コンテンツにスキップ

「王聡児」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
'''王 聡児'''(おう そうじ、''Wan Conger''、[[1777年]] ‐ [[1798年]])は、[[清]]代の[[白蓮教徒の乱]]の指導者。
'''王 聡児'''(おう そうじ、''Wan Conger''、[[1777年]] ‐ [[1798年]])は、[[清]]代の[[白蓮教徒の乱]]の指導者。


[[湖北省]][[襄州区|襄陽県]]の[[白蓮教]]教主[[斉林]]の妻、斉王氏ともいう。武芸に優れ、大道芸で生計を立てていた。夫の斉林が[[1796年]]の[[小正月]]の蜂起に失敗して捕えられて斬首されると、王聡児と斉林の弟子の[[姚之富]]は3月15日(辰年辰月辰日)に湖北省にて五万の白蓮教徒を率いて蜂起し、[[河南省]]に攻め入った。翌年、[[四川省]]の信徒と合流するため四川入りしたが、[[四川総督]]の[[明亮]]に四川北部で包囲され、かろうじて脱出した。その後、王聡児は2万の信者を率いて[[西安市|西安]]を攻撃したが、敗れて湖北に戻った。[[1798年]]、追い詰められた王聡児は[[ウン西県|鄖西県]]茅山にて姚之富とともに自害した。蜂起は[[1804年]]になって鎮圧された。
[[湖北省]][[襄州区|襄陽県]]の[[白蓮教]]教主[[斉林]]の妻、斉王氏ともいう。武芸に優れ、大道芸で生計を立てていた。夫の斉林が[[1796年]]の[[小正月]]の蜂起に失敗して捕えられて斬首されると、王聡児と斉林の弟子の[[姚之富]]は3月15日(辰年辰月辰日)に湖北省にて五万の白蓮教徒を率いて蜂起し、[[河南省]]に攻め入った。翌年、[[四川省]]の信徒と合流するため四川入りしたが、[[四川総督]]の[[明亮]]に四川北部で包囲され、かろうじて脱出した。その後、王聡児は2万の信者を率いて[[西安市|西安]]を攻撃したが、敗れて湖北に戻った。[[1798年]]、追い詰められた王聡児は[[鄖西県]]茅山にて姚之富とともに自害した。蜂起は[[1804年]]になって鎮圧された。


{{Chinese-history-stub}}
{{Chinese-history-stub}}

2020年8月17日 (月) 03:39時点における版

王 聡児(おう そうじ、Wan Conger1777年1798年)は、代の白蓮教徒の乱の指導者。

湖北省襄陽県白蓮教教主斉林の妻、斉王氏ともいう。武芸に優れ、大道芸で生計を立てていた。夫の斉林が1796年小正月の蜂起に失敗して捕えられて斬首されると、王聡児と斉林の弟子の姚之富は3月15日(辰年辰月辰日)に湖北省にて五万の白蓮教徒を率いて蜂起し、河南省に攻め入った。翌年、四川省の信徒と合流するため四川入りしたが、四川総督明亮に四川北部で包囲され、かろうじて脱出した。その後、王聡児は2万の信者を率いて西安を攻撃したが、敗れて湖北に戻った。1798年、追い詰められた王聡児は鄖西県茅山にて姚之富とともに自害した。蜂起は1804年になって鎮圧された。