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魏承祖の子として生まれた。[[531年]]([[普泰]]元年)、奉朝請に任じられた。たびたび従軍して[[梁 (南朝)|梁]]軍と交戦した。[[532年]]([[永熙 (北魏)|永熙]]元年)、征虜将軍・中散大夫の位を受けた。[[534年]](永熙3年)、[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]が西遷し、[[東魏]]が[[鄴]]に遷都すると、魏玄は郷里の兵を集めて関南で東魏に抵抗した。[[韋祐]]の下で関口で東魏の[[高昂]]と戦った。[[537年]]([[大統]]3年)[[独孤信]]が[[洛陽]]に入ると、行台の楊琚の下で馬渚を守備した。東魏との戦いに参戦すること十数回、そのすべてで功績を挙げた。 |
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[[557年]]([[孝閔帝]]元年)、北周が建国されると、爵位は伯に進んだ。[[561年]]([[保定 (北周)|保定]]元年)、蛮谷に移鎮した。[[564年]](保定4年)、位を驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進め、閻韓に移鎮した。[[尉遅迥]]に従って洛陽を包囲した。[[566年]]([[天和 (北周)|天和]]元年)、陝州総管[[尉遅綱]]の命により、宇文能・趙幹ら500の兵を率い、鹿盧交の南で東魏の洛州刺史[[独孤永業]]を迎え撃った。独孤永業は2万人あまりを率いていたが、魏玄は5騎を率いて偵察に出たところ遭遇戦となり、数十人を殺傷して馬や武具を鹵獲した。独孤永業は撤退した。[[567年]](天和2年)、爵位は侯に進んだ。白超防主に任じられた。[[568年]](天和3年)、[[熊州 (河南省)|熊州]]刺史に転じた。[[569年]](天和4年)、[[和州]]刺史・伏流防主に転じ、爵位は公に進んだ。[[570年]](天和5年)、北斉の[[斛律光]]が大軍を率いて宜陽に来攻すると、魏玄は防戦にあたり、北斉軍の攻勢を撃退した。後に在官のまま病没した。 |
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魏 玄(ぎ げん、生没年不詳)は、西魏・北周の軍人。字は僧智。本貫は任城郡。
経歴
[編集]魏承祖の子として生まれた。531年(普泰元年)、奉朝請に任じられた。たびたび従軍して梁軍と交戦した。532年(永熙元年)、征虜将軍・中散大夫の位を受けた。534年(永熙3年)、孝武帝が西遷し、東魏が鄴に遷都すると、魏玄は郷里の兵を集めて関南で東魏に抵抗した。韋祐の下で関口で東魏の高昂と戦った。537年(大統3年)独孤信が洛陽に入ると、行台の楊琚の下で馬渚を守備した。東魏との戦いに参戦すること十数回、そのすべてで功績を挙げた。
543年(大統9年)の邙山の戦いにおいて、西魏軍は敗北し、宜陽・洛州は東魏の手に落ちた。魏玄の母と弟はそろって宜陽にあったが、魏玄は親族を捨てて関南の守備にもどった。洛陽県令に任じられ、広宗県子に封じられた。547年(大統13年)、開府の李義孫とともに伏流城を攻め落とし、また孔城を落として、李義孫とともに孔城に駐屯した。まもなく伏流に移鎮した。548年(大統14年)、帥都督・東平郡太守に任じられた。河南郡太守に転じ、大都督を加えられた。550年(大統16年)、洛安郡の民の雍方雋が郡外に拠って反乱を起こし、行台を号して郡県を攻略した。魏玄は弘農・九曲・孔城・伏流の4城の兵を率いて反乱軍を討ち、これを鎮圧した。555年(恭帝2年)、車騎大将軍・儀同三司の位を受けた。
557年(孝閔帝元年)、北周が建国されると、爵位は伯に進んだ。561年(保定元年)、蛮谷に移鎮した。564年(保定4年)、位を驃騎大将軍・開府儀同三司に進め、閻韓に移鎮した。尉遅迥に従って洛陽を包囲した。566年(天和元年)、陝州総管尉遅綱の命により、宇文能・趙幹ら500の兵を率い、鹿盧交の南で東魏の洛州刺史独孤永業を迎え撃った。独孤永業は2万人あまりを率いていたが、魏玄は5騎を率いて偵察に出たところ遭遇戦となり、数十人を殺傷して馬や武具を鹵獲した。独孤永業は撤退した。567年(天和2年)、爵位は侯に進んだ。白超防主に任じられた。568年(天和3年)、熊州刺史に転じた。569年(天和4年)、和州刺史・伏流防主に転じ、爵位は公に進んだ。570年(天和5年)、北斉の斛律光が大軍を率いて宜陽に来攻すると、魏玄は防戦にあたり、北斉軍の攻勢を撃退した。後に在官のまま病没した。