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「簡王 (周)」の版間の差分

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[[紀元前573年]]、晋の[[欒書]]と[[中行偃]]が主君の厲公を殺害した。[[悼公 (晋)|周子]](悼公)が留学先の成周から迎えられて晋の国君に立てられた<ref>『春秋左氏伝』成公18年</ref>。

2020年8月17日 (月) 09:47時点における版

簡王
王朝
在位期間 前586年 - 前572年
都城 王城(洛邑)
姓・諱 姫夷
生年 不詳
没年 前572年
定王

簡王(かんおう、? - 紀元前572年)は、中国春秋時代の王。姓は姫、名は夷。

生涯

周の定王の子として生まれた[1]紀元前586年11月己酉、定王が死去する[2]と、簡王は即位した[1]

紀元前580年周公楚伯輿中国語版と政権を争って敗れ、出奔した。簡王は劉子を派遣して鄄で周公と盟を交わさせ、呼び戻した。しかし3日後、周公はに亡命した。この年、晋の郤至が周と鄇の田土を争ったため、簡王は劉康公中国語版単襄公中国語版に命じて晋の厲公に訴えさせた[3]

紀元前573年、晋の欒書中行偃が主君の厲公を殺害した。周子(悼公)が留学先の成周から迎えられて晋の国君に立てられた[4]

紀元前572年9月辛酉、簡王は死去し[5]、子の姫泄心(霊王)が即位した[1]

脚注

  1. ^ a b c 史記』周本紀
  2. ^ 春秋』成公5年
  3. ^ 春秋左氏伝』成公11年
  4. ^ 『春秋左氏伝』成公18年
  5. ^ 『春秋左氏伝』襄公元年