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「天台徳韶」の版間の差分

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生まれる前、母が白い光に身体が触れる夢をよく見た。15歳の時、異国の僧から出家を勧められ、17歳の時に地元の[[龍帰寺]]で出家、20歳の時に[[饒州|信州]][[開元寺]]で受戒する。[[投子大同]]や[[龍牙居遁]]などの諸師を歴訪し、[[法眼文益]]に師事して「曹源一滴水」の話で開悟し、その法を嗣ぐ。その後、[[天台山]]に住む。
生まれる前、母が白い光に身体が触れる夢をよく見た。15歳の時、異国の僧から出家を勧められ、17歳の時に地元の[[龍帰寺]]で出家、20歳の時に[[饒州|信州]][[開元寺]]で受戒する。[[投子大同]]や[[龍牙居遁]]などの諸師を歴訪し、[[法眼文益]]に師事して「曹源一滴水」の話で開悟し、その法を嗣ぐ。その後、[[天台山]]に住む。


[[開運 (後晋)|開運]]年間に[[台州市|台州]][[刺史]]として赴任してきた銭弘俶に、帰都を勧め、[[胡進思]]のクーデターにより[[銭弘シュウ|銭弘倧]]が廃されて銭弘俶が新王に擁立された。後に[[乾祐 (五代後漢)|乾祐]]元年([[948年]])、[[杭州]]に招かれて国師となった。[[義寂]]の依頼で散逸した[[智|天台智顗]]の書物を銭弘俶に依頼して[[高麗]]より取り寄せ、天台の教義を復興させた。
[[開運 (後晋)|開運]]年間に[[台州市|台州]][[刺史]]として赴任してきた銭弘俶に、帰都を勧め、[[胡進思]]のクーデターにより[[銭弘シュウ|銭弘倧]]が廃されて銭弘俶が新王に擁立された。後に[[乾祐 (五代後漢)|乾祐]]元年([[948年]])、[[杭州]]に招かれて国師となった。[[義寂]]の依頼で散逸した[[智|天台智顗]]の書物を銭弘俶に依頼して[[高麗]]より取り寄せ、天台の教義を復興させた。


説法は簡明で分かりやすく、入門者が途絶えることはなかった。また、聞聞、聞不聞、不聞聞、不聞不聞の4つの教化法を教えた。
説法は簡明で分かりやすく、入門者が途絶えることはなかった。また、聞聞、聞不聞、不聞聞、不聞不聞の4つの教化法を教えた。

2020年8月16日 (日) 12:48時点における版

天台徳韶(てんだい とくしょう、大順2年(891年) - 開宝5年6月28日972年8月9日))は、中国五代十国時代法眼宗呉越忠懿王国師。俗姓は陳。処州竜泉県(『宋高僧伝』では縉雲県)の出身。

略歴

生まれる前、母が白い光に身体が触れる夢をよく見た。15歳の時、異国の僧から出家を勧められ、17歳の時に地元の龍帰寺で出家、20歳の時に信州開元寺で受戒する。投子大同龍牙居遁などの諸師を歴訪し、法眼文益に師事して「曹源一滴水」の話で開悟し、その法を嗣ぐ。その後、天台山に住む。

開運年間に台州刺史として赴任してきた銭弘俶に、帰都を勧め、胡進思のクーデターにより銭弘倧が廃されて銭弘俶が新王に擁立された。後に乾祐元年(948年)、杭州に招かれて国師となった。義寂の依頼で散逸した天台智顗の書物を銭弘俶に依頼して高麗より取り寄せ、天台の教義を復興させた。

説法は簡明で分かりやすく、入門者が途絶えることはなかった。また、聞聞、聞不聞、不聞聞、不聞不聞の4つの教化法を教えた。

開宝5年(972年)6月28日に遷化。世寿82、法臘65。

伝記

参考文献

  • 『禅学大辞典』950ページ
先代
法眼文益
法眼宗
次代
永明延寿