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「大倭五百足」の版間の差分

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== 経歴 ==
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[[文武天皇]]元年([[697年]])[[新羅使]]を迎える使者として陸路で[[筑紫国]]に赴いた(この時の冠位は進大壱)。[[和銅]]3年([[710年]])[[正六位|正六位下]]から[[従五位|従五位下]]に叙せられる。和銅7年([[714年]])[[氏長者|氏上]]となり、神祭を司った。[[養老]]7年([[723年]])[[左京]]人の紀家が白亀を献じたがこれが瑞祥とされ、亀を出した国の[[国造]](大倭国造)として、[[あしぎぬ|絁]]10疋・[[綿]]100疋・[[布]]20端を賜与された。
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[[神亀]]3年([[726年]])従五位上に叙せられる。神亀4年([[727年]])[[聖武天皇]]の皇子・[[基王]]の誕生を祝う宴に際し、五位以上の[[位階]]を帯びる者に綿を、特に名家の嫡子で五位以上の者はさらに絁10疋を賜与されたが、高齢であることを理由に五百足は[[調淡海]]と共に、特別にこの例に加えられた。

2020年8月27日 (木) 23:11時点における版

 
大倭五百足
時代 飛鳥時代 - 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位上刑部少輔
主君 文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 大倭忌寸倭国造
父母 父:大倭竜麻呂
大和長岡
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大倭 五百足(やまと の いおたり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族忌寸。大倭竜麻呂の子とする系図がある[1]官位従五位上刑部少輔。子に大和長岡がいる。

出自

大倭氏(大倭国造家、大倭直)は海神族に属する地祇系氏族[2]神武東征の際に功のあった椎根津彦を祖とする[3]

経歴

文武天皇元年(697年新羅使を迎える使者として陸路で筑紫国に赴いた(この時の冠位は進大壱)。和銅3年(710年正六位下から従五位下に叙せられる。和銅7年(714年氏上となり、神祭を司った。養老7年(723年左京人の紀家が白亀を献じたがこれが瑞祥とされ、亀を出した国の国造(大倭国造)として、10疋・綿100疋・20端を賜与された。

神亀3年(726年)従五位上に叙せられる。神亀4年(727年聖武天皇の皇子・基王の誕生を祝う宴に際し、五位以上の位階を帯びる者に綿を、特に名家の嫡子で五位以上の者はさらに絁10疋を賜与されたが、高齢であることを理由に五百足は調淡海と共に、特別にこの例に加えられた。

没年不詳。最終官位は従五位上・刑部少輔[4]

脚注

  1. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻21
  2. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
  3. ^ 日本書紀』神武段。『新撰姓氏録』大和神別では「神知津彦命」とする。
  4. ^ 続日本紀神護景雲3年10月29日条

参考文献