コンテンツにスキップ

「桓公 (春秋宋)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
[[紀元前682年]]、南宮万が湣公を蒙沢で殺害し、大夫の仇牧を城門で殴殺した。さらに太宰の華父督を殺害し、[[宋子游|公子游]]を宋国の君主に立てた。禦説は亳に逃れ、ほかの公子たちは蕭に逃れた。南宮万の弟の南宮牛と猛獲は軍を率いて亳を包囲した。[[蕭叔大心]]と宋の公族たちは曹の軍を借りて南宮万を攻撃し、南宮牛を軍中で殺し、游を国都で殺害した。禦説が擁立された。猛獲は衛に逃れ、南宮万は陳に逃れたが、いずれも送還されて殺害された。
[[紀元前682年]]、南宮万が湣公を蒙沢で殺害し、大夫の仇牧を城門で殴殺した。さらに太宰の華父督を殺害し、[[宋子游|公子游]]を宋国の君主に立てた。禦説は亳に逃れ、ほかの公子たちは蕭に逃れた。南宮万の弟の南宮牛と猛獲は軍を率いて亳を包囲した。[[蕭叔大心]]と宋の公族たちは曹の軍を借りて南宮万を攻撃し、南宮牛を軍中で殺し、游を国都で殺害した。禦説が擁立された。猛獲は衛に逃れ、南宮万は陳に逃れたが、いずれも送還されて殺害された。


[[紀元前681年]]春、桓公は[[斉 (春秋)|斉]]・[[蔡]]・[[陳 (春秋)|陳]]・[[チュウ (春秋)|邾]]と北杏で会合した。[[紀元前680年]]、斉・陳・[[曹 (春秋)|曹]]が宋を攻撃した。周の単伯が諸侯の連合軍に合流すると、宋は屈服して和議を結んだ。桓公は単伯や斉・[[衛]]・[[鄭]]と鄄で会合した。[[紀元前679年]]、斉・陳・衛・鄭と鄄で会合した。斉・邾とともに郳を討つと、その隙に鄭が宋に侵攻してきた。[[紀元前678年]]、斉・衛とともに鄭を攻撃した。斉・陳・衛・鄭・[[許]]・[[滑]]・[[滕]]と幽で盟約を結んだ。
[[紀元前681年]]春、桓公は[[斉 (春秋)|斉]]・[[蔡]]・[[陳 (春秋)|陳]]・[[邾]]と北杏で会合した。[[紀元前680年]]、斉・陳・[[曹 (春秋)|曹]]が宋を攻撃した。周の単伯が諸侯の連合軍に合流すると、宋は屈服して和議を結んだ。桓公は単伯や斉・[[衛]]・[[鄭]]と鄄で会合した。[[紀元前679年]]、斉・陳・衛・鄭と鄄で会合した。斉・邾とともに郳を討つと、その隙に鄭が宋に侵攻してきた。[[紀元前678年]]、斉・衛とともに鄭を攻撃した。斉・陳・衛・鄭・[[許]]・[[滑]]・[[滕]]と幽で盟約を結んだ。


[[紀元前675年]]、[[魯]]の公子結と連携し、斉・陳とともに魯の西鄙を攻撃した。[[紀元前668年]]、斉・魯とともに徐を攻撃した。[[紀元前667年]]、斉・魯・陳・鄭と幽で盟約を結んだ。[[紀元前666年]]、[[楚 (春秋)|楚]]が鄭を攻撃したため、宋は斉・魯とともに鄭を救援した。[[紀元前662年]]、斉の[[桓公 (斉)|桓公]]と梁丘で会談した。
[[紀元前675年]]、[[魯]]の公子結と連携し、斉・陳とともに魯の西鄙を攻撃した。[[紀元前668年]]、斉・魯とともに徐を攻撃した。[[紀元前667年]]、斉・魯・陳・鄭と幽で盟約を結んだ。[[紀元前666年]]、[[楚 (春秋)|楚]]が鄭を攻撃したため、宋は斉・魯とともに鄭を救援した。[[紀元前662年]]、斉の[[桓公 (斉)|桓公]]と梁丘で会談した。

2020年8月17日 (月) 05:16時点における版

桓公(かんこう、? - 紀元前651年)は、春秋時代の君主(在位前682年 - 前651年)。姓は子、名は禦説。荘公の子。湣公の弟にあたる。

生涯

紀元前682年、南宮万が湣公を蒙沢で殺害し、大夫の仇牧を城門で殴殺した。さらに太宰の華父督を殺害し、公子游を宋国の君主に立てた。禦説は亳に逃れ、ほかの公子たちは蕭に逃れた。南宮万の弟の南宮牛と猛獲は軍を率いて亳を包囲した。蕭叔大心と宋の公族たちは曹の軍を借りて南宮万を攻撃し、南宮牛を軍中で殺し、游を国都で殺害した。禦説が擁立された。猛獲は衛に逃れ、南宮万は陳に逃れたが、いずれも送還されて殺害された。

紀元前681年春、桓公はと北杏で会合した。紀元前680年、斉・陳・が宋を攻撃した。周の単伯が諸侯の連合軍に合流すると、宋は屈服して和議を結んだ。桓公は単伯や斉・と鄄で会合した。紀元前679年、斉・陳・衛・鄭と鄄で会合した。斉・邾とともに郳を討つと、その隙に鄭が宋に侵攻してきた。紀元前678年、斉・衛とともに鄭を攻撃した。斉・陳・衛・鄭・と幽で盟約を結んだ。

紀元前675年の公子結と連携し、斉・陳とともに魯の西鄙を攻撃した。紀元前668年、斉・魯とともに徐を攻撃した。紀元前667年、斉・魯・陳・鄭と幽で盟約を結んだ。紀元前666年が鄭を攻撃したため、宋は斉・魯とともに鄭を救援した。紀元前662年、斉の桓公と梁丘で会談した。

紀元前659年、斉・魯・曹とともに邢を救援した。斉・魯・鄭・曹・邾と檉で会合した。紀元前658年、斉・江・黄と貫で盟約を結んだ。紀元前657年、斉・江・黄と陽穀で会合した。紀元前656年、斉・魯・陳・衛・鄭・許・曹とともに蔡を攻め落とし、楚に侵攻した。楚が屈服したので、召陵で盟約を結んだ。斉・魯・衛・鄭・許・曹とともに陳を攻撃した。紀元前655年、斉・魯・陳・衛・許・曹と首止で盟約を結んだ。紀元前654年、斉・魯・陳・衛・曹とともに鄭を攻撃し、楚軍に包囲された許を救援した。紀元前653年、斉・魯・陳・鄭と甯母で盟約を結んだ。紀元前652年、斉・魯・衛・鄭・許・曹・陳と洮で盟約を結んだ。

紀元前651年の春に死去した。

子女

脚注

  1. ^ 『春秋経伝集解』文公七年より。

参考文献

  • 史記』宋微子世家第八
  • 春秋左氏伝』荘公12 - 16年、19年、26 - 28年、32年、僖公元 - 9年