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武官の家庭に生まれる。16歳のとき、父が冤罪により収監されると、易培基は自ら弁護の文章を書いて地方官に提出する。それを評価されて父は釈放され、易培基自身も文章で名声をなすこととなった。その後、[[湖北省]]に赴いて湖北方言学堂に入学し、このとき、[[趙恒惕]]と同学となった。卒業後、日本に留学して学問の修得を続けた。また、このときに[[中国同盟会]]に加入している。帰国後の[[1913年]]([[民国紀元|民国]]2年)に、湖南高等師範学堂で国文教員となる。翌年、長沙師範・湖南省立第一師範学校において教員となった。このとき、[[毛沢東]]・[[田漢]]が易の教え子となっている。[[1920年]](民国9年)、湖南省立第一師範学校校長に就任し、あわせて湖南省図書館館長もつとめた。<ref>馬(1997)、105-106頁。</ref><ref name=Xu>徐(2007)、861頁。</ref><ref name=Liu>劉国銘主編(2005)、1543頁。</ref> |
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[[1918年]](民国7年)、湖南督軍[[張敬尭]]の統治に反対して、「駆張運動」の指導者の1人となる。翌年、易培基は郷紳・商業界の代表に推薦された。また、後任の湖南督軍[[譚延ガイ|譚延闓]]の下で教育事業の刷新につとめている。[[1921年]](民国10年)、湖南省の統治権をめぐって[[譚趙之戦]]が起きると、易培基は譚を支持し、湘軍総司令部秘書長に任じられた。しかし翌年、戦いは実質的に趙恒惕の勝利に終わり、易は譚に随従して[[広州市|広州]]に逃れる。[[孫文]](孫中山)の大元帥府において、易は顧問、駐[[浙江省|浙江]]全権代表に任じられ、[[杭州市|杭州]]に駐在した。このときに易は、[[胡漢民]]や[[汪兆銘]](汪精衛)と政治・文芸にわたる幅広い交流を行っている。<ref>馬(1997)、106頁。</ref><ref name=Xu/><ref name=Liu/> |
[[1918年]](民国7年)、湖南督軍[[張敬尭]]の統治に反対して、「駆張運動」の指導者の1人となる。翌年、易培基は郷紳・商業界の代表に推薦された。また、後任の湖南督軍[[譚延ガイ|譚延闓]]の下で教育事業の刷新につとめている。[[1921年]](民国10年)、湖南省の統治権をめぐって[[譚趙之戦]]が起きると、易培基は譚を支持し、湘軍総司令部秘書長に任じられた。しかし翌年、戦いは実質的に趙恒惕の勝利に終わり、易は譚に随従して[[広州市|広州]]に逃れる。[[孫文]](孫中山)の大元帥府において、易は顧問、駐[[浙江省|浙江]]全権代表に任じられ、[[杭州市|杭州]]に駐在した。このときに易は、[[胡漢民]]や[[汪兆銘]](汪精衛)と政治・文芸にわたる幅広い交流を行っている。<ref>馬(1997)、106頁。</ref><ref name=Xu/><ref name=Liu/> |
2020年8月13日 (木) 02:26時点における版
易培基 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1880年2月28日 (清光緒6年正月19日) |
死去: |
1937年(民国26年)9月 中華民国上海市 |
出身地: | 清湖南省長沙府長沙県 |
職業: | 政治家・文芸家・教育者 |
各種表記 | |
繁体字: | 易培基 |
簡体字: | 易培基 |
拼音: | Yì Péijī |
ラテン字: | I P'ei-chi |
和名表記: | えき ばいき |
発音転記: | イー ペイジー |
易 培基(えき ばいき)は中華民国の政治家・文芸家・教育者。北京政府で教育総長、国民政府で農鉱部長をつとめた。また、故宮博物院院長として文物を管理・保護した人物としても知られる。字は寅山。号は鹿山。
事績
湖南省での活動
武官の家庭に生まれる。16歳のとき、父が冤罪により収監されると、易培基は自ら弁護の文章を書いて地方官に提出する。それを評価されて父は釈放され、易培基自身も文章で名声をなすこととなった。その後、湖北省に赴いて湖北方言学堂に入学し、このとき、趙恒惕と同学となった。卒業後、日本に留学して学問の修得を続けた。また、このときに中国同盟会に加入している。帰国後の1913年(民国2年)に、湖南高等師範学堂で国文教員となる。翌年、長沙師範・湖南省立第一師範学校において教員となった。このとき、毛沢東・田漢が易の教え子となっている。1920年(民国9年)、湖南省立第一師範学校校長に就任し、あわせて湖南省図書館館長もつとめた。[1][2][3]
1918年(民国7年)、湖南督軍張敬尭の統治に反対して、「駆張運動」の指導者の1人となる。翌年、易培基は郷紳・商業界の代表に推薦された。また、後任の湖南督軍譚延闓の下で教育事業の刷新につとめている。1921年(民国10年)、湖南省の統治権をめぐって譚趙之戦が起きると、易培基は譚を支持し、湘軍総司令部秘書長に任じられた。しかし翌年、戦いは実質的に趙恒惕の勝利に終わり、易は譚に随従して広州に逃れる。孫文(孫中山)の大元帥府において、易は顧問、駐浙江全権代表に任じられ、杭州に駐在した。このときに易は、胡漢民や汪兆銘(汪精衛)と政治・文芸にわたる幅広い交流を行っている。[4][2][3]
北京政府、故宮博物院での活動
1924年(民国13年)、孫文の命により易培基は北京入りし、10月の北京政変(首都革命)後には、黄郛内閣で教育総長をつとめた。しかし、段祺瑞が臨時執政に就任すると、易も総長を辞任している。その後は、清室善後委員会委員として、故宮の接収と文物の調査を行う。翌年に故宮博物院が成立すると、易は理事の1人となった。[5][2][3]
1925年(民国14年)3月、易培基と馮自由は、北京で国民党同士倶楽部を組織した。同年8月、段祺瑞と教育総長章士釗が、学生デモ鎮圧のために北京女子師範大学への解散命令を発すると、易と馮は反対運動を繰り広げた。結局、11月に、章は教育総長辞任に追い込まれ、易が後任の教育総長兼北京女子師範大学校長となった。[6]易は、学生との融和や教育事業の刷新に取り組み、平穏を取り戻した。しかし翌年3月、段祺瑞によるデモ鎮圧(三・一八惨案)が発生する。この際に易は、共産党との通謀・デモ教唆の罪を問われたため、故郷へ逃れた。[7][2][3]
1927年(民国16年)4月の上海クーデター後に、易培基は上海に向かい、労働大学校長に任命された。このとき、易は魯迅を教官として招聘している。翌年1月、国民党中央政治会議委員兼外交委員会委員に任じられた。さらに北伐完了後には、故宮博物院院長も兼任している。10月には、中華民国行政院農鉱部長も兼ね、1930年(民国19年)11月の工商部との合併による実業部成立まで、その任にあった。実業部成立後に、国立北平師範大学校長に任ぜられた。しかし翌年に辞任し、故宮博物院院長の専任となる。[8][2][3]
失意の晩年
満州事変(九・一八事変)勃発後の1932年(民国21年)、易培基は、故宮博物院の文物を南京・上海に移転する計画を実施し、翌年5月までにこれを完了させている。ところがこの際に、文物の横領・詐取があったとの疑いが持ち上がり、易自身も捜査の対象となった。そのため10月に故宮博物院院長を辞任し[9]、天津の日本租界を経由して上海に移り、隠居せざるを得なくなる。[10][2][3]
その後も、疑惑への追及は続き、易培基は1937年(民国26年)9月に、失意と憤怒の中で病没した。享年58(満57歳)。易は逝去の際に、国民政府宛てに無実を主張する文を送っており、呉敬恒らのように易の無実を信じる者も多かった。[2]しかしその後、この件につき捜査は行われなかった。また、関与した人物たちも様々な証言を行っていることから、易がそもそも犯罪に関与していたのかも含め、実態は依然として不詳のままである。[11][3]
注
参考文献
- 馬復華「易培基」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第9巻』中華書局、1997年。ISBN 7-101-01504-2。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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中華民国(国民政府)
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