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[[中華民国]]成立後は、[[統一党 (中華民国)|統一党]]に加入する。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)5月、長蘆塩運使に就任した。[[袁世凱]]が臨時大総統に就任すると、張弧は両淮塩運使に異動した。翌年7月、[[北京政府]]の財政部塩務籌備処処長兼塩政改良会会長に就任する。9月、財政部次長兼塩務署署長に昇進する。[[1915年]](民国4年)6月にいったん免職となったものの、その翌年4月から7月まで復任している。
[[中華民国]]成立後は、[[統一党 (中華民国)|統一党]]に加入する。[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)5月、長蘆塩運使に就任した。[[袁世凱]]が臨時大総統に就任すると、張弧は両淮塩運使に異動した。翌年7月、[[北京政府]]の財政部塩務籌備処処長兼塩政改良会会長に就任する。9月、財政部次長兼塩務署署長に昇進する。[[1915年]](民国4年)6月にいったん免職となったものの、その翌年4月から7月まで復任している。


その後、僑工事務局局長などを経て、[[1920年]](民国9年)8月に、幣制局総裁に任命される。翌年12月、[[梁士詒]]内閣が発足すると、張弧は財政総長に任命され、塩務署署長、幣制局総裁も兼任した。続く[[顔恵慶]]臨時内閣でも財政総長の地位にあった。[[1922年]](民国11年)3月、休暇伺いを立てて事実上辞任した。[[1923年]](民国12年)8月、[[高凌イ|高凌&#x9728;]]代理内閣で[[王克敏]]の後任として署理財政総長に復帰した。しかし「金法郎案」<ref>フランスが、[[北京議定書]]での賠償額について、フラン換算での多額賠償を中国側に求めてきた事件。</ref>での対応に苦しんだため、11月に辞職した。
その後、僑工事務局局長などを経て、[[1920年]](民国9年)8月に、幣制局総裁に任命される。翌年12月、[[梁士詒]]内閣が発足すると、張弧は財政総長に任命され、塩務署署長、幣制局総裁も兼任した。続く[[顔恵慶]]臨時内閣でも財政総長の地位にあった。[[1922年]](民国11年)3月、休暇伺いを立てて事実上辞任した。[[1923年]](民国12年)8月、[[高凌]]代理内閣で[[王克敏]]の後任として署理財政総長に復帰した。しかし「金法郎案」<ref>フランスが、[[北京議定書]]での賠償額について、フラン換算での多額賠償を中国側に求めてきた事件。</ref>での対応に苦しんだため、11月に辞職した。


北京政府崩壊後、張弧は[[大連市|大連]]に居住した。[[1935年]](民国24年)12月、[[冀察政務委員会]]委員長の[[宋哲元]]から顧問として招聘されている。[[1937年]](民国26年)12月12日、[[天津市|天津]]にて病没。享年63(満62歳)。
北京政府崩壊後、張弧は[[大連市|大連]]に居住した。[[1935年]](民国24年)12月、[[冀察政務委員会]]委員長の[[宋哲元]]から顧問として招聘されている。[[1937年]](民国26年)12月12日、[[天津市|天津]]にて病没。享年63(満62歳)。
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2020年8月14日 (金) 11:27時点における版

張弧
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1875年9月10日
光緒元年8月11日)[1]
死去: 1937年民国26年)12月12日
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 浙江省紹興府蕭山県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張弧
簡体字 张弧
拼音 Zhāng Hú
ラテン字 Chang Hu
和名表記: ちょう こ
発音転記: ジャン フー
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張 弧(ちょう こ)は清末民初の政治家。北京政府の要人。岱杉戴三。別号は超観。原名は毓源。祖籍は河南省開封府

事績

1904年光緒30年)、壬寅科挙人。以後、福建省で官暦を重ね、福建学務処総弁や警察学堂監督にまで至った。閩浙総督松寿からは任用されなかったため、張弧は東三省に異動し、吉林省奉天省で塩務を命じられた。

中華民国成立後は、統一党に加入する。1912年民国元年)5月、長蘆塩運使に就任した。袁世凱が臨時大総統に就任すると、張弧は両淮塩運使に異動した。翌年7月、北京政府の財政部塩務籌備処処長兼塩政改良会会長に就任する。9月、財政部次長兼塩務署署長に昇進する。1915年(民国4年)6月にいったん免職となったものの、その翌年4月から7月まで復任している。

その後、僑工事務局局長などを経て、1920年(民国9年)8月に、幣制局総裁に任命される。翌年12月、梁士詒内閣が発足すると、張弧は財政総長に任命され、塩務署署長、幣制局総裁も兼任した。続く顔恵慶臨時内閣でも財政総長の地位にあった。1922年(民国11年)3月、休暇伺いを立てて事実上辞任した。1923年(民国12年)8月、高凌霨代理内閣で王克敏の後任として署理財政総長に復帰した。しかし「金法郎案」[2]での対応に苦しんだため、11月に辞職した。

北京政府崩壊後、張弧は大連に居住した。1935年(民国24年)12月、冀察政務委員会委員長の宋哲元から顧問として招聘されている。1937年(民国26年)12月12日、天津にて病没。享年63(満62歳)。

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』1740頁による。Who's Who in China 3rd ed.,p.39は1876年とする。
  2. ^ フランスが、北京議定書での賠償額について、フラン換算での多額賠償を中国側に求めてきた事件。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
高凌霨
財政総長
1921年12月 - 1922年5月
(1922年3月より鍾世銘代理)
次代
董康
先代
王克敏
財政総長(署理)
1923年8月 - 11月
次代
王克敏