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'''靳 雲鵬'''(きん うんほう)は[[清|清末]]、[[中華民国]]の軍人、政治家。[[北京政府]]、[[安徽派]]の有力軍人で、[[段祺瑞]]配下の「'''四大金剛'''」の筆頭(他は[[徐樹錚]]・[[呉光新]]・[[傅良佐]])とされる。後に国務総理も務めた。号は'''翼清'''。祖籍は山東省[[済寧市|済寧州]]。弟に安徽派・[[直隷派]]の軍人である[[ |
'''靳 雲鵬'''(きん うんほう)は[[清|清末]]、[[中華民国]]の軍人、政治家。[[北京政府]]、[[安徽派]]の有力軍人で、[[段祺瑞]]配下の「'''四大金剛'''」の筆頭(他は[[徐樹錚]]・[[呉光新]]・[[傅良佐]])とされる。後に国務総理も務めた。号は'''翼清'''。祖籍は山東省[[済寧市|済寧州]]。弟に安徽派・[[直隷派]]の軍人である[[靳雲鶚]]。 |
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== 事跡 == |
== 事跡 == |
2020年8月12日 (水) 09:33時点における版
靳雲鵬 | |
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プロフィール | |
出生: | 1877年(清光緒3年) |
死去: |
1951年1月3日 中華人民共和国天津市 |
出身地: | 清山東省兗州府鄒県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 靳雲鵬 |
簡体字: | 靳云鹏 |
拼音: | Jìn Yúnpéng |
ラテン字: | Chin Yün-p'eng |
注音二式: | Jìn Yúnpéng |
和名表記: | きん うんほう |
発音転記: | ジン ユンポン |
靳 雲鵬(きん うんほう)は清末、中華民国の軍人、政治家。北京政府、安徽派の有力軍人で、段祺瑞配下の「四大金剛」の筆頭(他は徐樹錚・呉光新・傅良佐)とされる。後に国務総理も務めた。号は翼清。祖籍は山東省済寧州。弟に安徽派・直隷派の軍人である靳雲鶚。
事跡
山東省済寧州嶧山鎮苗庄村(現鄒城市)出身。父は靳長生、母は邱氏。幼くして父を亡くし、雲鶚とともに水を売ったり運送業を行って生計を立てていたが、18歳の時、雲鶚が尚書の息子に水をはねて罪に問われそうになったため、雲鶚と母とともに夜逃げして済南へたどり着き、染色業を営んだ[1]。右眼が外斜視だった事から、「斜眼染匠」と呼ばれ親しまれた[1]。
のち天津に赴き、天津武備学堂を卒業し、1902年(光緒28年)に北洋常備軍軍政司参謀処で提調として任用された。李経羲が雲貴総督に任命されると、靳雲鵬も雲南省に赴任し、新軍督練公所総参議に任命された。1911年(宣統3年)10月に蔡鍔、李根源、唐継尭らが武昌起義に呼応し昆明重九起義を勃発させると、靳は五華山にて数個営を率いて籠城したが[1]、結局昆明から逃走して帰郷し、同じく下野した潘復と済寧で魯豊麺粉公司を経営した。
1912年(民国元年)に中華民国が成立すると、靳雲鵬は同年秋に軍に戻り、山東省で北洋陸軍第5師師長に任命された。その後、陸軍部次長に異動した。1913年(民国2年)、山東都督に就任する。1914年(民国3年)には泰武将軍位を授与され、督理山東軍務となっている。1915年(民国4年)12月に袁世凱が皇帝に即位すると、靳は一等伯爵に封じられた。1916年(民国5年)、果威将軍に封じられている。しかし3月18日、江蘇将軍・馮国璋、広西将軍・李純、浙江将軍・朱瑞、湖南将軍・湯薌銘と護国軍撤退と帝政撤回を求める「五将軍の密電」を発した[2]。
同年6月に袁世凱が死去すると、靳雲鵬は段祺瑞配下の「四大金剛」の筆頭と目され、安徽派の有力幹部となった。一方で、直隷派の曹錕とは義兄弟で、自身の息子は奉天派の張作霖の五女と許嫁であった。1917年(民国6年)、日本へ軍事視察に訪問し、帰国後は参戦軍督練に任命された。1919年(民国8年)11月5日、国務総理兼陸軍総長に任命された。当初、財政、内務、交通部長、国務院秘書長は自派閥から選抜しようとしていた安福系議員からの要求を拒み、他派閥とのバランスを重視していたが、24日、同じく「四大金剛」の徐樹錚から段祺瑞の面前で「直隷派の犬に成り下がったのか」と罵られ、段祺瑞も閣僚名簿に同意しなかった。結局、閣僚名簿は変更せざるを得なかった[3]。翌年2月23日、段祺瑞は河南省を自己の勢力圏に加え直隷派との主戦場にするべく、河南督軍・趙倜を呉光新に換える命を下したが、河南省出身の大総統・徐世昌は自身の故郷が主戦場となる事に反発し捺印を拒否した。捺印させられなかった靳雲鵬は段祺瑞より叱責を受け、まもなく病気と称して辞職した[4]。この経緯もあって、1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北した後も、靳は8月に国務総理に再任されたが、張作霖から直隷派寄りと見なされ対立して1921年(民国10年)12月11日に再び辞職した[1]。
以後は天津のイギリス租界に移住して、日本との合弁会社を営むなど、経済活動に専念した。その後も、張作霖や中国国民党、日本から政治舞台への復帰を勧められたが、実際には応じていない。晩年は仏門に入り、中華人民共和国建国後も天津に留まっている。
1951年1月3日、天津で死去。享年75。
注
参考文献
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 杉山祐之『覇王と革命 中国軍閥史一九一五‐二八』白水社、2012年。ISBN 978-4-560-08256-0。
中華民国(北京政府)
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