コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李諧」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「顥・颺」→「コウ・ヨウ」の改名に伴うリンク修正依頼 (元顥) - log
 
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[李平 (北魏)|李平]]の子として生まれた。成長すると、博学で文弁をよくし、才俊として当時に認められた。父の以前の爵位の彭城侯を嗣いだ。太尉参軍から、尚書郎を経て、北海王[[元コウ|元顥]]の下で[[徐州]]撫軍府司馬をつとめた。次いで入朝して長兼中書侍郎となった。後に[[崔光 (北魏)|崔光]]に召されて、兼著作郎となった。歴史を記録する職についたものの、記録に意義を見出さなかった。輔国将軍の号を加えられ、[[相州]]大中正・[[光禄大夫]]の位を受けた。さらに金紫光禄大夫の位を受け、[[衛将軍]]の号を加えられた。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、元顥が[[洛陽]]に入ると、李諧は給事黄門侍郎に任じられた。元顥が敗死すると、官爵を剥奪されたため、「述身賦」を作ってその思いを述べた。
[[李平 (北魏)|李平]]の子として生まれた。成長すると、博学で文弁をよくし、才俊として当時に認められた。父の以前の爵位の彭城侯を嗣いだ。太尉参軍から、尚書郎を経て、北海王[[元顥]]の下で[[徐州]]撫軍府司馬をつとめた。次いで入朝して長兼中書侍郎となった。後に[[崔光 (北魏)|崔光]]に召されて、兼著作郎となった。歴史を記録する職についたものの、記録に意義を見出さなかった。輔国将軍の号を加えられ、[[相州]]大中正・[[光禄大夫]]の位を受けた。さらに金紫光禄大夫の位を受け、[[衛将軍]]の号を加えられた。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、元顥が[[洛陽]]に入ると、李諧は給事黄門侍郎に任じられた。元顥が敗死すると、官爵を剥奪されたため、「述身賦」を作ってその思いを述べた。


[[534年]]([[天平 (東魏)|天平]]元年)、母が死去したため、郷里に帰って喪に服した。魏尹として召されたが、服喪期間が終わっていないことを理由に断った。[[537年]](天平4年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]が東魏に通好を求めてくると、李諧は兼散騎常侍となり、主使として江南に向かった。梁の主客郎の范胥や梁の[[蕭衍|武帝]]と面会して、応答を交わし、才弁を認められた。帰国すると、大司農卿に任じられた。驃騎将軍の号を加えられ、秘書監に転じた。半身麻痺にかかって職務を退いた。
[[534年]]([[天平 (東魏)|天平]]元年)、母が死去したため、郷里に帰って喪に服した。魏尹として召されたが、服喪期間が終わっていないことを理由に断った。[[537年]](天平4年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]が東魏に通好を求めてくると、李諧は兼散騎常侍となり、主使として江南に向かった。梁の主客郎の范胥や梁の[[蕭衍|武帝]]と面会して、応答を交わし、才弁を認められた。帰国すると、大司農卿に任じられた。驃騎将軍の号を加えられ、秘書監に転じた。半身麻痺にかかって職務を退いた。

2020年8月10日 (月) 06:36時点における最新版

李 諧(り かい、496年 - 544年)は、北魏官僚文人は虔和。本貫頓丘郡衛国県

経歴

[編集]

李平の子として生まれた。成長すると、博学で文弁をよくし、才俊として当時に認められた。父の以前の爵位の彭城侯を嗣いだ。太尉参軍から、尚書郎を経て、北海王元顥の下で徐州撫軍府司馬をつとめた。次いで入朝して長兼中書侍郎となった。後に崔光に召されて、兼著作郎となった。歴史を記録する職についたものの、記録に意義を見出さなかった。輔国将軍の号を加えられ、相州大中正・光禄大夫の位を受けた。さらに金紫光禄大夫の位を受け、衛将軍の号を加えられた。529年永安2年)、元顥が洛陽に入ると、李諧は給事黄門侍郎に任じられた。元顥が敗死すると、官爵を剥奪されたため、「述身賦」を作ってその思いを述べた。

534年天平元年)、母が死去したため、郷里に帰って喪に服した。魏尹として召されたが、服喪期間が終わっていないことを理由に断った。537年(天平4年)、南朝梁が東魏に通好を求めてくると、李諧は兼散騎常侍となり、主使として江南に向かった。梁の主客郎の范胥や梁の武帝と面会して、応答を交わし、才弁を認められた。帰国すると、大司農卿に任じられた。驃騎将軍の号を加えられ、秘書監に転じた。半身麻痺にかかって職務を退いた。

544年武定2年)、死去した。享年は49、驃騎大将軍・衛尉卿・斉州刺史の位を追贈された。生前の文章は文集にまとめられて刊行され、当時に通行した。

子女

[編集]
  • 李岳(字は祖仁、長男、武定末年に司徒祭酒)
  • 李庶(尚書南主客郎)
  • 李蔚(尚書左中兵郎中)
  • 李若(散騎常侍・儀同三司、隋の秦王府諮議)

伝記資料

[編集]