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「ダルリアダ王国」の版間の差分

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[[500年]]ごろ、ファーガス・モー・マク・エルクが二人の弟を連れて[[キンタイア半島]]に上陸。アッド川のほとりの[[ダナッド]]にダルリアダ王朝を樹立し、自ら[[ファーガス2世 (ダルリアダ王)|ファーガス2世]]として初代国王についた。Dál Riataとは[[古アイルランド語]]に由来する。Dál とは部分を意味し、RiataまたはRiadaは人名であろうと推測されている<ref name="bede1">Bede, HE, Book I, Chapter 1.</ref>。
[[500年]]ごろ、ファーガス・モー・マク・エルクが二人の弟を連れて[[キンタイア半島]]に上陸。アッド川のほとりの[[ダナッド]]にダルリアダ王朝を樹立し、自ら[[ファーガス2世 (ダルリアダ王)|ファーガス2世]]として初代国王についた。Dál Riataとは[[古アイルランド語]]に由来する。Dál とは部分を意味し、RiataまたはRiadaは人名であろうと推測されている<ref name="bede1">Bede, HE, Book I, Chapter 1.</ref>。
6世紀終わりから7世紀初頭には、現在の[[アーガイル・アンド・ビュート]]、[[:en:Lochaber|Lochaber]]、そして[[北アイルランド]]の[[アントリム]]までもほぼ包含していた<ref name="OxfordCompanion1">Oxford Companion to Scottish History p. 161 162, edited by Michael Lynch, Oxford University Press. ISBN 9780199234820.</ref>。
6世紀終わりから7世紀初頭には、現在の[[アーガイル・アンド・ビュート]]、[[:en:Lochaber|Lochaber]]、そして[[北アイルランド]]の[[アントリム]]までもほぼ包含していた<ref name="OxfordCompanion1">Oxford Companion to Scottish History p. 161 162, edited by Michael Lynch, Oxford University Press. ISBN 9780199234820.</ref>。


ダルリアダは一般的に、ユアン・キャンベルのような一部の考古学者はこの説に近年反対しているものの、アイルランドのゲール人がスコットランドに築いた植民地とみなされてきた<ref>The case against the colonial view is given fully in Ewan Campbell, "Were the Scots Irish ?" in ''Antiquity'', 75 (2001), pp. 285&ndash;292. It should be noted that Campbell's is an archaeologically based theory. Historians are divided on the question.</ref>。ダルリアダ王国は、先住民族の[[ピクト人]]の[[アルバ王国]]と激しい抗争を繰り返した。しかし、5世紀ごろよりスコットランドに入ってきた[[キリスト教]]の影響もあって、スコット人とピクト人は徐々に融和していった。アイダーン・マク・ガブラーン王([[:en:Áedán mac Gabráin|en]]、574年頃-609年頃)の時代にダルリアダ王国は最高潮に達した。伝承によれば[[846年]]、ダルリアダ王[[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス1世]]がアルバ王国との戦いに圧勝。自らアルバ王を兼ねてダルリアダ・アルバ両王国を統一したとされる。しかしこの伝承はダルリアダ側に伝わるもので、歴史学者から征服説について疑義が投げかけられている。反対に、アルバ王国がダルリアダ王国を何度か征圧したという証拠も残っている。
ダルリアダは一般的に、ユアン・キャンベルのような一部の考古学者はこの説に近年反対しているものの、アイルランドのゲール人がスコットランドに築いた植民地とみなされてきた<ref>The case against the colonial view is given fully in Ewan Campbell, "Were the Scots Irish ?" in ''Antiquity'', 75 (2001), pp. 285&ndash;292. It should be noted that Campbell's is an archaeologically based theory. Historians are divided on the question.</ref>。ダルリアダ王国は、先住民族の[[ピクト人]]の[[アルバ王国]]と激しい抗争を繰り返した。しかし、5世紀ごろよりスコットランドに入ってきた[[キリスト教]]の影響もあって、スコット人とピクト人は徐々に融和していった。アイダーン・マク・ガブラーン王([[:en:Áedán mac Gabráin|en]]、574年頃-609年頃)の時代にダルリアダ王国は最高潮に達した。伝承によれば[[846年]]、ダルリアダ王[[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス1世]]がアルバ王国との戦いに圧勝。自らアルバ王を兼ねてダルリアダ・アルバ両王国を統一したとされる。しかしこの伝承はダルリアダ側に伝わるもので、歴史学者から征服説について疑義が投げかけられている。反対に、アルバ王国がダルリアダ王国を何度か征圧したという証拠も残っている。

2020年8月30日 (日) 23:53時点における版

ダルリアダ王国の領域

ダルリアダ王国は、アイルランドから渡ってきたスコット人英語版スコットランド西部に建国した王国。王国のアイルランド側ではダル・リアタ(Dál Riata)、スコットランド側ではダルリアーダ(Dalriada)という名が用いられたが、これは単にアイルランド語の綴りであるかそうでないかという問題に過ぎない[1]

500年ごろ、ファーガス・モー・マク・エルクが二人の弟を連れてキンタイア半島に上陸。アッド川のほとりのダナッドにダルリアダ王朝を樹立し、自らファーガス2世として初代国王についた。Dál Riataとは古アイルランド語に由来する。Dál とは部分を意味し、RiataまたはRiadaは人名であろうと推測されている[2]。 6世紀終わりから7世紀初頭には、現在のアーガイル・アンド・ビュートLochaber、そして北アイルランドアントリム県までもほぼ包含していた[3]

ダルリアダは一般的に、ユアン・キャンベルのような一部の考古学者はこの説に近年反対しているものの、アイルランドのゲール人がスコットランドに築いた植民地とみなされてきた[4]。ダルリアダ王国は、先住民族のピクト人アルバ王国と激しい抗争を繰り返した。しかし、5世紀ごろよりスコットランドに入ってきたキリスト教の影響もあって、スコット人とピクト人は徐々に融和していった。アイダーン・マク・ガブラーン王(en、574年頃-609年頃)の時代にダルリアダ王国は最高潮に達した。伝承によれば846年、ダルリアダ王ケネス1世がアルバ王国との戦いに圧勝。自らアルバ王を兼ねてダルリアダ・アルバ両王国を統一したとされる。しかしこの伝承はダルリアダ側に伝わるもので、歴史学者から征服説について疑義が投げかけられている。反対に、アルバ王国がダルリアダ王国を何度か征圧したという証拠も残っている。

いずれにせよダルリアダ王国とアルバ王国が統一されたのは確認されており、その統治者がケネス1世アルバ王国と名乗られていたことも確かである。スコットランドの王朝はこれを始祖とし、現在も「スコットランド」という英語の国名はゲール語では「アルバ」(Alba)と表記されている。

脚注

  1. ^ 『アイルズ 西の島の歴史』 p.252
  2. ^ Bede, HE, Book I, Chapter 1.
  3. ^ Oxford Companion to Scottish History p. 161 162, edited by Michael Lynch, Oxford University Press. ISBN 9780199234820.
  4. ^ The case against the colonial view is given fully in Ewan Campbell, "Were the Scots Irish ?" in Antiquity, 75 (2001), pp. 285–292. It should be noted that Campbell's is an archaeologically based theory. Historians are divided on the question.