コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「胡適」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
25行目: 25行目:
[[1917年]]([[中華民国暦|民国]]6年)、[[陳独秀]]の依頼に基づき、雑誌『[[新青年 (中国)|新青年]]』に「[[文学改良芻議]](ぶんがくかいりょうすうぎ)」をアメリカから寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく[[白話文|白話文学]]を提唱し、理論面で[[文学革命]]を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は[[魯迅]]などによって推進された。同年、[[北京大学]]学長だった[[蔡元培]]に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。
[[1917年]]([[中華民国暦|民国]]6年)、[[陳独秀]]の依頼に基づき、雑誌『[[新青年 (中国)|新青年]]』に「[[文学改良芻議]](ぶんがくかいりょうすうぎ)」をアメリカから寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく[[白話文|白話文学]]を提唱し、理論面で[[文学革命]]を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は[[魯迅]]などによって推進された。同年、[[北京大学]]学長だった[[蔡元培]]に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。


1919年(民国8年)、『新青年』が[[無政府主義]]・[[共産主義]]へと傾いて[[政治]]を語るようになると、胡適は[[李大ショウ|李大釗]]と「問題と主義」論争を起こし、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて[[国故整理]]に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。
1919年(民国8年)、『新青年』が[[無政府主義]]・[[共産主義]]へと傾いて[[政治]]を語るようになると、胡適は[[李大]]と「問題と主義」論争を起こし、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて[[国故整理]]に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。


胡適は[[マルクス・レーニン主義]]を批判し、[[1922年]](民国11年)、『努力週報』を創刊し[[社会改良主義|改良主義]]を主張した。[[1925年]](民国14年)前後に[[禅]]に関する論考を著し始める。[[1930年]](民国19年)、[[大英博物館]]の[[敦煌文書]]調査で発見した[[荷沢神会]]の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表する。[[満州事変]]が起こると、[[1932年]](民国21年)、『独立評論』を創刊し、[[日本]]の満州支配を非難している。胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとは限らない」が故に“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が[[華北]]から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。[[1935年]](民国24年)には「[[日本切腹中国介錯論]]」として知られる評論を発表。この中では米ソ両国と衝突する日本はいずれ自壊の道を歩み、中国は数年の辛苦を我慢してそのときを待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろうと記した。[[蔣介石]]政権に接近し、[[1938年]](民国27年)駐米大使となってアメリカに渡った。[[1942年]](民国31年)に帰国し、[[1946年]]には北京大学学長に就任した。[[1949年]](民国38年)、[[中国共産党|共産党]]が[[国共内戦]]に勝利すると、アメリカに亡命し、[[1957年]](民国46年)から[[台湾]]に移り、外交部顧問、[[中央研究院]]長(1957-1962年)に就任した。『[[水経注]]』や[[禅宗]]史の研究に取り組んだ。[[1949年]]には[[ハワイ大学]]で開催された第2回東西哲学者会議で[[鈴木大拙]]と禅研究法に関して討論を行う。
胡適は[[マルクス・レーニン主義]]を批判し、[[1922年]](民国11年)、『努力週報』を創刊し[[社会改良主義|改良主義]]を主張した。[[1925年]](民国14年)前後に[[禅]]に関する論考を著し始める。[[1930年]](民国19年)、[[大英博物館]]の[[敦煌文書]]調査で発見した[[荷沢神会]]の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表する。[[満州事変]]が起こると、[[1932年]](民国21年)、『独立評論』を創刊し、[[日本]]の満州支配を非難している。胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとは限らない」が故に“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が[[華北]]から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。[[1935年]](民国24年)には「[[日本切腹中国介錯論]]」として知られる評論を発表。この中では米ソ両国と衝突する日本はいずれ自壊の道を歩み、中国は数年の辛苦を我慢してそのときを待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろうと記した。[[蔣介石]]政権に接近し、[[1938年]](民国27年)駐米大使となってアメリカに渡った。[[1942年]](民国31年)に帰国し、[[1946年]]には北京大学学長に就任した。[[1949年]](民国38年)、[[中国共産党|共産党]]が[[国共内戦]]に勝利すると、アメリカに亡命し、[[1957年]](民国46年)から[[台湾]]に移り、外交部顧問、[[中央研究院]]長(1957-1962年)に就任した。『[[水経注]]』や[[禅宗]]史の研究に取り組んだ。[[1949年]]には[[ハワイ大学]]で開催された第2回東西哲学者会議で[[鈴木大拙]]と禅研究法に関して討論を行う。

2020年8月16日 (日) 22:44時点における版

胡適
プロフィール
出生: 1891年12月17日
光緒17年11月17日)
死去: 1962年民国51年)2月24日
中華民国の旗 中華民国台北県南港鎮(現:台北市南港区
出身地: 清の旗 安徽省徽州府績渓県
職業: 学者・思想家・外交官
各種表記
繁体字 胡適
簡体字 胡适[1]
拼音 Hú Shì
ラテン字 Hu Shih
和名表記: 慣用音:こ てき(漢音:こ せき)
発音転記: フー シー
英語名 Dr. Hu Suh
テンプレートを表示

胡 適漢音:こ せき、慣用音:こ てき)は、中華民国の学者・思想家・外交官。原名は嗣穈希彊、後にと改名した。「適者生存survival of the fittest(スペンサーの造語)」に由来する。適之。アメリカの哲学者ジョン・デューイのもとでプラグマティズムを学ぶ。北京大学教授のち学長。国民党を支持したため戦後は米国に亡命したのち、1957年に台湾に移住した。

来歴・人物

胡適別影
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
ファイル:Bust of Hu Shih in Hu Shih Park 20061125.jpg
台北市南港区の胡適公園にある胡適の胸像

1891年江蘇省川沙庁で生まれ、本籍地の安徽省績渓県で育った。上海中国公学を卒業後、1910年宣統2年)にアメリカコーネル大学農学を学び、次いでコロンビア大学ジョン・デューイのもとでプラグマティズム哲学を学んだ。

1917年民国6年)、陳独秀の依頼に基づき、雑誌『新青年』に「文学改良芻議(ぶんがくかいりょうすうぎ)」をアメリカから寄稿し、難解な文語文を廃して口語文にもとづく白話文学を提唱し、理論面で文学革命を後押しした。ただし、彼自身にもいくつかの作品があるが、文学的才能には恵まれなかったようで、実践面は魯迅などによって推進された。同年、北京大学学長だった蔡元培に招かれて帰国、北京大学教授となりプラグマティズムにもとづく近代的学問研究と社会改革を進めた。

1919年(民国8年)、『新青年』が無政府主義共産主義へと傾いて政治を語るようになると、胡適は李大釗と「問題と主義」論争を起こし、社会主義を空論として批判した。やがて『新青年』を離れて国故整理に向かい、中国伝統の歴史・思想・文学などを研究整理した。

胡適はマルクス・レーニン主義を批判し、1922年(民国11年)、『努力週報』を創刊し改良主義を主張した。1925年(民国14年)前後にに関する論考を著し始める。1930年(民国19年)、大英博物館敦煌文書調査で発見した荷沢神会の遺文をもとに、『神会和尚遺集』を発表する。満州事変が起こると、1932年(民国21年)、『独立評論』を創刊し、日本の満州支配を非難している。胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して、現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとは限らない」が故に“停戦謀和”すべしと唱えた。胡適はさらに、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している。1935年(民国24年)には「日本切腹中国介錯論」として知られる評論を発表。この中では米ソ両国と衝突する日本はいずれ自壊の道を歩み、中国は数年の辛苦を我慢してそのときを待てば、「切腹」する日本の「介錯人」となるだろうと記した。蔣介石政権に接近し、1938年(民国27年)駐米大使となってアメリカに渡った。1942年(民国31年)に帰国し、1946年には北京大学学長に就任した。1949年(民国38年)、共産党国共内戦に勝利すると、アメリカに亡命し、1957年(民国46年)から台湾に移り、外交部顧問、中央研究院長(1957-1962年)に就任した。『水経注』や禅宗史の研究に取り組んだ。1949年にはハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議で鈴木大拙と禅研究法に関して討論を行う。

1939年にはノーベル文学賞候補にノミネートされたが[2]、受賞を逃した。

著書

  • 欧陽哲生編『胡適文集』全12巻、北京大学出版社、1998
  • 耿雲志主編『胡適遺稿及秘蔵書信』全42巻、黄山書社、1994
  • 『中国哲学史大綱』(1919年)
  • 『嘗試集』(1920年、北京大学出版部、新詩詩集)
  • 『胡適文存·一集』(1921年、北京、北京大学出版部)
  • 『章實齊先生年譜』(1922年、上海、商務印書館
  • 『胡適文存·二集』(1924年、上海、亞東圖書館)
  • 『白話文学史』(1928年)
  • 『戴東原の哲學』(1927年、上海、亞東圖書館)
  • 『白話文學史·上卷』(1928年、上海、新月書店)
  • 『盧山遊記》(1928年、新月書店)
  • 胡適著『人權論集』(1930年、梁実秋、羅隆基合著、新月書店)
  • 『胡適文存·三集』(1930年、亞東圖書館)
  • 『胡適文選』(1930年、上海、亞東圖書館)
  • 『中國中古思想史長編』(1930年)
  • 『中國中古思想史の提要』(1932年、北平、北京大学出版部)
  • 『四十自述』(1933年)
  • 『胡適論學近著·第一集』(1935年、商務印書館)
  • 『南遊雜憶』(1935年、良友)
  • 『藏暉室札記』(1939年、亞東圖書館)
  • 『胡適の時論』(1948年、六藝書局)
  • 『水經注版本四十種展覽目錄』(1948年、北平、北大出版部)
  • 『齊白石年譜』(1949年、上海、商務印書館)
  • 『胡適文存·四集』(1953年、台北、遠東出版)
  • 『丁文江の傳記』(1960年、南港中央研究院)
  • 胡適『四十自述』(胡適 著・吉川幸次郎 訳『胡適自伝』創元社、1940〔現在は『吉川幸次郎全集』第16巻、筑摩書房、1970で簡単に読める〕)
  • 楊祥蔭、内田繁隆共訳『古代支那思想の新研究』アジア学叢書、大空社、1998年
  • 井出季和太訳『胡適の支那哲学論』アジア学叢書、大空社、1998年
  • 『差不多先生傳』
    • なお、李大釗との論争は西順三島田虔次編訳『清末民国初政治評論集』(平凡社、1971)において伊藤昭雄訳で参照することが可能。

脚注

  1. ^ 簡体字の書籍でも繁体字表記の「胡適」を用いる場合がある。
  2. ^ Nomination Database The Nomination Database for the Nobel Prize in Literature, 1901-1950

参考文献

  • 小野川秀美「清末の思想と進化論」、『清末政治思想研究』みすず書房、1960
  • 林毓生 著、丸山松幸・陳正醍 訳『中国の思想的危機-陳獨秀・胡適・魯迅』研文出版、1989
  • 清水賢一郎「胡適」、佐藤慎一編『近代中国の思索者たち』大修館書店、1998

関連項目

 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
葉公超
外交部長(就任せず)
1949年6月 - 10月
次代
葉公超