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[[572年]]、武帝が宇文護を誅殺すると、宇文憲は武帝に拝謝したが、武帝はとがめず彼を大冢宰に任じた。宇文護誅殺の功績者である[[宇文直]]から讒言を受けたが、武帝から引き続き任用された。[[574年]]、爵位が公から王に上げられた。
[[572年]]、武帝が宇文護を誅殺すると、宇文憲は武帝に拝謝したが、武帝はとがめず彼を大冢宰に任じた。宇文護誅殺の功績者である[[宇文直]]から讒言を受けたが、武帝から引き続き任用された。[[574年]]、爵位が公から王に上げられた。


[[575年]]の北斉戦では、2万の軍を率いて[[黎陽]]に侵攻し、数々の城を抜くが、武帝が病気になったので退却した。翌[[576年]]、再び北斉との戦いで数万の軍勢の主帥となり、多くの活躍を見せる。[[晋陽]]に立て籠もる北斉の安徳王[[高延宗]]との戦で、武帝が安徳王の奮戦に恐れをなして退却しようとした時には、諌言して押しとどめている。北斉の滅亡後、北斉の広寧王[[高孝コウ|高孝珩]]が反乱を起こすと、[[楊堅]]と共にこれを鎮圧した。
[[575年]]の北斉戦では、2万の軍を率いて[[黎陽]]に侵攻し、数々の城を抜くが、武帝が病気になったので退却した。翌[[576年]]、再び北斉との戦いで数万の軍勢の主帥となり、多くの活躍を見せる。[[晋陽]]に立て籠もる北斉の安徳王[[高延宗]]との戦で、武帝が安徳王の奮戦に恐れをなして退却しようとした時には、諌言して押しとどめている。北斉の滅亡後、北斉の広寧王[[高孝珩]]が反乱を起こすと、[[楊堅]]と共にこれを鎮圧した。


宇文憲は用兵に巧みで謀略も多く、将士らの心をつかみ、残虐な振る舞いもなかったという。だが578年に武帝が病死し、[[宣帝 (北周)|宣帝]]が跡を継ぐと、宣帝は宇文憲の地位と人望を恐れ、即位後まもなく彼を謀反の容疑で誅殺し、宇文憲と親しかった将軍らを粛清した。享年35。[[諡]]は煬。5人の息子も誅殺された。宣帝は宇文憲の幕僚たちを呼びつけ、彼らに宇文憲の謀反を証言させようとしたが、参軍の李綱が無罪を主張して果たせなかった。
宇文憲は用兵に巧みで謀略も多く、将士らの心をつかみ、残虐な振る舞いもなかったという。だが578年に武帝が病死し、[[宣帝 (北周)|宣帝]]が跡を継ぐと、宣帝は宇文憲の地位と人望を恐れ、即位後まもなく彼を謀反の容疑で誅殺し、宇文憲と親しかった将軍らを粛清した。享年35。[[諡]]は煬。5人の息子も誅殺された。宣帝は宇文憲の幕僚たちを呼びつけ、彼らに宇文憲の謀反を証言させようとしたが、参軍の李綱が無罪を主張して果たせなかった。

2020年8月17日 (月) 14:15時点における版

宇文 憲(うぶん けん、544年 - 578年)は、北周の皇族・軍人。宇文泰の第5子で、孝閔帝明帝武帝の異母弟にあたる。毗賀突

生涯

幼くして鋭敏で度量があり、風采も人並み外れていたという。北周が建てられると驃騎大将軍・開府儀同三司となり、明帝が即位すると大将軍となった。559年、16歳で斉国公に封じられ、益州総管としての地に赴任し、当地で善政を敷いたという。

564年の冬、突厥の要請によって、尉遅迥達奚武らと共に10万の兵を率いて北斉を討ち、邙山に陣取って洛陽を攻撃する。斛律光ら率いる北斉軍に敗退するが、宇文憲は自ら兵を励まし、彼らを落ち着かせた。569年には宜陽を包囲するが、斛律光に汾北を確保され、再び敗退した。

宇文泰の死後、北周の実権を握った宇文護は宇文憲を信任し、賞罰のことすべてを預からせた。宇文護が武帝に言上したいことがある時は、まず宇文憲に言わせた。武帝が難色を示せば、宇文憲が折衷案を出してまとめていたという。

572年、武帝が宇文護を誅殺すると、宇文憲は武帝に拝謝したが、武帝はとがめず彼を大冢宰に任じた。宇文護誅殺の功績者である宇文直から讒言を受けたが、武帝から引き続き任用された。574年、爵位が公から王に上げられた。

575年の北斉戦では、2万の軍を率いて黎陽に侵攻し、数々の城を抜くが、武帝が病気になったので退却した。翌576年、再び北斉との戦いで数万の軍勢の主帥となり、多くの活躍を見せる。晋陽に立て籠もる北斉の安徳王高延宗との戦で、武帝が安徳王の奮戦に恐れをなして退却しようとした時には、諌言して押しとどめている。北斉の滅亡後、北斉の広寧王高孝珩が反乱を起こすと、楊堅と共にこれを鎮圧した。

宇文憲は用兵に巧みで謀略も多く、将士らの心をつかみ、残虐な振る舞いもなかったという。だが578年に武帝が病死し、宣帝が跡を継ぐと、宣帝は宇文憲の地位と人望を恐れ、即位後まもなく彼を謀反の容疑で誅殺し、宇文憲と親しかった将軍らを粛清した。享年35。は煬。5人の息子も誅殺された。宣帝は宇文憲の幕僚たちを呼びつけ、彼らに宇文憲の謀反を証言させようとしたが、参軍の李綱が無罪を主張して果たせなかった。

彼の死は後世においても惜しまれ、建中4年(783年)に顔真卿の上奏によって古今の名将64名を太公望の廟に配享した際の1人に選ばれている(『大唐郊祀録』巻10・釈奠武成王条)[1]

前述のように息子たちは誅殺されたが娘がおり、李綱の庇護の下、唐の時代まで生き延びた。李綱が卒した時には実父が死んだように嘆き悲しんだという(『旧唐書』・『新唐書』李綱伝)。

脚注

  1. ^ 前島佳孝『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年)P338