「大爾朱氏」の版間の差分
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爾朱栄は[[大将軍]]となって北魏の朝廷を牛耳ると、娘の爾朱氏を孝荘帝の皇后として立てた。爾朱皇后は怒りっぽい上に嫉妬深く、孝荘帝と妃嬪が一夜を共にする際にしばしば暴言を吐き、「あなたが帝位を得たのは我が父のおかげです。私に対して良くしなければ、父はあなたを廃位も出来ますよ。」と言った。孝荘帝は爾朱栄を一層憎むようになった。[[530年]]、爾朱栄が臨月に入った爾朱皇后を見舞った際、孝荘帝は爾朱栄をおびき寄せ、自ら手にかけて殺した。[[爾朱兆]]と[[爾朱世隆]]はいったん逃亡したが、長広王[[元曄]]を擁立して、[[洛陽市|洛陽]]を攻め落とすと、孝荘帝を拘束して[[太原市|晋陽]]に送り、間もなく殺害した。爾朱皇后が生んだばかりの男子も爾朱兆に殺害された。 |
爾朱栄は[[大将軍]]となって北魏の朝廷を牛耳ると、娘の爾朱氏を孝荘帝の皇后として立てた。爾朱皇后は怒りっぽい上に嫉妬深く、孝荘帝と妃嬪が一夜を共にする際にしばしば暴言を吐き、「あなたが帝位を得たのは我が父のおかげです。私に対して良くしなければ、父はあなたを廃位も出来ますよ。」と言った。孝荘帝は爾朱栄を一層憎むようになった。[[530年]]、爾朱栄が臨月に入った爾朱皇后を見舞った際、孝荘帝は爾朱栄をおびき寄せ、自ら手にかけて殺した。[[爾朱兆]]と[[爾朱世隆]]はいったん逃亡したが、長広王[[元曄]]を擁立して、[[洛陽市|洛陽]]を攻め落とすと、孝荘帝を拘束して[[太原市|晋陽]]に送り、間もなく殺害した。爾朱皇后が生んだばかりの男子も爾朱兆に殺害された。 |
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その後、爾朱氏は高歓の外室となった。[[高浟]]を生み、大爾朱氏と号した。高歓は爾朱氏には、正妻の[[婁昭君]]に対するより丁重で、会うときに必ず束帯を着けて「下官」を自称した。[[武定 (東魏)|武定]]3年(545年)、高歓が[[柔然]]の蠕蠕公主を迎えて帰ると、大爾朱氏は木井の北に迎え、蠕蠕公主と前後に列を分かれ、互いに会わなかった。蠕蠕公主が角弓を引いて[[トビ]]を仰ぎ射つと、トビは矢に当たって落ちた。大爾朱氏が長弓を引いてカラスを射ると、一発で命中した。高歓は喜んで「わたしにこの二婦人があれば、並んで賊を討つことができるだろう」と言った。高歓の生前に、大爾朱氏は出家して尼となり、彼女のために高歓は仏寺を建立した。 |
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高歓死後の[[550年]]、[[北斉]]が建てられると、高歓と爾朱氏の子の高浟は彭城王に封ぜられ、彼女もまた彭城王太妃に封ぜられた。[[556年]]、[[文宣帝]]が酒に酔って太妃に無礼を働こうとし、彼女はこれを拒んだため、文宣帝に殺害された。 |
高歓死後の[[550年]]、[[北斉]]が建てられると、高歓と爾朱氏の子の高浟は彭城王に封ぜられ、彼女もまた彭城王太妃に封ぜられた。[[556年]]、[[文宣帝]]が酒に酔って太妃に無礼を働こうとし、彼女はこれを拒んだため、文宣帝に殺害された。 |
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*元氏(孝荘帝との子、530年11月13日 - 531年1月8日<ref>十月戊申、皇子が生まれ、大赦が降った。十二月甲辰、爾朱兆は孝荘帝を捕らえ、皇子を撲殺し、孝荘帝の妃嬪らを犯した。</ref>) |
*元氏(孝荘帝との子、530年11月13日 - 531年1月8日<ref>十月戊申、皇子が生まれ、大赦が降った。十二月甲辰、爾朱兆は孝荘帝を捕らえ、皇子を撲殺し、孝荘帝の妃嬪らを犯した。</ref>) |
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*[[高浟]](高歓との子) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2020年8月17日 (月) 14:23時点における版
爾朱皇后 | |
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北魏の皇后 | |
在位 | 528年 - 531年1月6日 |
別称 | 大爾朱氏 |
配偶者 | 孝明帝 |
孝荘帝 | |
高歓 | |
子女 | 高浟 |
父親 | 爾朱栄 |
大爾朱氏(だいじしゅし、? - 556年)は、北魏の実力者爾朱栄の長女。諱は不詳で[1]、爾朱兆(従兄弟にあたる)の娘の小爾朱氏に対して、大爾朱氏と号した。本貫は秀容郡。初め孝明帝元詡の妃嬪になり、次いで孝荘帝元子攸の皇后に立てられ、孝荘帝の死後は高歓の側妻となり、晩年には北斉の彭城王太妃となった。
経歴
はじめ、爾朱氏は孝明帝の妃嬪として北魏の後宮に入った。528年、胡太后が孝明帝を殺害し、代わって元釗を皇帝に擁立すると、爾朱栄は胡太后に反発して挙兵し、長楽王元子攸(孝荘帝)を皇帝に擁立して、胡太后と元釗を殺害した。
爾朱栄は大将軍となって北魏の朝廷を牛耳ると、娘の爾朱氏を孝荘帝の皇后として立てた。爾朱皇后は怒りっぽい上に嫉妬深く、孝荘帝と妃嬪が一夜を共にする際にしばしば暴言を吐き、「あなたが帝位を得たのは我が父のおかげです。私に対して良くしなければ、父はあなたを廃位も出来ますよ。」と言った。孝荘帝は爾朱栄を一層憎むようになった。530年、爾朱栄が臨月に入った爾朱皇后を見舞った際、孝荘帝は爾朱栄をおびき寄せ、自ら手にかけて殺した。爾朱兆と爾朱世隆はいったん逃亡したが、長広王元曄を擁立して、洛陽を攻め落とすと、孝荘帝を拘束して晋陽に送り、間もなく殺害した。爾朱皇后が生んだばかりの男子も爾朱兆に殺害された。
その後、爾朱氏は高歓の外室となった。高浟を生み、大爾朱氏と号した。高歓は爾朱氏には、正妻の婁昭君に対するより丁重で、会うときに必ず束帯を着けて「下官」を自称した。武定3年(545年)、高歓が柔然の蠕蠕公主を迎えて帰ると、大爾朱氏は木井の北に迎え、蠕蠕公主と前後に列を分かれ、互いに会わなかった。蠕蠕公主が角弓を引いてトビを仰ぎ射つと、トビは矢に当たって落ちた。大爾朱氏が長弓を引いてカラスを射ると、一発で命中した。高歓は喜んで「わたしにこの二婦人があれば、並んで賊を討つことができるだろう」と言った。高歓の生前に、大爾朱氏は出家して尼となり、彼女のために高歓は仏寺を建立した。
高歓死後の550年、北斉が建てられると、高歓と爾朱氏の子の高浟は彭城王に封ぜられ、彼女もまた彭城王太妃に封ぜられた。556年、文宣帝が酒に酔って太妃に無礼を働こうとし、彼女はこれを拒んだため、文宣帝に殺害された。
男子
脚注
伝記資料
- 『北史』巻14 列伝第2 后妃下