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[[顔恵慶]]臨時内閣を経て、[[周自斉]]臨時内閣の[[1922年]](民国11年)6月に政府の各職を離れ、農商銀行総裁となった。[[1927年]](民国16年)、安国軍政治討論委員会委員、北京古学院経史研究会研究員などをつとめている。 |
[[顔恵慶]]臨時内閣を経て、[[周自斉]]臨時内閣の[[1922年]](民国11年)6月に政府の各職を離れ、農商銀行総裁となった。[[1927年]](民国16年)、安国軍政治討論委員会委員、北京古学院経史研究会研究員などをつとめている。 |
2020年8月12日 (水) 09:31時点における版
斉耀珊 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1865年(清同治4年)[1] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清吉林将軍管轄区伊通 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 齊耀珊 |
簡体字: | 齐耀珊 |
拼音: | Qí Yàoshān |
ラテン字: | Ch'i Yao-shan |
和名表記: | せい ようさん |
発音転記: | チー ヤオシャン |
斉 耀珊(せい ようさん)は清末民初の政治家。北京政府で要職をつとめた。字は照巖。兄は同じく清末民初の政治家である斉耀琳。
事績
1890年(光緒16年)、庚申科進士となる。その後は湖北省で各職を歴任し、湖北提学使まで昇進した。1913年(民国2年)1月、北京塩務籌備処処長となる。翌年3月には約法会議議員、5月には参政院参政となった。
1918年(民国7年)1月、浙江省省長となる。1920年(民国9年)6月には山東省省長に異動した。1921年(民国10年)5月、靳雲鵬内閣で内務総長兼飢饉救済会総理となる。後に督弁京師市政事宜、商務銀行総裁も兼ねた。12月、梁士詒内閣で農商総長に異動し、さらに教育総長も兼任署理した。
顔恵慶臨時内閣を経て、周自斉臨時内閣の1922年(民国11年)6月に政府の各職を離れ、農商銀行総裁となった。1927年(民国16年)、安国軍政治討論委員会委員、北京古学院経史研究会研究員などをつとめている。
以後、斉耀珊の行方は不明である。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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