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「王源 (清)」の版間の差分

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[[順天府]][[大興区|大興県]](現在の北京市)に生まれる。[[康熙]]年間に[[挙人]]となった。
[[順天府]][[大興区|大興県]](現在の北京市)に生まれる。[[康熙]]年間に[[挙人]]となった。


若くして任侠を重視し兵学を好んだ。[[三藩の乱]]が平定された後に[[北京]]で設けられた講会(学会)の領袖の一人となる。[[万斯同]]・[[胡渭]]・[[閻若キョ|閻若璩]]などに伍して才気縦横の論客として知られるが、[[劉献廷]]・[[李塨]]にのみ傾倒し、56歳の名士でありながら李塨の紹介で[[顔元]]に門下の礼をとる。晩年には妻子を棄て、各地の山川をめぐり[[淮上]]で死去した。
若くして任侠を重視し兵学を好んだ。[[三藩の乱]]が平定された後に[[北京]]で設けられた講会(学会)の領袖の一人となる。[[万斯同]]・[[胡渭]]・[[閻若璩]]などに伍して才気縦横の論客として知られるが、[[劉献廷]]・[[李塨]]にのみ傾倒し、56歳の名士でありながら李塨の紹介で[[顔元]]に門下の礼をとる。晩年には妻子を棄て、各地の山川をめぐり[[淮上]]で死去した。


==著書==
==著書==

2020年8月24日 (月) 08:59時点における版

王源(おうげん、1648年1710年清代中国儒学者。字は崑繩、号は

生涯

順天府大興県(現在の北京市)に生まれる。康熙年間に挙人となった。

若くして任侠を重視し兵学を好んだ。三藩の乱が平定された後に北京で設けられた講会(学会)の領袖の一人となる。万斯同胡渭閻若璩などに伍して才気縦横の論客として知られるが、劉献廷李塨にのみ傾倒し、56歳の名士でありながら李塨の紹介で顔元に門下の礼をとる。晩年には妻子を棄て、各地の山川をめぐり淮上で死去した。

著書

  • 『読易通伝』5巻
  • 『詳春秋三伝』
  • 『兵論』
  • 『平書』10巻
  • 『菴文集』

以上の著書は全て失われ、『居業堂文集』20巻のみが現存する[1]

参考文献

  • 『清史稿』巻486
  • 『国朝先正事略』巻30
  • 『大清畿輔先哲伝』巻16
  • 『清史列伝』巻66
  • 『国朝耆献類徴』巻431
  • 『碑傳集』巻139
  • 『顔李師承記』巻1
  • 『文献徴存録』巻1
  • 梁啓超『清代学術概論』

脚注

  1. ^ 梁啓超『清代学術概論』平凡社(東洋文庫225)、1974年、61p頁。