「穆提婆」の版間の差分
6行目: | 6行目: | ||
[[565年]]、駱提婆は召されて後主に近侍し、朝に夕に側にあって、ともに馴れあい、悪ふざけを喜ぶ間柄となった。[[570年]]、儀同三司に転じ、開府を加えられた。まもなく武衛大将軍・秦州大中正に任じられた。[[571年]]、[[侍中]]となり、[[楽陵郡]]を食邑として、寵遇はますます高まった。[[尚書]]左右僕射に上り、領軍大将軍・[[録尚書事]]の位を受け、城陽郡王に封ぜられた。父の駱超に[[司徒|司徒公]]・尚書左僕射・城陽王の位が贈られ、母の陸令萱は[[穆邪利|穆昭儀]]に取り入って養女とし、このため駱提婆は穆と改姓した。陸令萱は太姫と称し、[[公主|長公主]]の上に位した。 |
[[565年]]、駱提婆は召されて後主に近侍し、朝に夕に側にあって、ともに馴れあい、悪ふざけを喜ぶ間柄となった。[[570年]]、儀同三司に転じ、開府を加えられた。まもなく武衛大将軍・秦州大中正に任じられた。[[571年]]、[[侍中]]となり、[[楽陵郡]]を食邑として、寵遇はますます高まった。[[尚書]]左右僕射に上り、領軍大将軍・[[録尚書事]]の位を受け、城陽郡王に封ぜられた。父の駱超に[[司徒|司徒公]]・尚書左僕射・城陽王の位が贈られ、母の陸令萱は[[穆邪利|穆昭儀]]に取り入って養女とし、このため駱提婆は穆と改姓した。陸令萱は太姫と称し、[[公主|長公主]]の上に位した。 |
||
[[572年]]以後、陸令萱母子は北斉の宮廷内外に権勢を振るい、売官や収賄を横行させた。[[斛律皇后]]が廃されると、太后の意向により[[胡皇后 (北斉後主)|胡昭儀]]が皇后に立てられた。しかし後主の意向は穆昭儀にあった。陸令萱は穆昭儀に皇后の御衣を着せて帳中に座らせ、「一聖女がおられます。お上もご覧なさいませ」と言って後主に引き合わせ、「この人を皇后にしなければ、何者を皇后とするのです」と述べた。このため穆氏が右皇后となり、胡氏が左皇后となった。また[[ |
[[572年]]以後、陸令萱母子は北斉の宮廷内外に権勢を振るい、売官や収賄を横行させた。[[斛律皇后]]が廃されると、太后の意向により[[胡皇后 (北斉後主)|胡昭儀]]が皇后に立てられた。しかし後主の意向は穆昭儀にあった。陸令萱は穆昭儀に皇后の御衣を着せて帳中に座らせ、「一聖女がおられます。お上もご覧なさいませ」と言って後主に引き合わせ、「この人を皇后にしなければ、何者を皇后とするのです」と述べた。このため穆氏が右皇后となり、胡氏が左皇后となった。また[[祖珽]]を宰相とし、胡長仁を殺したのも、陸令萱の力であった。 |
||
[[576年]]、晋州で北斉軍が敗れて、後主が[[鄴]]に帰還すると、穆提婆は[[北周]]に降った。陸令萱は自殺して、子孫はみな処刑され、家の財産は没収された。穆提婆は北周の[[武帝 (北周)|武帝]]の下で[[柱国]]・[[宜州]][[刺史]]となったが、宜州で起兵しようとしたと告発されて、子の穆懐廆(駱懐廆)らとともに処刑された。後主や北斉の諸王はこの事件に連座して、みな非命にたおれた。 |
[[576年]]、晋州で北斉軍が敗れて、後主が[[鄴]]に帰還すると、穆提婆は[[北周]]に降った。陸令萱は自殺して、子孫はみな処刑され、家の財産は没収された。穆提婆は北周の[[武帝 (北周)|武帝]]の下で[[柱国]]・[[宜州]][[刺史]]となったが、宜州で起兵しようとしたと告発されて、子の穆懐廆(駱懐廆)らとともに処刑された。後主や北斉の諸王はこの事件に連座して、みな非命にたおれた。 |
2020年8月17日 (月) 14:11時点における版
穆 提婆(ぼく ていば、? - 577年)は、北斉の後主の近臣。本姓は駱。本貫は漢陽郡(現在の甘粛省天水市)。
経歴
駱超と陸令萱の間の子として生まれた。父の駱超は謀反のため処刑された。母の陸令萱は北斉の後宮に入り、駱提婆は奴となった。陸令萱は後主が乳児のころから養育して、乾阿妳と称され、後主の母の胡太后と昵懇になった。陸令萱は多弁で万事にそつがなく、後宮の中で権勢を振るうようになった。
565年、駱提婆は召されて後主に近侍し、朝に夕に側にあって、ともに馴れあい、悪ふざけを喜ぶ間柄となった。570年、儀同三司に転じ、開府を加えられた。まもなく武衛大将軍・秦州大中正に任じられた。571年、侍中となり、楽陵郡を食邑として、寵遇はますます高まった。尚書左右僕射に上り、領軍大将軍・録尚書事の位を受け、城陽郡王に封ぜられた。父の駱超に司徒公・尚書左僕射・城陽王の位が贈られ、母の陸令萱は穆昭儀に取り入って養女とし、このため駱提婆は穆と改姓した。陸令萱は太姫と称し、長公主の上に位した。
572年以後、陸令萱母子は北斉の宮廷内外に権勢を振るい、売官や収賄を横行させた。斛律皇后が廃されると、太后の意向により胡昭儀が皇后に立てられた。しかし後主の意向は穆昭儀にあった。陸令萱は穆昭儀に皇后の御衣を着せて帳中に座らせ、「一聖女がおられます。お上もご覧なさいませ」と言って後主に引き合わせ、「この人を皇后にしなければ、何者を皇后とするのです」と述べた。このため穆氏が右皇后となり、胡氏が左皇后となった。また祖珽を宰相とし、胡長仁を殺したのも、陸令萱の力であった。
576年、晋州で北斉軍が敗れて、後主が鄴に帰還すると、穆提婆は北周に降った。陸令萱は自殺して、子孫はみな処刑され、家の財産は没収された。穆提婆は北周の武帝の下で柱国・宜州刺史となったが、宜州で起兵しようとしたと告発されて、子の穆懐廆(駱懐廆)らとともに処刑された。後主や北斉の諸王はこの事件に連座して、みな非命にたおれた。