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「国民進軍歌」の版間の差分

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== 製作 ==
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1940年(昭和15年)、[[大阪毎日新聞]]、[[東京日日新聞]]は、国民に蹶起を呼びかける歌の懸賞公募を行った。1940年(昭和15年)6月1日から20日にかけて募集され、2万2792通<ref>[[倉田喜弘]]『日本レコード文化史』[[東京書籍]](東書選書 124)、1992年、204頁。ISBN 4-487-72224-1。</ref>の応募の中から、尼崎で鉄道員をしていた[[下泰]](本名:光元篤之介)の詞が選ばれ、同年7月1日に発表された。作曲も3926通<ref>倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、206頁。</ref>の応募の中から岡山市の学校教員[[松田洋平]]の曲が選ばれ、同年8月15日に発表された。吹き込みは、A面「国民進軍歌」[[徳山たまき|徳山璉]]、[[四家文子]]、[[柴田睦陸]]、[[中村淑子]]、B面「みんな兵士だ弾丸だ」[[楠木繁夫]]、柴田睦陸、[[由利あけみ]]によって吹き込まれた。なお、[[1942年]](昭和17年)には、同じく軍事保護院の選定で、「[[少国民進軍歌]]」(歌:[[霧島昇]])という歌が制作されている。
1940年(昭和15年)、[[大阪毎日新聞]]、[[東京日日新聞]]は、国民に蹶起を呼びかける歌の懸賞公募を行った。1940年(昭和15年)6月1日から20日にかけて募集され、2万2792通<ref>[[倉田喜弘]]『日本レコード文化史』[[東京書籍]](東書選書 124)、1992年、204頁。ISBN 4-487-72224-1。</ref>の応募の中から、尼崎で鉄道員をしていた[[下泰]](本名:光元篤之介)の詞が選ばれ、同年7月1日に発表された。作曲も3926通<ref>倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、206頁。</ref>の応募の中から岡山市の学校教員[[松田洋平]]の曲が選ばれ、同年8月15日に発表された。吹き込みは、A面「国民進軍歌」[[徳山璉]]、[[四家文子]]、[[柴田睦陸]]、[[中村淑子]]、B面「みんな兵士だ弾丸だ」[[楠木繁夫]]、柴田睦陸、[[由利あけみ]]によって吹き込まれた。なお、[[1942年]](昭和17年)には、同じく軍事保護院の選定で、「[[少国民進軍歌]]」(歌:[[霧島昇]])という歌が制作されている。


==高校野球入場行進曲==
==高校野球入場行進曲==

2020年8月25日 (火) 05:14時点における版

ジャケットレーベル
歌詞カード1
歌詞カード2

国民進軍歌(こくみんしんぐんか)は、1940年昭和15年)にビクターレコードから発売された軍歌。旧レコード番号A-4123。B面は「みんな兵士だ弾丸だ」(編曲橋本国彦)。軍事保護院陸軍省海軍省選定歌。

製作

1940年(昭和15年)、大阪毎日新聞東京日日新聞は、国民に蹶起を呼びかける歌の懸賞公募を行った。1940年(昭和15年)6月1日から20日にかけて募集され、2万2792通[1]の応募の中から、尼崎で鉄道員をしていた下泰(本名:光元篤之介)の詞が選ばれ、同年7月1日に発表された。作曲も3926通[2]の応募の中から岡山市の学校教員松田洋平の曲が選ばれ、同年8月15日に発表された。吹き込みは、A面「国民進軍歌」徳山璉四家文子柴田睦陸中村淑子、B面「みんな兵士だ弾丸だ」楠木繁夫、柴田睦陸、由利あけみによって吹き込まれた。なお、1942年(昭和17年)には、同じく軍事保護院の選定で、「少国民進軍歌」(歌:霧島昇)という歌が制作されている。

高校野球入場行進曲

この曲は翌年の選抜高等学校野球大会入場行進曲に選ばれている。 

脚注

  1. ^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍(東書選書 124)、1992年、204頁。ISBN 4-487-72224-1
  2. ^ 倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、206頁。