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袁世凱死後に国会議員として復帰した。しかし、[[孫文]](孫中山)が[[護法運動]]を開始すると、これに参加している。[[1922年]](民国11年)11月、[[汪大燮]]臨時内閣で署理教育総長に任命される。翌年1月の[[王正廷]]臨時内閣で正式に教育総長となった。
袁世凱死後に国会議員として復帰した。しかし、[[孫文]](孫中山)が[[護法運動]]を開始すると、これに参加している。[[1922年]](民国11年)11月、[[汪大燮]]臨時内閣で署理教育総長に任命される。翌年1月の[[王正廷]]臨時内閣で正式に教育総長となった。


教育総長にあった際の彭允彝は、政府の統制を教育機関に及ぼすため、[[北京大学]]学長[[蔡元培]]に圧力をかけ、これを辞職に追い込むなどした。そのため彭は、大学の教授・学生のみならず、世論からも激しい非難を被っている。続く[[張紹曽]]内閣を経て、[[高凌イ|高凌霨]]内閣途中の同年9月に、彭は辞任した。
教育総長にあった際の彭允彝は、政府の統制を教育機関に及ぼすため、[[北京大学]]学長[[蔡元培]]に圧力をかけ、これを辞職に追い込むなどした。そのため彭は、大学の教授・学生のみならず、世論からも激しい非難を被っている。続く[[張紹曽]]内閣を経て、[[高凌]]内閣途中の同年9月に、彭は辞任した。


[[国民政府]]時代には、[[1938年]](民国27年)から[[1942年]](民国31年)まで、3期にわたり国民参政会参政員に選出された。
[[国民政府]]時代には、[[1938年]](民国27年)から[[1942年]](民国31年)まで、3期にわたり国民参政会参政員に選出された。

2020年8月14日 (金) 11:27時点における版

彭允彝
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)
死去: 1943年民国32年)
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 湖南省長沙府湘潭県
職業: 革命家・政治家
各種表記
繁体字 彭允彝
簡体字 彭允彝
拼音 Péng Yŭnyí
ラテン字 P'eng Yün-I
和名表記: ほう いんい
発音転記: ポン ユンイー
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彭 允彝(ほう いんい)は清末民初の革命家・政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、後に北京政府で教育総長に就いた。静仁

事跡

明徳師範学校を卒業し、日本に留学して警察関係の学校で学ぶ。その後、早稲田大学政治経済科を卒業し、中国同盟会に加入した。

辛亥革命勃発後に帰国して、宋教仁殷汝驪らと統一共和党を結成して常務幹事となる。さらに国民党が結成されると、同党本部文事部主任となった。1913年民国2年)に衆議院議員に当選する。しかし、宋が暗殺され、さらに国会が解散されたため、日本へ逃亡した。日本では欧事研究会の発起人に名を列ねている。袁世凱が皇帝即位を図ると帰国し、上海で雑誌『中華新報』を創刊して袁を批判する論陣を張った。

袁世凱死後に国会議員として復帰した。しかし、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、これに参加している。1922年(民国11年)11月、汪大燮臨時内閣で署理教育総長に任命される。翌年1月の王正廷臨時内閣で正式に教育総長となった。

教育総長にあった際の彭允彝は、政府の統制を教育機関に及ぼすため、北京大学学長蔡元培に圧力をかけ、これを辞職に追い込むなどした。そのため彭は、大学の教授・学生のみならず、世論からも激しい非難を被っている。続く張紹曽内閣を経て、高凌霨内閣途中の同年9月に、彭は辞任した。

国民政府時代には、1938年(民国27年)から1942年(民国31年)まで、3期にわたり国民参政会参政員に選出された。

1943年(民国32年)、病没。享年66。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 北京大学新聞編集部「1923年1月20日:北大教職員懇請総統,挽留蔡元培,罷免彭允彝」, 北京大学新聞ホームページ, 2007年1月20日
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
湯爾和
教育総長
1922年11月 - 1923年9月
(1923年1月まで署理)
次代
黄郛