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「成公 (魯)」の版間の差分

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'''成公'''(せいこう、生年不詳 - [[紀元前573年]])は、[[春秋時代]]の[[魯]]の[[君主]]。名は黒肱。
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[[宣公 (魯)|宣公]]と[[穆姜]]のあいだの子として生まれた。[[紀元前591年]]、宣公の後を受けて魯国の君主となった。[[紀元前590年]]、[[斉 (春秋)|斉]]の侵入に備えて丘甲の制を定めた。[[紀元前586年]]、[[晋 (春秋)|晋]]・斉・[[宋 (春秋)|宋]]・[[衛]]・[[鄭]]などの諸侯と蟲牢で同盟した。[[紀元前584年]]、晋・斉・宋・衛などの諸侯と馬陵で同盟した。[[紀元前582年]]、晋・斉・宋・衛・鄭などの諸侯と蒲で同盟した。[[紀元前579年]]、晋の[[レイ公 (晋)|厲公]]や衛の[[定公 (衛)|定公]]と瑣沢で会合し、[[楚 (春秋)|楚]]との和議を承認した。[[紀元前573年]]、成公は死去した。子の[[襄公 (魯)|姫午]]が後を嗣いだ。
[[宣公 (魯)|宣公]]と[[穆姜]]のあいだの子として生まれた。[[紀元前591年]]、宣公の後を受けて魯国の君主となった。[[紀元前590年]]、[[斉 (春秋)|斉]]の侵入に備えて丘甲の制を定めた。[[紀元前586年]]、[[晋 (春秋)|晋]]・斉・[[宋 (春秋)|宋]]・[[衛]]・[[鄭]]などの諸侯と蟲牢で同盟した。[[紀元前584年]]、晋・斉・宋・衛などの諸侯と馬陵で同盟した。[[紀元前582年]]、晋・斉・宋・衛・鄭などの諸侯と蒲で同盟した。[[紀元前579年]]、晋の[[公 (晋)|厲公]]や衛の[[定公 (衛)|定公]]と瑣沢で会合し、[[楚 (春秋)|楚]]との和議を承認した。[[紀元前573年]]、成公は死去した。子の[[襄公 (魯)|姫午]]が後を嗣いだ。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年8月17日 (月) 09:47時点における版

成公 姫黒肱
王朝
在位期間 前591年 - 前573年
都城 曲阜
姓・諱 姫黒肱
諡号 成公
没年 紀元前573年
宣公
穆姜
后妃 斉姜
定姒

成公(せいこう、生年不詳 - 紀元前573年)は、春秋時代君主。名は黒肱。

宣公穆姜のあいだの子として生まれた。紀元前591年、宣公の後を受けて魯国の君主となった。紀元前590年の侵入に備えて丘甲の制を定めた。紀元前586年・斉・などの諸侯と蟲牢で同盟した。紀元前584年、晋・斉・宋・衛などの諸侯と馬陵で同盟した。紀元前582年、晋・斉・宋・衛・鄭などの諸侯と蒲で同盟した。紀元前579年、晋の厲公や衛の定公と瑣沢で会合し、との和議を承認した。紀元前573年、成公は死去した。子の姫午が後を嗣いだ。

参考文献

  • 陸峻嶺、林幹合編、『中国歴代各族紀年表』、1982年、台北、木鐸出版社