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「淳武微子」の版間の差分

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== 経歴 ==
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『[[日本書紀]]』の[[持統天皇]]5年([[691年]])5月21日条に、壬申の年の功の褒賞として直大参の位と[[絁]]([[あしぎぬ]])と布を与えられたとだけ見える。別に『[[新撰姓氏録]]』には不破[[勝]]の祖先が淳武止であると見え、淳武止は淳武微子と同じと思われる。[[美濃国]][[不破郡]]は大海人皇子の軍勢の集結地であったから、淳武微子は百済滅亡を機に不破に住み着き、大海人皇子の軍に加わったのではないかと推測される。
『[[日本書紀]]』の[[持統天皇]]5年([[691年]])5月21日条に、壬申の年の功の褒賞として直大参の位と[[絁]]([[絁|あしぎぬ]])と布を与えられたとだけ見える。別に『[[新撰姓氏録]]』には不破[[勝]]の祖先が淳武止であると見え、淳武止は淳武微子と同じと思われる。[[美濃国]][[不破郡]]は大海人皇子の軍勢の集結地であったから、淳武微子は百済滅亡を機に不破に住み着き、大海人皇子の軍に加わったのではないかと推測される。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月27日 (木) 23:10時点における最新版

淳武 微子(じゅんむ みし、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。淳武止(じゅんむし)とも書く。冠位は直大参。壬申の乱の功臣。

出自[編集]

百済人で子孫は不破氏(不破勝 ふはのすぐり)を称した[1]。百済第20代王毗有王の後裔とする[1]不破連も同族とする説があり[2]、これが正しければ、淳武微子も百済王族の後裔となる。

経歴[編集]

日本書紀』の持統天皇5年(691年)5月21日条に、壬申の年の功の褒賞として直大参の位とあしぎぬ)と布を与えられたとだけ見える。別に『新撰姓氏録』には不破の祖先が淳武止であると見え、淳武止は淳武微子と同じと思われる。美濃国不破郡は大海人皇子の軍勢の集結地であったから、淳武微子は百済滅亡を機に不破に住み着き、大海人皇子の軍に加わったのではないかと推測される。

脚注[編集]

  1. ^ a b 新撰姓氏録』右京諸蕃
  2. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年