」と述べた。その言葉は激切であったが、慕容垂は怒って高湖を免官とした。

7月、後燕軍が来寇すると、拓跋珪は部落の畜産を全て移すと共に、また拠点を千里程西方へ移動させ、弱軍に見せかける事で油断を誘おうとした。後燕軍は五原へ到達すると、北魏の部落3万家余りを降伏させ、穀物百万斛余りを収め、黒城に保管した。ここで船を造って渡河の準備を進めた。拓跋珪は右司馬許謙を後秦に派遣し、救援を要請した。

8月、魏王拓跋珪は河南へ出陣し、9月には黄河に臨んだ。皇太子慕容宝は兵を並べて渡河を進めたが、この時に暴風が起こって数十艘の船が南岸まで流された。これにより北魏軍は甲士三百人余りを捕らえたが、みな赦して返してやった。

慕容宝が中山を出発した時、慕容垂は病を患っていた。そこで拓跋珪は中山への道路に人を派遣しておき、通りがかった後燕の使者を尽く捕らえたので為、慕容宝らは数カ月の間慕容垂の病状が分からなかった。また、拓跋珪は捕らえた使者を河に臨ませて「汝の父は既に死している。どうして早く帰らぬか!」と、後燕軍へ告げさせた。これを聞いた慕容宝らは憂恐し、士卒は大いに動揺した。

拓跋珪は陳留公拓跋虔に5万の騎兵を与えて河東に駐屯させ、東平公拓跋儀には10万の騎兵を与えて河北に駐屯させ、略陽公拓跋遵には7万の騎兵を与えて後燕軍の南の進路を遮断させた。

後秦君主姚興もまた要請に応じ、将軍楊仏嵩に兵を与えて北魏を救援させた。

後燕と北魏は数十日に渡って対峙したが、慕容宝は結局恐れて黄河を渡る事が出来なかった。趙王慕容麟配下の慕輿嵩らは慕容垂が本当に死んだと考え、乱を起こして慕容宝を誅殺し、代わりに慕容麟を奉じて盟主に立てようとした。事は露見して慕輿嵩らはみな誅殺されたが、この一件により慕容宝・慕容麟らは内心疑い合うようになった。10月、後燕軍は船を焼き払うと、夜闇に乗じて軍を撤退させた。この時、黄河はまだ凍っていなかったので、慕容宝は北魏軍は渡河出来ないと考え、斥候を設けていなかった。11月、暴風により黄河が凍ると、拓跋珪は兵を率いて渡河を果たし、輜重を留めた上で精鋭2万騎余りでこれを急追した。

参合陂の戦い

後燕軍は参合陂に到達すると、大風に遭った。沙門支曇猛は北魏軍の襲来に備えるよう勧めたが、慕容宝は北魏軍が未だ遠くにいると考えて取り合わず、慕容麟もまたこれに同調した。だが、司徒慕容徳は支曇猛の意見に同意し、備えるよう勧めたので、慕容宝は慕容麟に騎兵3万を与えて軍の後方を守らせた。だが、慕容麟は支曇猛の言葉を妄言と決めつけており、騎兵を伴って遊猟に耽り、備えを怠った。慕容宝がまた騎兵を派遣して周囲を探らせ、10里余り行かせたが、すぐに中止して帰還させ、そのまま眠りに入った。

北魏軍は昼夜問わずに進軍を続けており、数日後の暮れに参合陂の西に到着した。この時、後燕軍は参合陂の東にあり、蟠羊山(雁門郡沃陽県の南東60里の地に在るという)の南の水辺に屯営していた。拓跋珪は夜を待って諸将を分け、後燕軍に気づかれぬよう士卒に銜枚させて馬の口を縛り、密かに進軍した。翌日の日の出、北魏軍は山に登って下にある後燕の軍営を望んだ。後燕軍は東へ進もうとしていたが、これを顧みて士卒は大いに驚き擾乱した。拓跋珪は兵を繰りだしてこれを擊ち、後燕軍は川へ逃れたが、人馬が次々と走って後に続き、押しつぶされて溺死した者は1万を数えた。略陽公拓跋遵は兵を繰りだしてその前方の進路を遮ったので、4・5万の後燕兵がすぐに武器を放り出して投降し、ただ数千騎程度だけが逃げ延びた。こうして全軍は崩壊し、皇太子慕容宝・慕容徳らはみな単騎で逃走し、辛うじて免がれたものの、無事帰れた者は全軍のうち1割・2割程度であった。後燕の右僕射陳留王慕容紹は殺され、魯陽王慕容倭奴・桂林王慕容道成・済陰公慕容尹国ら文武の官僚数千人が捕らえられた。こうして数え切れぬほどの兵・武器・兵糧・財宝を失った(参合陂の戦い)。

雪辱を果たす

皇太子慕容宝は参合陂での敗戦を大いに恥じ、今の北魏には乗じる隙があるとして再び撃つ事を請うた。司徒慕容徳は慕容垂へ「虜(北魏)は参合陂の勝利に浮かれ、太子の心を軽んじております。陛下の神略でこれを服させ、その鋭志を挫くべきです。そうしなければ。後患となりましょう」と述べた。慕容垂はこれに同意し、清河公慕容会を録留台尚書事・領幽州刺史に任じ、代わって高陽王慕容隆に龍城を鎮守させ、陽城王蘭汗を北中郎将に任じ、代わって長楽公慕容盛に薊を鎮守させた。そして慕容隆・慕容盛に命じ、精鋭を尽く中山に終結させ、翌年に大挙して北魏を征伐する事を宣言した。

396年1月、後燕の高陽王慕容隆は龍城の兵を率いて中山へ入城した。その軍容は精整としており、後燕軍の士気はやや盛り返した。

慕容垂は征東将軍平規を冀州へ派遣し、兵を徴発させた。2月、平規は博陵・武邑・長楽の三郡の兵をもって魯口において反旗を翻し、平規の弟の海陽令平翰もまた遼西において挙兵してこれに応じた。慕容垂は鎮東将軍余嵩に平規を撃たせたが、余嵩は返り討ちにあって戦死した。その為、慕容垂は自ら平規討伐の為魯口へ向かうと、平規は衆を捨て、妻子や平喜ら数十人を伴って渡河したので、慕容垂は追撃せずに軍を返した。平翰は軍を率いて龍城へ向かうと、清河公慕容会は東陽公慕容根らに迎撃を命じてこれを破った。平翰は山南へ逃走した。

3月、慕容垂は范陽王慕容徳に中山の留守を任せると、密かに出陣した。山を穿って道を通し、獵嶺まで軍を進めた。慕容宝と慕容農には天門を経て進ませ、征北将軍慕容隆・征西将軍慕容盛には青嶺(代郡広昌県の南にある)を越えさせ、北魏の不意を衝いて雲中へ直進した。北魏の陳留公拓跋虔は部落3万家を従えて平城を鎮守しており、慕容垂は猟嶺へ至ると、遼西王慕容農・高陽王慕容隆を前鋒にしてこれを攻撃させた。この時、後燕軍は大敗を喫したばかりだったので、みな北魏軍を恐れていたが、ただ龍城兵だけは勇銳であり先を争って進んだ。拓跋虔は元々備えを全くしておらず、後燕軍が平城まで至るとようやくこれに気づき、麾下の兵を率いて出撃するも敗死した。後燕軍はその部落3万家を尽く収めた。拓跋虔の戦死を聞いた魏王拓跋珪は震えあがり、盛楽から逃走しようと考えたが、諸部はみな拓跋虔の敗死を知って二心を抱くような有様であり、どうすればよいのか分からなかった。

最期

後燕軍はさらに参合陂まで進むと、慕容垂は前年の大敗により山のように積み上げられた遺骨を見つけ、祭壇を設けて弔祭の礼を執り行った。これに戦死者の父兄は慟哭し、軍士もみな悲しみ嘆き、その声は山谷を震わせた。慕容垂は憤怒と慚愧が極まって吐血し、これがもとで病気となった。その為、馬輿に乗って退却し、平城から西北三十里の場所で屯営した。慕容宝らは雲中へ進軍していたが、これを聞いてみな引き返した。

後燕からの造反者がこれを北魏へ告げると、拓跋珪は参合陂で後燕の兵が大哭したというのを聞き及んでいたのでこれを信じ、追撃しようとしたが、平城全域が既に後燕の支配下にあると知り、陰山まで引き返した。

慕容垂は平城に戻ると10日間逗留したが、病状は次第に悪化したので、平城の北40里の地点に燕昌城を築いてから帰還した。

4月、上谷の沮陽においてこの世を去った。遺令として「今、禍難なお盛んであり、喪礼の一切を簡易なものとし、朝に終えれば夕には殯する(埋葬)ように。事が終われば成服(喪服)を纏い、3日の後に服を戻して政務に従事するのだ。強寇は隙を伺っており、秘して喪を発してはならぬ。京に至ってから、挙哀し、服喪するように」と告げた。慕容宝らはこれを遵行し、喪を秘して公表せず、中山まで帰還してから喪を発した。享年71。在位する事13年であった。成武皇帝と諡され、廟号は世祖とされた。その陵墓は宣平陵と名付けられた。皇太子慕容宝が後を継いで即位した。

慕容垂の死後、北魏は再び勢いを盛り返し、首都中山に迫るなど後燕と北魏の勢力関係は覆り、後燕は衰退していった[8]

人物

幼い頃から聡明にして器量を有し、心が広く小さな事に拘らない人物であった。身長は七尺七寸あり、手は膝下まで垂れる程長かったという。13歳になると一軍の将として各地の征伐に従軍するようになり、既にその勇猛さは全部隊の中でも随一と称されていた。慕容儁時代の末期には既にその名望により朝廷でも一目置かれる存在となっており、王公以下の群臣で彼に追従しようとしない者はいなかったという。

逸話

慕容皝との関係

父の慕容皝からは大いに寵愛を受けており、彼はいつも自分の弟達へ「この子は闊達にして好奇心が旺盛だ。いずれ人家を破る(他国を滅ぼす)か、或いは人家を成す(自国を興隆させる)であろうな」と語っていた。そして『奇覇の才(覇道により事業を成し遂げる卓越した才能)』があるとして、その名を「」とし、字を「道業」とした(後に改名)。さらには長幼の序列を飛び越えて世継ぎに立てようとも考えたが、群臣の諫めにより取りやめた。それでもその寵愛ぶりは世子の慕容儁をも越えるものであり、慕容儁は常々不満を抱いていたという。

慕容儁との関係

上記の経緯もあり、慕容儁は慕容垂の事をかねてより快く思っておらず、幾度か慕容垂を陥れようとした逸話が残っている。だが、その一方で中原攻略に際しては慕容垂に主力軍の一角を委ねており、死期を悟った際にも遼東よりわざわざ慕容垂を呼び戻しているなど、必ずしも排斥しようとしていたわけでは無い事も伺える。

  • 352年11月に慕容儁が帝位に即くと慕容垂(当時の名は慕容覇)は給事黄門侍郎に任じられたが、これは皇帝に近侍してその勅命を伝達するだけの文官職であり、軍事上の役職は授けられなかった。その為、それから1年もの間、彼は征伐に赴く事は無かったが、衛将軍慕容恪(慕容垂の兄)・撫軍将軍慕容軍(慕容皝の弟)・左将軍慕容彪[9](慕容皝の弟)は幾度も上表し、慕容垂には命世の才(世に名高い才能)があると訴え、もっと大きな任務を委ねるよう勧めていた。353年12月、慕容儁は遂にこの要請を認め、慕容垂を使持節・安東将軍・北冀州刺史に昇進させ、常山の防衛を命じた。
  • 慕容垂が呉王に封じられた頃、慕容儁はその名を「」から「𡙇」と改めさせた。表向きは郤缺春秋時代の政治家)の事を慕ってその名を与えた(「𡙇」と「」は同字)と吹聴していたが、実際には慕容垂の事を貶める事を目的としていた。慕容垂は若い頃より狩猟を趣味としていたが、猟の最中に落馬して歯を折る怪我を負ってしまった事があった。その為、慕容儁は彼の歯が欠けている事を嘲って「𡙇」と改名させたのである(「𡙇」は「」の異体字)。だがその後、「𡙇」という字が讖文(予言書)に応じているものである事を知り、これを妬んでさらに「𡙇」からの「」を除き、「」と改めさせた。
  • 354年には前燕の旧都龍城の鎮守を任されたが、その優れた統治により東北(遼西・遼東一帯を指す)の民から絶大な支持を得るようになると、慕容儁はこれを聞いてその人望を妬み、再び中央へ呼び戻している。
  • 357年の事、当時すでに慕容垂は段部の大人であった段末波の娘(後に成昭皇后と追諡)を妻として娶っており、彼女との間には慕容令慕容宝の2子をもうけていた。段夫人は気位が高く気概を有する人物であり、自らが貴い身分である事から慕容儁の皇后である可足渾氏(景昭皇后)を敬わなかったので、かねてより可足渾氏より大いに憎まれていた。その為、可足渾氏は中常侍涅皓に命じ、段夫人が典書令高弼と結託して呪術を行ったという偽りの罪をでっち上げ、段夫人と高弼を捕らえさせた。慕容儁はかねてより慕容垂の存在を快く思っていなかったので、この一件を利用して慕容垂を失脚させようと考えた。そこで大長秋廷尉に命じ、段夫人に対して拷問を伴う厳しい尋問を行わせ、慕容垂も呪詛に加担していたと嘘の告白をさせようとした。段夫人らは確固たる志を持って決して口を割る事は無かったが、拷問は日を追う毎に厳しくなっていった。その為、慕容垂はこれを憐れに思い、密かに使人を使わせて「人生はいずれ一死に至るのだ。どうしてそのような楚毒(激しい苦しみ)に堪える必要があろうか!罪を認めたほうがよい」と段夫人へ勧めたが、彼女は嘆息して「どうして我がそのような死を望みましょうか!もしその悪逆に屈して自ら誣言(嘘の証言)してしまえば、上は祖宗(祖先)を辱める事になり、下は王(慕容垂)にまで災いが及びます。決してそのような事を為しません!」と拒絶し、尋問での答弁はさらに明朗なものとなった。遂に段夫人は獄中で亡くなったものの、最後まで嘘の自白をする事は無かった。その為、慕容垂は罪を免れる事が出来たが、この一件で可足渾氏を大いに憎むようになった。後に慕容垂は獄死した段夫人の妹を継室として迎えようとしたが、可足渾氏はこれを退けて自らの妹である長安君を継室に据えるよう命じ、段夫人の妹は側室とした。慕容垂はこれに不満を抱き、さらに可足渾氏への恨みは募った。これが後に慕容垂が慕容評・可足渾氏と対立し、前秦へ出奔する原因の一つとなっている。
  • 元々、太祖(慕容皝)の廟には正室である文明皇后(慕容儁の実母)が配饗されていたが、慕容垂が帝位に即くと、彼は文明皇后を外して実母である蘭氏を配饗したいと考えた。その為、詔を下してこの事を百官に議論させると、みなこれに同意したが、博士劉詳董謐だけはこれに反対して「の母は帝の妃でありますが、その位は第三であり、その貴位が姜嫄(帝嚳の正室)を凌ぐ事はありませんでした。聖王の道を明らかにするためには、至公を第一とすべきです。文昭后(蘭氏)には別廟を建てるべきです」と訴えた。慕容垂はこれに怒って両者に迫ったが、劉詳・董謐は「上(君主)が為そうと欲するならば、臣に問うまでもないでしょう。臣はただを勘案して礼を奉じたまでです。それ以外の考えなど抱いておりません」と続けた。だが、慕容垂はこの件について再び儒者に問う事は無く、すぐさま文明皇后を移して蘭氏に代えた。さらには、可足渾氏(景昭皇后)は社稷を傾けたと断罪して烈祖(慕容儁)の廟から廃し、代わりに昭儀段氏を景徳皇后に追尊して配享した。

慕容恪との関係

  • 慕容恪はかねてより慕容垂の才能を認めており、慕容儁が没して彼が朝政を主管するようになって以降、慕容垂は一転して甚だ重用されるようになった。367年4月、慕容恪が病を患うようになると、死期を悟った彼は慕容暐へ「呉王垂(慕容垂)の将相(将軍と宰相)の才覚は臣に十倍します。先帝(慕容儁)は幼長の序列を重視して臣を先に取り立てたに過ぎません。臣が死んだ後は、どうか国を挙げて呉王を尊重なさって下さい」と進言し、慕容垂に後事を託すよう勧めた。また、その病がいよいよ重篤となると、再び慕容暐へ「臣が聞くところによりますと、恩に報いるには賢人を薦めるのが最上であると言います。賢者であれば、例え板築(下賤)であっても宰相とするには足りましょう。ましてや近親の者ならなおさらです!呉王は文武に才能を兼ね備え、管(管仲)・蕭(蕭何)にも匹敵します。もしも陛下が彼に大政(国家の政治)を任せれば、国家は安泰です。そうでなければ、必ずや秦か晋に隙を窺われましょう」 と進言し、さらに慕容暐の庶兄である安楽王慕容臧へ対しても「今、南には遺晋がおり、西には強秦がいる。二国とも常に進取の志を蓄えており、我が国に隙がないのを顧みているに過ぎぬ。そもそも国の興廃は輔相(宰相)にかかっており、中でも大司馬は六軍を総統する地位であり、それに見合う人物を任じなければならない。我が死んだ後は、親疎を考えるに汝か沖(慕容沖)となるであろう。汝らは才識があり明敏ではあるが、いかんせんまだ年少であり、多難の時節には堪えられぬであろう。呉王(慕容垂)は天資英傑であり、その知略は世を超絶している。汝らがもし大司馬にこれを推すのであれば、必ず四海を一つに纏める事が出来るであろう。ましてや外敵など恐るるに足らん。身を慎むのだ。利を貪って害を忘れ、これを国家の意とする事のないように」と述べ、改めて慕容垂を重用するように言い残している。

慕容宝に関する逸話

  • 慕容宝が皇太子に立てられた時、彼は周囲から大いに評判を得ていたが、次第に荒怠して中外を失望させるようになった。ある時、段皇后(成哀皇后)は慕容垂へ「太子は承平の世にあったならば、守成の主となれたでしょう。今、国は艱難を歩んであり、濟世の才が無ければ乗り切れないでしょう。遼西(慕容農)・高陽(慕容隆)の二王は陛下の賢子であり、どちらか1人を選んで大業を託すべきです。また、趙王麟(慕容麟)は姦詐にして強愎であり、いつか必ずや国家の患いとなるでしょう。早くこれに対処すべきです」と勧めた。慕容宝は慕容垂の側近達へは善く接していたので、側近はみな慕容宝の才能を褒めていた。その為、慕容垂もまた彼の事を賢人と信じており、段皇后へ「汝は我を献公にしたいのか!(晋の献公は驪姫の讒言を信じ、太子申生を殺した)」と激怒し、一切取り合わなかった。慕容宝・慕容麟はこの一件を聞いて段皇后を恨むようになり、やがて慕容垂の死して慕容宝が即位すると、彼女を自殺に追い込んだという。
  • かつて、慕容垂は慕容宝の嫡男(世継ぎ)がなかなか定まらない事をいつも心配してた。慕容宝の子である清河公慕容会は、母の身分が賤しかったものの、年長であり雄俊にして器芸を有していた。慕容垂は彼をただ者ではないと感じ、いつも寵愛しており、次第に彼を次期皇太子に据えようと考えるようになった。慕容宝が北魏討伐に出向いた際、慕容垂は慕容会に東宮(皇太子の宮殿)の役目に当たらせて総録させ、礼遇についても皇太子と同一とし、その意向を内外に示した。慕容垂が北魏を征伐した際には、慕容会に宗廟のある旧都龍城の鎮守を命じて東北地方の統治を委ね、補佐となる官僚にはいずれも当代の才能や威望のある者を選ばせた。さらに臨終の際にも、慕容宝へ慕容会を皇太子に立てるように遺命を残した。だが、慕容宝は少子の濮陽公慕容策を寵愛しており、最終的に子の遺言には従わなかった。これにより慕容宝と慕容会の間には軋轢が生じるようになり、後に慕容会が謀反を起こす原因の一つとなった。

慕容暐への対応

前秦から離反して自立して以降も、かつての君主である慕容暐は長安に留められて前秦の支配下にあり、慕容垂は彼に対しては一貫して配慮している。翟斌が慕容垂と合流した際、彼は慕容垂に尊号(帝位)を称するよう勧めたが、慕容垂は「新興侯(慕容暐)こそ国家の正統であり、我が君である。諸君らの力でもって関東を平定できれば、大義を秦へ示し、(慕容暐を)迎え奉って返正(皇帝に復位)させるまでだ。無上の自尊(皇帝即位)など、我の心には無い」と述べている。その後、後燕を建国した際も、帝号ではなく燕王を称するに留めており、独自の元号を用いる事も無かった[10]。その為、実体としては独立国であったが、厳密にはこの段階では彼の地位は諸侯に過ぎない。やがて慕容暐が謀反の罪で堅に誅殺されると、後燕の群臣はみな慕容垂に帝位に即位するよう勧めた。慕容垂は慕容沖が既に関中で帝号を称している事から、一度はこれを認めなかったものの、やがてこれに応じて皇帝に即位した。

苻堅との関係

苻堅は亡命当初より慕容垂を破格の待遇で迎えており、その信頼は絶大であった。慕容垂が宰相の王猛に陥れられ、脱走を図った際も一切罪には問わずにこれまで通り遇している。苻堅は東晋征伐に強い意欲を燃やしており、群臣はみな再三に渡り反対していたが、その中にあって慕容垂は強力に後押ししたので、苻堅はこれに大いに喜んで「我と天下を定める者は、卿一人である」と語り、この事について夜通しで語り合ったという。

慕容垂は燕王朝復興の野望は常に抱いていたとされ、苻堅が東晋攻略を決行した際、慕容楷・慕容紹は慕容垂へ「主上(苻堅)は驕り高ぶる事甚だしく、叔父(慕容垂)が中興の業(燕王朝の復興)を建てるのは、此度の行いに掛かっています!」と勧めると、慕容垂は「その通りだ。汝らがいなければ、これを成し得る事は出来ぬ!」と語っている。その一方で、流浪の身である自分を迎え入れてくれた苻堅に対しては一定の恩義を感じており、淝水の敗戦により逃走中の苻堅を自軍に収容した際、慕容垂の群臣は再三に渡り苻堅を殺して自立するよう勧めたが、彼は一切取り合わず、自らの束ねる兵の指揮権を全て苻堅に返上している。だが結局彼は前秦から離反して自立の道を歩んだので、苻堅からは大いに落胆された。ただ、関東制圧を目論んで鄴を守る苻丕と争った際も、敢えて西方の撤退路を空けておくなど、離反して以降も一定の配慮を保っている。

その他

  • 慕容暐が帝位に即くと、朝廷の重臣である太師慕輿根は朝廷を混乱させて自ら政権を掌握しようと考え、その第一段階として朝政を主管していた太宰録尚書事慕容恪へ向けて慕容暐を排斥して自ら帝位に即くよう勧めた。慕容恪は激怒して一切取り合う事は無く、後に慕容垂へこの件を報告すると、慕容垂は慕輿根の誅殺を勧めた。しかし慕容恪は「今、大喪(慕容儁の崩御)があったばかりであり、二隣(東晋と前秦)が隙を窺っている。山陵(慕容儁の陵墓)すらまだ建てられていないのに、宰輔(宰相)同士が殺し合ってしまえば、遠近の民の人心は離れてしまうだろう。今は忍ぶべきだ」と述べ、国内の動揺を憂えて従わなかった。だが、次第に慕輿根の反心が明らかとなると、慕容恪は遂に太傅慕容評と謀って慕輿根の罪を奏上し、宮殿内で誅殺した。
  • 367年10月、前秦の晋公苻柳・趙公苻双・魏公苻廋・燕公苻武が一斉に君主苻堅に対する反乱を起こし、苻廋は陝城を明け渡す事を条件に前燕へ援軍を要請した。范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして朝廷へ出兵を要請し、多くの群臣もまたこの要請に同意した。慕容暐もこれに従おうとしたが、慕容評は前秦の国力が強大である事、慕容恪が死して以降国内がまだ纏まっていない事を挙げて反対し、結局軍事行動を起こさなかった。苻廋は慕容評や慕容暐が何ら遠謀を持っていない事を知っており、救援軍が派遣されないのではと懸念していたので、前燕の重臣である慕容垂と皇甫真にも手紙を送って「苻堅、王猛はいずれも人傑であり、燕の征伐を久しく目論んでおりました。今、もしこの機会に乗じて赴かなければ、燕の君臣はまさに『甬東の悔』(呉王夫差に敗れると、越王勾践により甬東(舟山群島)に島流しを言い渡された。夫差はこれを拒絶し、かつて側近伍子胥の進言を用いず、越を滅ぼさなかった事を後悔しながら自殺した)を抱く事になりましょう」と訴えた。慕容垂はこの書を読むと、私的な場で皇甫真へ「我らを患わせる者は必ずや秦だ。主上(慕容暐)は春秋に富み(年齢が若いという意味)、未だに政事に心を留めようとせず、太傅(慕容評)の度量や計略を鑑みても、苻堅や王猛に抗う事は出来ぬぞ」と語った。皇甫真は「その通りだ。これこそ繞朝(春秋時代の政治家)が言う『謀之不従可如何!(謀が聞き入れられなければ、為す術が無い!)』という事だろう」と答えるのみであり、どうする事も出来なかった。結局、反乱は前秦の将軍王猛鄧羌張蚝楊安・王鑒によって同年のうちに鎮圧された。
  • 前燕から離反して前秦へ亡命する道中、趙の顕原陵(石虎の陵墓)に身を潜めていた時、狩猟中の数百騎が四面よりやってきた。対抗しようにも敵うわけもなく、逃げようにも道が無く、為す術が無かったが、幸いにも猟師達はみな鷹を飛ばして各地へ散って行った。慕容垂は白馬を殺して天へ捧げ、従者と共に神へ感謝したという。
  • 371年11月、前燕が滅亡すると、慕容垂は前燕の公卿や大夫、かつての官僚達とも再会したが、彼らの姿を見てかつての恨み(慕容評一派から受けた仕打ち)を思い出して怒りを覚えた。高弼は慕容垂へ「大王は祖宗積累(先祖代々)の資質を持ち、稀代の英傑の雄略を負っておりながら、災厄に遭遇して外邦(前秦)で暮らす事となりました。今、家国は傾覆したといえども、どうしてこれが興運の始りと為すと考えられないでしょうか!愚考しますに、国の旧人(前燕の人)へは江海のように大きな器量を見せ、その心を慰撫して掴むべきです。そして覆簣の基(事業の第一歩目)を立て、九仞の功(絶大なる功績)を成すのです。どうして一時の怒りでこれを捨て去ってもよいものでしょうか。大王がこのような事を為さらない事を密かに願うものです」と諫めた。慕容垂はこの発言に納得し、これに従った。
  • 鄴が陥落して前燕が滅んだ時、慕容評は鄴を脱出して遼東まで逃走を図っていたが、捕縛されてしまい長安へ送還された。だが、苻堅はこれを罪には問わず、給事中に任じた。372年2月、慕容垂は苻堅へ「臣の叔父評(慕容評)は、燕の悪来輩(奸臣)であり、二度も聖朝(前燕朝廷と前秦朝廷)を汚させるべきではありません。願わくば陛下が燕の為にこれを戮さん事を」と申し出た。苻堅は処刑については認めなかったが、慕容評を范陽郡太守に任じて地方へ左遷し、さらに前燕時代の諸王を尽く辺境の地に出した。
  • 377年春、後趙でかつて将作功曹を務めていた熊邈は、幾度も苻堅へ石氏の宮殿や飾りつけの器物の盛大さを述べていた。これを受け、苻堅は熊邈を将作長史・領尚方丞に任じ、舟艦・兵器を大々的に修築させ、尽く精巧な金銀をもって飾らせた。この時、慕容農(慕容垂の子)は密かに慕容垂へ「王猛が死して以降、秦の法制は日ごとに乱れております。今、またも奢侈なる様を重んじ、その災いはまさに至らんとしております。図讖の言(予言書に書かれていた事柄)が表れんとしているのです。大王(慕容垂)は天意を受けているのですから、英傑なる者と結託すべきです。時を失ってはなりません!」と告げ、政変の準備を進めるよう請うたが、慕容垂は笑って「天下の事は汝の及ぶ所ではない」と答えて取り合わなかった。
  • かつて前秦が前燕を滅ぼした時、慕容垂は苻堅に従って鄴に入り、子の慕容麟と再会した。彼は慕容垂が前秦に亡命した際に裏切って前燕朝廷に密告していたので、慕容垂はその母を誅殺したが、慕容麟を殺すには忍びなかった。だが、遠くに住まわせ、ごく稀に会う事を許すのみであった。だが、慕容垂が苻飛龍を討つに当たっては慕容麟は幾度も策略を献上し、これらは慕容垂の考えをさらに押し広げるものであった。その為、慕容垂は彼をただ者では無いと考え、他の庶子と同様に寵遇するようになった。
  • 後燕が樹立して間もない頃、冠軍将軍・宜都王慕容鳳(前燕の宜都王慕容桓の子であり、慕容垂の甥にあたる)はいつも身を顧みずに奮戦しており、前後して大小257の戦役に参画していたが、未だ大した功績を立てられておらず、焦りを覚えていた。その為、慕容垂は彼を戒めて「今、大業は起こり始めた所である。汝はまず自らを大事にすべきである!」と述べ、車騎将軍慕容徳の副将に配置し、その鋭気を抑えさせた。
  • 慕容垂が鄴の包囲戦を行っていた頃、気晴らしの為に狩りを行い、また華林園にて宴会を開いた事があった。だが、前秦軍はこれを察知して密かに兵を出すと、雨のように矢を降らせた。慕容垂は全く身動きが取れなくなったが、冠軍大将軍慕容隆が騎兵を率いて突撃したので、その隙にかろうじて脱出する事が出来た。
  • かつて慕容垂がまだ前秦に仕えて長安にいた頃、苻堅と手振りを交えて語らい合った事があった。慕容垂が退出すると、冗従僕射光祚は苻堅へ「陛下は慕容垂を疑いにはなられませぬか。垂は久しく人の下につく者ではないですぞ」と忠告したが、苻堅は取り合わずにこの話をそのまま慕容垂に告げた。時は流れ、苻丕が鄴から晋陽へ逃走した時に光祚は東晋に帰順したが、河北の情勢が悪化するに及んで後燕に降伏した。慕容垂は光祚と謁見すると、涙を流しながら「秦王(苻堅)は深く我を待遇し、我もまた全てを尽くしてこれに仕えた。ただ、二公(長楽公苻丕・平原公苻暉)が猜忌し、我は死を恐れてこれに背いてしまった。いつもこの事を考え、中夜になっても眠れぬ程だ」と話すと、光祚もまた悲慟した。慕容垂は光祚に金帛を下賜しようとしたが、光祚は固辞した。慕容垂は「卿は依然として何か企んでいるのかね」と問うと、光祚は「臣はこれまで、仕えるという事は忠を尽くす事だと考えてきました。仮に陛下が今そのようにお考えなのでしたら、臣は敢えて死から逃れようとは致しません!」と答えた。慕容垂は「これこそ卿の忠であり、固く我が求めているものだ。さきほどの言葉は戯れである」と述べた。以降、慕容垂は彼を厚遇するようになり、中常侍に任じた。
  • 388年8月、魏王拓跋珪は密かに後燕併呑を目論んでおり、九原公拓跋儀を中山へ使者として派遣した。慕容垂はこれを詰って「魏王はどうして自ら来ないのか」と問うと、拓跋儀は「先王と燕は共に晋室へ仕え、代々兄弟のようなものでした。今、臣下を使者として派遣するのは、道理に適っているかと」と答えた。これに慕容垂は「我は今、その威で四海を覆わんとしているだ。どうして昔日と同様だろうか!」と言うと、拓跋儀は「もし燕が徳や礼を修めず、ただ兵威をもって自らを強めようというのでしたら、それは将帥の事であり、使臣の知るところではありません」と答えるのみであった。
  • 389年、尚書郎婁会は上疏して「三年の喪は天下の達制(広く一般に行われる制度)でありますが、兵荒により礼は損なわれ、これを全く顧みずに士は登用されております。人心は奔競して苟も栄進ばかりを求め、遂には喪服を身に纏って戦役に赴くまでになりました。どうして国家に殉忠するからといって,その間に利益を貪ってもよいものでしょうか。聖王が教化するに当たり、顛沛(危急の時)だからといってその道を汚す事は無く、喪乱に遭遇したからといってその方針を変えたりはせず、故に豪競(権勢のある者同士が競う事)の門を閉じ、奔波(大勢が波の寄せるようにひしめいて争う事)路を塞ぐ事が出来たのです。陛下が百王の季を集め、中興の業をひろげた事で、天下は次第に鎮まり、兵革(戦乱)は落ち着こうとしております。今こそ瑕穢を取り除き、旧章(古くからのしきたり)から外れぬよう戻すべきです。吏が大喪に遭えば、三年の礼を終えるのを聞き入れてくださいますよう。そうすれば四方は知化、人は礼に服するようになるでしょう」と述べ、かつて一般的に行われていた喪礼を復活させるよう請うたが、慕容垂は従わなかった。

宗室

后妃

男子

脚注

  1. ^ 十六国春秋』では叔仁とも
  2. ^ 『十六国春秋』ではこれ以前より平狄将軍だったとする
  3. ^ 『十六国春秋』では臨渠とする
  4. ^ 『十六国春秋』では鎮東将軍にも任じられている
  5. ^ 『十六国春秋』では李邦とも
  6. ^ 晋書』では慕容垂自身を嚮導に任じたと記載がある
  7. ^ 『晋書』では、慕容楷もまた慕容紹と共に辟陽へ逃れた事になっている。
  8. ^ 三崎『五胡十六国』、P105
  9. ^ 資治通鑑』では慕容彭とする
  10. ^ 『晋書』慕容垂載記では燕元という元号を用いたとされているが、その他史書にはそのような記録は無い。

参考文献

関連項目