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== 来歴 ==
== 来歴 ==
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1919年、[[芝中学校・高等学校|旧制芝中学校]]卒業後<ref>{{Cite journal|author=社会部 石井行夫|year=|title=東京の高校めぐり あの人もここに学んだ(芝高校6)|journal=産経新聞|volume=|page=}}</ref>、[[東京商科大学 (旧制)|東京商科大学]](現・[[一橋大学]])卒業。[[ロンドン]]に留学して近代登山に出会い、帰国後『たった一人の山』([[1941年]]刊)など、山岳[[紀行]]の分野を開拓する。ジャーナリストとしては[[太平洋問題調査会#日本太平洋問題調査会|日本太平洋問題調査会]]に参加し、[[1929年]]京都で開かれた「[[太平洋問題調査会#太平洋会議の一覧|太平洋会議]]」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を[[山政道]]・[[松本重治]]・[[牛場友彦]]らとともに設立し、[[近衛文麿]]の外交問題ブレインを形成した。


[[吉川英治]]を評価して「[[国民文学]]」と呼んだ人でもある。
[[吉川英治]]を評価して「[[国民文学]]」と呼んだ人でもある。

2020年8月12日 (水) 04:48時点における版

浦松 佐美太郎(うらまつ さみたろう、1901年10月1日 - 1981年12月23日)は、日本ジャーナリスト登山家評論家。今日では本業のジャーナリストとしてよりも、登山家・山岳作家としての仕事で知られている。

来歴

1919年、旧制芝中学校卒業後[1]東京商科大学(現・一橋大学)卒業。ロンドンに留学して近代登山に出会い、帰国後『たった一人の山』(1941年刊)など、山岳紀行の分野を開拓する。ジャーナリストとしては日本太平洋問題調査会に参加し、1929年京都で開かれた「太平洋会議」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を蠟山政道松本重治牛場友彦らとともに設立し、近衛文麿の外交問題ブレインを形成した。

吉川英治を評価して「国民文学」と呼んだ人でもある。

著書

  • たつた一人の山 文藝春秋社 1941 のち文庫、平凡社ライブラリー
  • 山日 文藝春秋新社 1946
  • 食後の教養 四季社 1951
  • 暮しのなかで考える 暮しの手帖社 1959

翻訳

  • 支那と農業と工業 R・H・トーネイ 牛場友彦共訳 岩波書店 1935
  • アルプス登攀記 E・ウィムパー(エドワード・ウィンパー) 岩波文庫(上下) 1936、のち改版
  • エヴェレスト その人間的記録 ウイルフリッド・ノイス 文藝春秋新社 1956
  • 積みすぎた箱舟 ジェラルド・ダレル 暮しの手帖社 1960 のち講談社文庫、学術文庫
  • 海への挑戦 ジョン・リッジウェイ、チェイ・ブリス 河出書房 1967
  • 大日本帝国の崩壊 ウィリアム・クレイグ 河出書房新社 1968

脚注

  1. ^ 社会部 石井行夫. “東京の高校めぐり あの人もここに学んだ(芝高校6)”. 産経新聞.