「胸形赤麻呂」の版間の差分
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[[養老]]5年([[721年]])[[元正天皇]]の[[詔]]により、解工(工匠土木の技術)に優れる者として褒賞され、[[賈受君]]らとともに[[絁]]10疋・[[絹|絹糸]]10絇・[[麻織物|麻布]]20端・[[鍬]]20口を賜与されている。[[宗像氏|胸形氏]]には大陸との[[交通]]に関与したものが多く、この場合の赤麻呂も[[船|船舶]]関係の工匠であったものと見られる<ref>岩波書店『続日本紀 2』p485,補注78</ref>。なお、この時に選ばれた人物は、『[[藤氏家伝]]』下に[[神亀]]年間([[724年]] - [[729年]])の学芸の士として列挙されたものが多く、[[皇太子]]・首皇子(のちの[[聖武天皇]])の教育に資するため、[[文芸]]や[[学術]]に優れた者を選出したものと見られる<ref>岩波書店『続日本紀 2』p84脚注</ref>。 |
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[[聖武天皇|聖武朝]]の[[天平]]12年([[740年]])正月に[[外位|外]][[従五位下]]に昇叙される。次いで同年に発生した[[藤原広嗣の乱]]終結後の11月に、聖武天皇の東国[[行幸]]へ陪従していた者に対して[[叙位]]が行われた際、赤麻呂は外従五位上に昇進している。天平17年([[745年]])外[[正五位上]]に至る。 |
[[聖武天皇|聖武朝]]の[[天平]]12年([[740年]])正月に[[外位|外]][[従五位下]]に昇叙される。次いで同年に発生した[[藤原広嗣の乱]]終結後の11月に、聖武天皇の東国[[行幸]]へ陪従していた者に対して[[叙位]]が行われた際、赤麻呂は外従五位上に昇進している。天平17年([[745年]])外[[正五位上]]に至る。 |
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*[[天平]]12年([[740年]]) 正月13日:[[外位|外]][[従五位|従五位下]]。11月21日:外従五位上 |
2020年8月27日 (木) 23:13時点における版
胸形 赤麻呂(むなかた の あかまろ、生没年不詳)は、奈良時代の官人。氏は宗形とも記される。姓は朝臣。位階は外正五位上。
経歴
養老5年(721年)元正天皇の詔により、解工(工匠土木の技術)に優れる者として褒賞され、賈受君らとともに絁10疋・絹糸10絇・麻布20端・鍬20口を賜与されている。胸形氏には大陸との交通に関与したものが多く、この場合の赤麻呂も船舶関係の工匠であったものと見られる[1]。なお、この時に選ばれた人物は、『藤氏家伝』下に神亀年間(724年 - 729年)の学芸の士として列挙されたものが多く、皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)の教育に資するため、文芸や学術に優れた者を選出したものと見られる[2]。
聖武朝の天平12年(740年)正月に外従五位下に昇叙される。次いで同年に発生した藤原広嗣の乱終結後の11月に、聖武天皇の東国行幸へ陪従していた者に対して叙位が行われた際、赤麻呂は外従五位上に昇進している。天平17年(745年)外正五位上に至る。
官歴
『続日本紀』による。
- 時期不詳:正七位下
- 養老5年(721年) 正月27日:賜絁10疋・絹糸10絇・麻布20端・鍬20口
- 時期不詳:正六位上
- 天平12年(740年) 正月13日:外従五位下。11月21日:外従五位上
- 天平17年(745年) 正月7日:外正五位上