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「田横」の版間の差分

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=== 最期 ===
=== 最期 ===
高祖5年([[紀元前202年]])、項羽を滅ぼした漢王劉邦は諸侯によって皇帝に立てられ、彭越は梁王となった。田横は自分が殺されるのを恐れ、部下(食客)500人と共に海上の島へ逃げた。高祖劉邦は、田横らが斉において影響力を持っているため乱の元になるのを憂慮し、使者を出して罪を許すことを約束し「田横よ、こちらへ来い。お前は王に立てよう。部下は[[列侯]]にしよう。しかし、来なければ兵を出して誅殺する」と告げた。また、劉邦は兄を殺された恨みのある[[レキ商|酈商]]に対して、田横に手を出そうとしたら処刑すると命じ、これも田横に伝えた。
高祖5年([[紀元前202年]])、項羽を滅ぼした漢王劉邦は諸侯によって皇帝に立てられ、彭越は梁王となった。田横は自分が殺されるのを恐れ、部下(食客)500人と共に海上の島へ逃げた。高祖劉邦は、田横らが斉において影響力を持っているため乱の元になるのを憂慮し、使者を出して罪を許すことを約束し「田横よ、こちらへ来い。お前は王に立てよう。部下は[[列侯]]にしよう。しかし、来なければ兵を出して誅殺する」と告げた。また、劉邦は兄を殺された恨みのある[[酈商]]に対して、田横に手を出そうとしたら処刑すると命じ、これも田横に伝えた。


断りきれなくなった田横は、食客二人と共に劉邦の元へ向かった。劉邦のいる洛陽まで30里ばかりとなった時、田横は「漢王と自分は共に王であったのに、彼に仕えるというのは大変恥ずかしい。またいくら天子の命令があるとはいえ、煮殺した相手の弟と肩を並べるというのは恥じ入らずにはいられない。私はそれに耐えられないだろう。そもそも漢王が自分を招くのは、私の顔を一度見ておこうということに過ぎない。いま自分の首を斬っても、ここからなら洛陽まで容貌がわからなくなるほど腐敗することはないだろうから、私の顔を見せるには十分だろう」と言い、自殺した。
断りきれなくなった田横は、食客二人と共に劉邦の元へ向かった。劉邦のいる洛陽まで30里ばかりとなった時、田横は「漢王と自分は共に王であったのに、彼に仕えるというのは大変恥ずかしい。またいくら天子の命令があるとはいえ、煮殺した相手の弟と肩を並べるというのは恥じ入らずにはいられない。私はそれに耐えられないだろう。そもそも漢王が自分を招くのは、私の顔を一度見ておこうということに過ぎない。いま自分の首を斬っても、ここからなら洛陽まで容貌がわからなくなるほど腐敗することはないだろうから、私の顔を見せるには十分だろう」と言い、自殺した。

2020年8月17日 (月) 03:36時点における版

ファイル:Xu beihong Painting Tianheng's five hhundreds heroes.jpg
徐悲鴻「田横五百義士」

田 横(でん おう、? - 紀元前202年)は、末の人。戦国時代斉王の一族。楚と漢が天下を争った時期に斉の支配者となった。

生涯

挙兵

田横は秦の末期、兄の田栄、従兄の田儋と共に郷里の狄県で挙兵し、田儋が自立して斉王となった。しかし田儋は秦の章邯に包囲された魏王魏咎を救援に出て敗北して戦死した。斉の人間はそれを聞くと元の斉王の弟である田仮を王に立てたので、田栄はそれに激怒した。田栄も章邯に追われたが楚の項梁に助けられ、田栄は田仮を攻撃し、田仮は楚に逃げた。田栄は田儋の子である従子の田巿を王に立て、自分はその宰相となり、田横は将となって斉を平定した。

項梁は章邯を攻撃しようとして田栄にも救援を求めたが、田栄は楚が田仮を殺せば兵を出すという条件を出した。楚はこれに応じずに戦い、項梁は章邯に敗れて戦死した。そのため、項梁の甥である項羽は田栄を恨んだ。

項羽が章邯を下し、秦王を殺して諸侯王を立てた際に、斉王の田巿を膠東王に配置換えし、項羽軍に従軍した斉王の一族田都を斉王に立て、さらに項羽に下っていた斉王建の孫の田安を済北王に立てた。項梁の件があった田栄は王になれなかったため、田栄は同じく王になれなかった陳余と共に項羽を恨んだ。そこで田栄は陳余に兵を与えて趙で反乱を起こさせ、同時に田栄も斉で反乱した。田栄は田都を楚に追い払い田安を殺害し、さらに自分に従わなかった従子田巿をも殺害して自分が王となった。

即位

項羽は怒って斉を討ち、田栄を破った。田栄は逃げたが平原県の住民に殺害された。項羽は斉の城郭を焼き、通過する所を悉く攻め滅ぼしたので、斉の人間は項羽に背き、田横が斉の兵を収めて数万人に膨れ上がり、項羽に反撃した。そこで漢王劉邦が項羽の本拠彭城を落としたので項羽は斉との戦いをやめて反転した。田横は斉の城を取り戻し、田栄の子である甥の田広を王に立てて自分は宰相となり、政治は大小全て自分で決めた。

その後、漢の将である韓信が趙を落とし、斉を攻めようとしていたので、斉は歴山のそばに兵を集めて阻もうとした。そんな折、漢は説客酈食其を派遣して斉との同盟を持ちかけてきた。田横はそれを受け入れ、漢に対する守備を止めた。しかし自己の功績が無くなることを恐れた韓信は斉へ侵攻し、斉の軍を撃破した。斉王田広と田横は報復として酈食其を煮殺して、高密へ逃げた。項羽は斉を救うため龍且周蘭を派遣したが、韓信に破れて、龍且は灌嬰の軍勢に討たれ、周蘭は曹参によって捕獲された。これを聞いた斉王田広は高密から脱出するも捕らえられた。田横はそれを聞くと自らが斉王になったが、漢将灌嬰に撃破されて梁の彭越の元へ落ち延び、斉は漢によって平定された。

最期

高祖5年(紀元前202年)、項羽を滅ぼした漢王劉邦は諸侯によって皇帝に立てられ、彭越は梁王となった。田横は自分が殺されるのを恐れ、部下(食客)500人と共に海上の島へ逃げた。高祖劉邦は、田横らが斉において影響力を持っているため乱の元になるのを憂慮し、使者を出して罪を許すことを約束し「田横よ、こちらへ来い。お前は王に立てよう。部下は列侯にしよう。しかし、来なければ兵を出して誅殺する」と告げた。また、劉邦は兄を殺された恨みのある酈商に対して、田横に手を出そうとしたら処刑すると命じ、これも田横に伝えた。

断りきれなくなった田横は、食客二人と共に劉邦の元へ向かった。劉邦のいる洛陽まで30里ばかりとなった時、田横は「漢王と自分は共に王であったのに、彼に仕えるというのは大変恥ずかしい。またいくら天子の命令があるとはいえ、煮殺した相手の弟と肩を並べるというのは恥じ入らずにはいられない。私はそれに耐えられないだろう。そもそも漢王が自分を招くのは、私の顔を一度見ておこうということに過ぎない。いま自分の首を斬っても、ここからなら洛陽まで容貌がわからなくなるほど腐敗することはないだろうから、私の顔を見せるには十分だろう」と言い、自殺した。

田横の食客は田横の首を劉邦に奉じた。劉邦は「ああ、布衣の身から兄弟三人が王となるというのは、賢者に違いない」と言って彼のために涙を流し、食客二人を都尉に任命して田横を王の礼で葬った。客二人は彼の墓のそばで自殺した。劉邦はそれを聞いて驚き、彼の食客も皆賢者であると思い、島に残る500人を召し出した。しかし彼らは田横が死んだことを知ると全員自殺した。

その他

  • 後年、劉備曹操に敗れ孫権に援軍を求めるために諸葛亮を派遣した際に、諸葛亮は田横の最期を例に挙げて答えている。孫権が言った、「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」。諸葛亮は答えた、「田横は斉の壮士にすぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州は漢王室の後裔であります。(中略)どうして曹操の下につくことなどできましょうか」。
  • 258年諸葛誕が当時実質的にを支配していた司馬氏に対し反乱を起こして敗死した時、その手勢数百は、降伏を拒絶し「諸葛公のため」と従容として死んでいった。このことも田横とその食客に引き比べられた。

参考文献

田横を題材にした小説