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「厙狄昌」の版間の差分

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若くして膂力があり、騎射を得意とした。18歳のとき、[[爾朱天光]]に召されて幢主となり、討夷将軍の位を加えられた。爾朱天光に従って[[関中]]を平定し、功績により寧遠将軍・奉車都尉・統軍に任じられた。爾朱天光が敗れると、[[賀抜岳]]に従い、征西将軍・金紫光禄大夫となった。[[534年]]、賀抜岳が殺害されると、厙狄昌は諸将とともに[[宇文泰]]を後継者として推した。[[侯莫陳悦]]の平定に従って、陰盤県子の爵位を受け、[[衛将軍]]・右光禄大夫の位を加えられた。
若くして膂力があり、騎射を得意とした。18歳のとき、[[爾朱天光]]に召されて幢主となり、討夷将軍の位を加えられた。爾朱天光に従って[[関中]]を平定し、功績により寧遠将軍・奉車都尉・統軍に任じられた。爾朱天光が敗れると、[[賀抜岳]]に従い、征西将軍・金紫光禄大夫となった。[[534年]]、賀抜岳が殺害されると、厙狄昌は諸将とともに[[宇文泰]]を後継者として推した。[[侯莫陳悦]]の平定に従って、陰盤県子の爵位を受け、[[衛将軍]]・右光禄大夫の位を加えられた。


宇文泰の下で[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]を迎え、[[潼関]]を奪い、長子県子に改封された。[[535年]]、爵位は公に進んだ。[[竇泰]]を討って、車騎将軍・左光禄大夫となった。また従軍して弘農を奪い、[[沙苑の戦い|沙苑]]で戦って、先頭に立って敵陣を陥れた。宇文泰に賞賛されて、帥都督に任じられた。[[538年]]、[[河橋・ボウ山の戦い|河橋の戦い]]に参加して、[[冀州]][[刺史]]となった。後に[[于謹]]とともに劉平伏を上郡で破り、[[馮翊郡|馮翊]][[太守]]に任じられた。しばらくして[[河北郡 (中国)|河北郡]]太守に転じた。[[547年]]、前後の功績により、大都督・通直散騎常侍となった。随国公[[楊忠]]の下で南方の少数民族の田社清を撃破して、厙狄昌の軍功は最も高く、[[儀同三司]]の位を受けた。まもなく[[開府儀同三司]]に進んだ。[[550年]]、[[東夏州]]刺史として出向した。[[552年]]、爵位は方城郡公に進んだ。[[556年]]、六官が建てられると、稍伯中大夫の位を受けた。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]に任じられた。後に病没した。
宇文泰の下で[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]を迎え、[[潼関]]を奪い、長子県子に改封された。[[535年]]、爵位は公に進んだ。[[竇泰]]を討って、車騎将軍・左光禄大夫となった。また従軍して弘農を奪い、[[沙苑の戦い|沙苑]]で戦って、先頭に立って敵陣を陥れた。宇文泰に賞賛されて、帥都督に任じられた。[[538年]]、[[河橋・山の戦い|河橋の戦い]]に参加して、[[冀州]][[刺史]]となった。後に[[于謹]]とともに劉平伏を上郡で破り、[[馮翊郡|馮翊]][[太守]]に任じられた。しばらくして[[河北郡 (中国)|河北郡]]太守に転じた。[[547年]]、前後の功績により、大都督・通直散騎常侍となった。随国公[[楊忠]]の下で南方の少数民族の田社清を撃破して、厙狄昌の軍功は最も高く、[[儀同三司]]の位を受けた。まもなく[[開府儀同三司]]に進んだ。[[550年]]、[[東夏州]]刺史として出向した。[[552年]]、爵位は方城郡公に進んだ。[[556年]]、六官が建てられると、稍伯中大夫の位を受けた。[[557年]]、北周の[[孝閔帝]]が即位すると、[[大将軍]]に任じられた。後に病没した。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月17日 (月) 05:09時点における版

厙狄 昌(しゃてき しょう、生没年不詳)は、中国北魏末から北周にかけての軍人は恃徳。本貫神武郡

経歴

若くして膂力があり、騎射を得意とした。18歳のとき、爾朱天光に召されて幢主となり、討夷将軍の位を加えられた。爾朱天光に従って関中を平定し、功績により寧遠将軍・奉車都尉・統軍に任じられた。爾朱天光が敗れると、賀抜岳に従い、征西将軍・金紫光禄大夫となった。534年、賀抜岳が殺害されると、厙狄昌は諸将とともに宇文泰を後継者として推した。侯莫陳悦の平定に従って、陰盤県子の爵位を受け、衛将軍・右光禄大夫の位を加えられた。

宇文泰の下で孝武帝を迎え、潼関を奪い、長子県子に改封された。535年、爵位は公に進んだ。竇泰を討って、車騎将軍・左光禄大夫となった。また従軍して弘農を奪い、沙苑で戦って、先頭に立って敵陣を陥れた。宇文泰に賞賛されて、帥都督に任じられた。538年河橋の戦いに参加して、冀州刺史となった。後に于謹とともに劉平伏を上郡で破り、馮翊太守に任じられた。しばらくして河北郡太守に転じた。547年、前後の功績により、大都督・通直散騎常侍となった。随国公楊忠の下で南方の少数民族の田社清を撃破して、厙狄昌の軍功は最も高く、儀同三司の位を受けた。まもなく開府儀同三司に進んだ。550年東夏州刺史として出向した。552年、爵位は方城郡公に進んだ。556年、六官が建てられると、稍伯中大夫の位を受けた。557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍に任じられた。後に病没した。

伝記資料