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「悼公 (晋)」の版間の差分

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[[欒書]]と[[中行偃|荀偃(中行偃)]]によって[[レイ公 (晋)|厲公]]が殺されると、晋に迎えられて君主となった。
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[[文公 (晋)|文公]]の治世を理想とし、[[韓厥]]や[[智オウ|智罃]]を正卿に、[[魏絳]]を中軍司馬に、[[羊舌キツ|羊舌肸(叔向)]]を世子の彪(後の[[平公 (晋)|平公]])の傅とするなど、賢者を任用し内治を整え<ref>『[[春秋左氏伝]]』成公18年</ref>、諸侯と会盟し[[狄]]と和を結ぶなど、[[鄢陵の戦い]]以来、晋に傾いていた覇権を磐石なものにしたが、29歳で死去した。


晋の最後の名君と謳われたが、悼公の時代は[[鄭]]や[[楚 (春秋)|楚]]、[[秦]]などとの戦いが続き戦果は芳しくなく、国内では公室の力が弱まり大夫や貴族たちの力が増大した。
晋の最後の名君と謳われたが、悼公の時代は[[鄭]]や[[楚 (春秋)|楚]]、[[秦]]などとの戦いが続き戦果は芳しくなく、国内では公室の力が弱まり大夫や貴族たちの力が増大した。

2020年8月13日 (木) 03:07時点における版

悼公(とうこう、紀元前587年 - 紀元前558年)は、中国春秋時代の君主(在位:紀元前573年 - 紀元前558年)。襄公の曾孫(祖父は桓叔捷、父は恵伯談)にあたり、即位する前までの王都・洛邑で学問を積んでいたことから公孫周、または周子と呼ばれた。

欒書荀偃(中行偃)によって厲公が殺されると、晋に迎えられて君主となった。 文公の治世を理想とし、韓厥智罃を正卿に、魏絳を中軍司馬に、羊舌肸(叔向)を世子の彪(後の平公)の傅とするなど、賢者を任用し内治を整え[1]、諸侯と会盟しと和を結ぶなど、鄢陵の戦い以来、晋に傾いていた覇権を磐石なものにしたが、29歳で死去した。

晋の最後の名君と謳われたが、悼公の時代はなどとの戦いが続き戦果は芳しくなく、国内では公室の力が弱まり大夫や貴族たちの力が増大した。

脚注

  1. ^ 春秋左氏伝』成公18年