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「羊徽瑜」の版間の差分

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'''羊 徽瑜'''(よう きゆ、[[214年]] - [[278年]])は、[[司馬師]]の妻。[[諡]]は献。[[本貫]]は[[泰山郡]][[平邑県|南城県]]。父は[[上党郡|上党]][[太守]]の羊衜、母は蔡氏([[蔡ヨウ|蔡邕]]の娘)。同母弟は[[羊コ|羊祜]]。[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の皇后、のち[[前趙]]の皇帝[[劉曜]]の皇后となる[[羊献容]]と同族である。
'''羊 徽瑜'''(よう きゆ、[[214年]] - [[278年]])は、[[司馬師]]の妻。[[諡]]は献。[[本貫]]は[[泰山郡]][[平邑県|南城県]]。父は[[上党郡|上党]][[太守]]の羊衜、母は蔡氏([[蔡邕]]の娘)。同母弟は[[羊コ|羊祜]]。[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の皇后、のち[[前趙]]の皇帝[[劉曜]]の皇后となる[[羊献容]]と同族である。


『[[晋書]]』の伝はごく短く、それによれば、聡明で才知に富んだ女性であったという。[[司馬師]]の3度目の夫人となるが、子はなかった。甥の[[司馬炎]]が即位すると、弘訓宮に住まい弘訓太后と号した。[[咸寧 (晋)|咸寧]]4年(278年)に65歳で崩御。'''景献皇后'''と[[諡]]され、司馬師の峻平陵に合葬された。
『[[晋書]]』の伝はごく短く、それによれば、聡明で才知に富んだ女性であったという。[[司馬師]]の3度目の夫人となるが、子はなかった。甥の[[司馬炎]]が即位すると、弘訓宮に住まい弘訓太后と号した。[[咸寧 (晋)|咸寧]]4年(278年)に65歳で崩御。'''景献皇后'''と[[諡]]され、司馬師の峻平陵に合葬された。

2020年8月17日 (月) 07:37時点における版

羊 徽瑜(よう きゆ、214年 - 278年)は、司馬師の妻。は献。本貫泰山郡南城県。父は上党太守の羊衜、母は蔡氏(蔡邕の娘)。同母弟は羊祜恵帝の皇后、のち前趙の皇帝劉曜の皇后となる羊献容と同族である。

晋書』の伝はごく短く、それによれば、聡明で才知に富んだ女性であったという。司馬師の3度目の夫人となるが、子はなかった。甥の司馬炎が即位すると、弘訓宮に住まい弘訓太后と号した。咸寧4年(278年)に65歳で崩御。景献皇后され、司馬師の峻平陵に合葬された。