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臨滹山'''大仙寺'''(だいせんじ)は[[岐阜県]]加茂郡八百津町にある臨済宗妙心寺派の寺院。[[永保寺]]、[[正眼寺]]とともに美濃三道場と呼ばれた古刹。 |
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如幻尼により寛正元年に臨済宗南禅寺派の不二庵として開かれる。創建当初は現在より南の黒瀬にあった。明応元年(1492年)に[[東陽英朝]]が入山する。文亀元年(1501年)に[[土岐政房]]の外護により新たに伽藍を整備して臨滹山大仙寺となった。山号は[[木曽川]]を[[臨済寺 (河北省)|臨済寺]]の近くを流れている[[ |
如幻尼により寛正元年に臨済宗南禅寺派の不二庵として開かれる。創建当初は現在より南の黒瀬にあった。明応元年(1492年)に[[東陽英朝]]が入山する。文亀元年(1501年)に[[土岐政房]]の外護により新たに伽藍を整備して臨滹山大仙寺となった。山号は[[木曽川]]を[[臨済寺 (河北省)|臨済寺]]の近くを流れている[[滹沱河]]に比して名付けられたものである。[[永正]]元年(1504年)には土岐氏の祈願所となる。二代目の住職には東陽英朝の法嗣、大雅耑匡が就いた。戦国時代に土岐氏が衰退するにつれ寺勢が衰えるが、江戸時代に入り八代目住持となった愚堂東寔が現在地へと移し中興を果たした。現在伽藍にある[[地蔵]]堂や方丈は愚堂禅師の時代のものである。愚堂東寔が住職の時代に[[沢庵宗彭]]の勧めにより[[宮本武蔵]]が訪れたとされ、その際に座禅をしたという石が残っている。 |
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岐阜県指定の文化財としてつり手[[縄文土器]]、[[万里集九]]賛ハゝ鳥、蒙山徳異紙本[[達磨]]図、絹本著色東陽英朝頂相、絹本墨画蘭石図、東陽英朝書跡及び愚堂東寔書跡を所蔵し、また八百津町指定の文化財として愚堂東寔頂相などを有する。 |
岐阜県指定の文化財としてつり手[[縄文土器]]、[[万里集九]]賛ハゝ鳥、蒙山徳異紙本[[達磨]]図、絹本著色東陽英朝頂相、絹本墨画蘭石図、東陽英朝書跡及び愚堂東寔書跡を所蔵し、また八百津町指定の文化財として愚堂東寔頂相などを有する。 |
2020年8月10日 (月) 10:32時点における版
大仙寺 | |
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所在地 | 岐阜県加茂郡八百津町八百津4345-1 |
山号 | 臨滹山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦牟尼仏 |
創建年 | 寛正元年(1461年) |
開基 | 如幻尼 |
中興年 | 寛永7年(1630年) |
中興 | 愚堂東寔 |
法人番号 | 4200005006679 |
臨滹山大仙寺(だいせんじ)は岐阜県加茂郡八百津町にある臨済宗妙心寺派の寺院。永保寺、正眼寺とともに美濃三道場と呼ばれた古刹。
如幻尼により寛正元年に臨済宗南禅寺派の不二庵として開かれる。創建当初は現在より南の黒瀬にあった。明応元年(1492年)に東陽英朝が入山する。文亀元年(1501年)に土岐政房の外護により新たに伽藍を整備して臨滹山大仙寺となった。山号は木曽川を臨済寺の近くを流れている滹沱河に比して名付けられたものである。永正元年(1504年)には土岐氏の祈願所となる。二代目の住職には東陽英朝の法嗣、大雅耑匡が就いた。戦国時代に土岐氏が衰退するにつれ寺勢が衰えるが、江戸時代に入り八代目住持となった愚堂東寔が現在地へと移し中興を果たした。現在伽藍にある地蔵堂や方丈は愚堂禅師の時代のものである。愚堂東寔が住職の時代に沢庵宗彭の勧めにより宮本武蔵が訪れたとされ、その際に座禅をしたという石が残っている。
岐阜県指定の文化財としてつり手縄文土器、万里集九賛ハゝ鳥、蒙山徳異紙本達磨図、絹本著色東陽英朝頂相、絹本墨画蘭石図、東陽英朝書跡及び愚堂東寔書跡を所蔵し、また八百津町指定の文化財として愚堂東寔頂相などを有する。