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[[定襄郡|定襄]][[太守]]となり、中央にもどって議郎となった。[[揚州 (古代)|揚州]][[刺史]]にうつった。そこで、[[豫章]]太守の王永と[[呉郡]]太守の徐参の不正を上奏した。徐参は当時権勢をふるっていた[[宦官]]の[[徐璜]]の弟であったので、威名はとどろいた。再び議郎とされ、[[御史中丞]]となった。 |
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[[延熹]]9年([[166年]])、一回目の[[党錮の禁]]に座し、赦免をうけることなく家で没した。 |
2020年8月25日 (火) 05:06時点における版
陳 翔(ちん しょう、生没年不詳)は、中国後漢の政治家。字は子麟、もしくは仲麟[1]。豫州汝南郡邵陵県の人。祖父は司隷校尉の陳珍。「八及」の一人。
事跡
陳翔は若い頃から名を知られ、交流を広げていた。孝廉となり、太尉の周景に高第に挙げられて侍御史となった。大将軍の梁冀におもねらなかったため、罪に問われた。
定襄太守となり、中央にもどって議郎となった。揚州刺史にうつった。そこで、豫章太守の王永と呉郡太守の徐参の不正を上奏した。徐参は当時権勢をふるっていた宦官の徐璜の弟であったので、威名はとどろいた。再び議郎とされ、御史中丞となった。
延熹9年(166年)、一回目の党錮の禁に座し、赦免をうけることなく家で没した。
三国志演義
字を仲麟という。劉表の七友の一人であり、「江夏八俊」の一人としてあげられる。