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豆盧寧は身長が8尺、容姿が美しく、騎射を得意とした。北魏の[[永安 (北魏)|永安]]年間、別将として[[爾朱天光]]の下で[[関中]]に入り、都督を加えられた。[[万俟醜奴]]を撃破した功績により、霊寿県男の爵位を受けた。[[532年]]、爾朱天光が敗死すると、[[侯莫陳悦]]に従った。[[534年]]、侯莫陳悦が[[賀抜岳]]を殺害し、[[宇文泰]]が侯莫陳悦を討つと、豆盧寧は[[李弼]]とともに宇文泰に帰順した。
豆盧寧は身長が8尺、容姿が美しく、騎射を得意とした。北魏の[[永安 (北魏)|永安]]年間、別将として[[爾朱天光]]の下で[[関中]]に入り、都督を加えられた。[[万俟醜奴]]を撃破した功績により、霊寿県男の爵位を受けた。[[532年]]、爾朱天光が敗死すると、[[侯莫陳悦]]に従った。[[534年]]、侯莫陳悦が[[賀抜岳]]を殺害し、[[宇文泰]]が侯莫陳悦を討つと、豆盧寧は[[李弼]]とともに宇文泰に帰順した。


[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が関中に入ると、奉迎の功により、豆盧寧は河陽県伯に封ぜられた。[[535年]]、[[前将軍]]に任ぜられ、爵位は侯に進んだ。顕州刺史・顕州大中正に転じた。まもなく撫軍将軍・銀青光禄大夫に任ぜられ、爵位は公に進んだ。鎮東将軍・金紫光禄大夫に任ぜられた。[[537年]]、宇文泰の下で[[竇泰]]を捕らえ、弘農を奪い、沙苑で[[東魏]]軍を破った、武衛大将軍に任ぜられ、大都督を兼ねた。まもなく車騎大将軍・儀同三司に進んだ。北華州刺史に任ぜられ、州治において清廉公平で知られた。散騎常侍を加えられた。[[541年]]、[[于謹]]の下で[[稽胡]]の劉平伏を上郡で破った。梁仚定が乱を起こすと、豆盧寧は軍司となり、隴右の軍事を監督して乱の鎮圧にあたった。乱が平定されると、[[侍中]]・使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。[[543年]]、宇文泰の下で[[高慎|高仲密]]を迎え、東魏の軍と[[ボウ山の戦い|邙山]]で戦い、左衛将軍に転じ、范陽郡公に進んだ。[[550年]]、[[大将軍]]に任ぜられた。[[羌|羌族]]の傍乞鉄怱と鄭五醜らが叛くと、豆盧寧は乱の鎮圧にあたった。[[555年]]、武陽郡公に改封され、尚書右僕射に転じた。[[梁 (南朝)|梁]]の[[王琳 (軍人)|王琳]]が部将の侯方児・潘純陀らを派遣して[[江陵県|江陵]]を攻撃すると、豆盧寧は[[蔡祐]]・鄭永らとともにこれを討ち、侯方児らは敗走した。[[556年]]、武興の[[氐|氐族]]が呼応して叛くと、豆盧寧は乱を討って平定した。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、豆盧寧は柱国大将軍に任ぜられた。[[559年]]、同州刺史として出向した。また諸軍を率いて稽胡の郝阿保・劉桑徳らを討ち、これを破った。凱旋すると、大司寇に転じ、楚国公に進んだ。[[564年]]、岐州刺史に任ぜられた。[[北斉]]に対する攻撃に従軍したが、病のため輿に乗っていた。[[565年]]、同州で死去した。[[太保]]・同敷等十州諸軍事・同州刺史の位を追贈された。[[諡]]は昭といった。弟の豆盧永恩の子の[[豆盧勣]]が後を嗣いだ。
[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が関中に入ると、奉迎の功により、豆盧寧は河陽県伯に封ぜられた。[[535年]]、[[前将軍]]に任ぜられ、爵位は侯に進んだ。顕州刺史・顕州大中正に転じた。まもなく撫軍将軍・銀青光禄大夫に任ぜられ、爵位は公に進んだ。鎮東将軍・金紫光禄大夫に任ぜられた。[[537年]]、宇文泰の下で[[竇泰]]を捕らえ、弘農を奪い、沙苑で[[東魏]]軍を破った、武衛大将軍に任ぜられ、大都督を兼ねた。まもなく車騎大将軍・儀同三司に進んだ。北華州刺史に任ぜられ、州治において清廉公平で知られた。散騎常侍を加えられた。[[541年]]、[[于謹]]の下で[[稽胡]]の劉平伏を上郡で破った。梁仚定が乱を起こすと、豆盧寧は軍司となり、隴右の軍事を監督して乱の鎮圧にあたった。乱が平定されると、[[侍中]]・使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。[[543年]]、宇文泰の下で[[高慎|高仲密]]を迎え、東魏の軍と[[山の戦い|邙山]]で戦い、左衛将軍に転じ、范陽郡公に進んだ。[[550年]]、[[大将軍]]に任ぜられた。[[羌|羌族]]の傍乞鉄怱と鄭五醜らが叛くと、豆盧寧は乱の鎮圧にあたった。[[555年]]、武陽郡公に改封され、尚書右僕射に転じた。[[梁 (南朝)|梁]]の[[王琳 (軍人)|王琳]]が部将の侯方児・潘純陀らを派遣して[[江陵県|江陵]]を攻撃すると、豆盧寧は[[蔡祐]]・鄭永らとともにこれを討ち、侯方児らは敗走した。[[556年]]、武興の[[氐|氐族]]が呼応して叛くと、豆盧寧は乱を討って平定した。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、豆盧寧は柱国大将軍に任ぜられた。[[559年]]、同州刺史として出向した。また諸軍を率いて稽胡の郝阿保・劉桑徳らを討ち、これを破った。凱旋すると、大司寇に転じ、楚国公に進んだ。[[564年]]、岐州刺史に任ぜられた。[[北斉]]に対する攻撃に従軍したが、病のため輿に乗っていた。[[565年]]、同州で死去した。[[太保]]・同敷等十州諸軍事・同州刺史の位を追贈された。[[諡]]は昭といった。弟の豆盧永恩の子の[[豆盧勣]]が後を嗣いだ。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月17日 (月) 05:05時点における版

豆盧 寧(とうろ ねい、500年 - 565年)は、中国西魏北周軍人は永安。本貫昌黎郡徒河県

生涯

柔玄鎮将の豆盧萇の子として生まれた。豆盧氏は慕容氏の分支で、豆盧寧の曾祖父の慕容丑(慕容精の子)とその兄の慕容勝のときに北魏に帰順して、豆盧氏の姓を受けた。豆盧とは北方の言葉で「帰義」を意味するとされる。祖父は豆盧什伐。

豆盧寧は身長が8尺、容姿が美しく、騎射を得意とした。北魏の永安年間、別将として爾朱天光の下で関中に入り、都督を加えられた。万俟醜奴を撃破した功績により、霊寿県男の爵位を受けた。532年、爾朱天光が敗死すると、侯莫陳悦に従った。534年、侯莫陳悦が賀抜岳を殺害し、宇文泰が侯莫陳悦を討つと、豆盧寧は李弼とともに宇文泰に帰順した。

孝武帝が関中に入ると、奉迎の功により、豆盧寧は河陽県伯に封ぜられた。535年前将軍に任ぜられ、爵位は侯に進んだ。顕州刺史・顕州大中正に転じた。まもなく撫軍将軍・銀青光禄大夫に任ぜられ、爵位は公に進んだ。鎮東将軍・金紫光禄大夫に任ぜられた。537年、宇文泰の下で竇泰を捕らえ、弘農を奪い、沙苑で東魏軍を破った、武衛大将軍に任ぜられ、大都督を兼ねた。まもなく車騎大将軍・儀同三司に進んだ。北華州刺史に任ぜられ、州治において清廉公平で知られた。散騎常侍を加えられた。541年于謹の下で稽胡の劉平伏を上郡で破った。梁仚定が乱を起こすと、豆盧寧は軍司となり、隴右の軍事を監督して乱の鎮圧にあたった。乱が平定されると、侍中・使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。543年、宇文泰の下で高仲密を迎え、東魏の軍と邙山で戦い、左衛将軍に転じ、范陽郡公に進んだ。550年大将軍に任ぜられた。羌族の傍乞鉄怱と鄭五醜らが叛くと、豆盧寧は乱の鎮圧にあたった。555年、武陽郡公に改封され、尚書右僕射に転じた。王琳が部将の侯方児・潘純陀らを派遣して江陵を攻撃すると、豆盧寧は蔡祐・鄭永らとともにこれを討ち、侯方児らは敗走した。556年、武興の氐族が呼応して叛くと、豆盧寧は乱を討って平定した。557年、北周の孝閔帝が即位すると、豆盧寧は柱国大将軍に任ぜられた。559年、同州刺史として出向した。また諸軍を率いて稽胡の郝阿保・劉桑徳らを討ち、これを破った。凱旋すると、大司寇に転じ、楚国公に進んだ。564年、岐州刺史に任ぜられた。北斉に対する攻撃に従軍したが、病のため輿に乗っていた。565年、同州で死去した。太保・同敷等十州諸軍事・同州刺史の位を追贈された。は昭といった。弟の豆盧永恩の子の豆盧勣が後を嗣いだ。

伝記資料