「許衡」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
6行目: | 6行目: | ||
[[1242年]]に柳城の[[姚枢]]に会って[[程頤]]の『易経』・[[朱熹]]の『四書章句集注』『小学』などの書物を知り、お互いに経・伝・子・史・暦・礼楽・兵刑・食貨・水利について論じる。[[1254年]]に[[クビライ]]が宣撫司を置いた時に[[京兆地方]]の提学となり、文教政策に尽力する。[[1258年]]に河内に移住。[[1260年]]にフビライが即位すると召されて北上し、太子太保・国子祭酒・議事中書(中書左丞)などを歴任。その間、朝儀官制を制定しモンゴル朝廷の中国化に意を用いた。[[阿合馬]]が平章政事となり専権をふるった時に議論が合わず、降格される。さらに至元元年([[1264年]])に阿合馬を弾劾するがフビライに斥けられたので、病と称して辞任する。至元8年([[1271年]])に再び起用され集賢大学士に国子祭酒を兼任し、モンゴル貴族の子弟の教育にあたる。至元10年([[1273年]])に辞任して懐州に帰るが至元13年([[1276年]])にまたも[[大都]]に召されて太子院とされる。当時モンゴルが金から継承して使用していた大明暦を改めるべく、[[王恂 (元)|王恂]]・[[郭守敬]]とともに新暦の作成に着手、至元17年([[1280年]])に退官し、翌至元18年(1281年)に没する。 |
[[1242年]]に柳城の[[姚枢]]に会って[[程頤]]の『易経』・[[朱熹]]の『四書章句集注』『小学』などの書物を知り、お互いに経・伝・子・史・暦・礼楽・兵刑・食貨・水利について論じる。[[1254年]]に[[クビライ]]が宣撫司を置いた時に[[京兆地方]]の提学となり、文教政策に尽力する。[[1258年]]に河内に移住。[[1260年]]にフビライが即位すると召されて北上し、太子太保・国子祭酒・議事中書(中書左丞)などを歴任。その間、朝儀官制を制定しモンゴル朝廷の中国化に意を用いた。[[阿合馬]]が平章政事となり専権をふるった時に議論が合わず、降格される。さらに至元元年([[1264年]])に阿合馬を弾劾するがフビライに斥けられたので、病と称して辞任する。至元8年([[1271年]])に再び起用され集賢大学士に国子祭酒を兼任し、モンゴル貴族の子弟の教育にあたる。至元10年([[1273年]])に辞任して懐州に帰るが至元13年([[1276年]])にまたも[[大都]]に召されて太子院とされる。当時モンゴルが金から継承して使用していた大明暦を改めるべく、[[王恂 (元)|王恂]]・[[郭守敬]]とともに新暦の作成に着手、至元17年([[1280年]])に退官し、翌至元18年(1281年)に没する。 |
||
クビライの招きに応じた許衡について、日本の儒学者である[[浅見絅斎]]はその著『[[靖献遺言]]』の中で、「夷狄に仕えて大義を失った」と批判するが、一方、[[伊藤仁斎]]は許衡には許衡なりの苦衷があるとし、[[北宋]]の[[ |
クビライの招きに応じた許衡について、日本の儒学者である[[浅見絅斎]]はその著『[[靖献遺言]]』の中で、「夷狄に仕えて大義を失った」と批判するが、一方、[[伊藤仁斎]]は許衡には許衡なりの苦衷があるとし、[[北宋]]の[[程顥]]・[[范仲淹]]とともに古今三大賢の一人に数える。 |
||
== 著述 == |
== 著述 == |
2020年8月10日 (月) 06:34時点における版
許 衡(きょ こう、1209年5月8日(大安元年4月3日) - 1281年3月23日(至元18年3月3日))は、中国の元代初期の学者。字は仲平。魯斎先生とも称する。諡は文正。懐州河内県の出身。
生涯
16歳の時に学問を志し儒学の経典を一心に研究するようになる。1232年にモンゴルが金を破り新鄭に攻め込んだ時に捕虜となるが、すぐに釈放される。その6年後に蘇門に住むようになり有名な隠士の竇黙に出会っている。
1242年に柳城の姚枢に会って程頤の『易経』・朱熹の『四書章句集注』『小学』などの書物を知り、お互いに経・伝・子・史・暦・礼楽・兵刑・食貨・水利について論じる。1254年にクビライが宣撫司を置いた時に京兆地方の提学となり、文教政策に尽力する。1258年に河内に移住。1260年にフビライが即位すると召されて北上し、太子太保・国子祭酒・議事中書(中書左丞)などを歴任。その間、朝儀官制を制定しモンゴル朝廷の中国化に意を用いた。阿合馬が平章政事となり専権をふるった時に議論が合わず、降格される。さらに至元元年(1264年)に阿合馬を弾劾するがフビライに斥けられたので、病と称して辞任する。至元8年(1271年)に再び起用され集賢大学士に国子祭酒を兼任し、モンゴル貴族の子弟の教育にあたる。至元10年(1273年)に辞任して懐州に帰るが至元13年(1276年)にまたも大都に召されて太子院とされる。当時モンゴルが金から継承して使用していた大明暦を改めるべく、王恂・郭守敬とともに新暦の作成に着手、至元17年(1280年)に退官し、翌至元18年(1281年)に没する。
クビライの招きに応じた許衡について、日本の儒学者である浅見絅斎はその著『靖献遺言』の中で、「夷狄に仕えて大義を失った」と批判するが、一方、伊藤仁斎は許衡には許衡なりの苦衷があるとし、北宋の程顥・范仲淹とともに古今三大賢の一人に数える。
著述
- 『大学直解』
- 『中庸直解』
- 『大学要略』
- 『編年歌括』
- 『稽古千字文』
- 『魯斎遺書』
- 王成儒・校訂『許衡集』(東方出版社、2007年出版)
参考文献
- 『元史』巻158 許衡伝