コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「クレイグ・ブリーン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
163行目: 163行目:
[[Category:アイルランドのラリードライバー]]
[[Category:アイルランドのラリードライバー]]
[[Category:世界ラリー選手権のドライバー]]
[[Category:世界ラリー選手権のドライバー]]
[[Category:キルケニー出身の人物]]
[[Category:キルケニー出身の人物]]
[[Category:1990年生]]
[[Category:1990年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:存命人物]]

2020年9月2日 (水) 12:57時点における版

クレイグ・ブリーン
2012年
2012年
基本情報
国籍 アイルランドの旗 アイルランド
生年月日 (1990-02-22) 1990年2月22日(34歳)
出身地 アイルランドの旗 アイルランドキルケニー
WRCでの経歴
活動時期 2009年 - 2012年2014年 - 現在
コ・ドライバー イギリスの旗 ギャレス・ロバーツ
アイルランドの旗 ポール・ネーグル
イギリスの旗 スコット・マーティン
所属チーム プジョーシトロエンヒュンダイ
チャンピオン回数 0
優勝回数 0
表彰台回数 2
ステージ勝利数 12
通算獲得ポイント 193
初戦 2009 ラリー・ド・ポルトガル
最終戦 2020 ラリー・スウェーデン
テンプレートを表示

クレイグ・ブリーン(Craig Breen、1990年2月22日 - )は、アイルランドキルケニー出身のラリードライバーコ・ドライバーはポール・ネーグル。

略歴

生い立ち

アイルランドキルケニーに生まれる。父レイ・ブリーンは、ラリー選手権でチャンピオンに輝いたことのあるドライバーだった。当時はレーシングカートに夢中だったこともあり、ラリーと併せてヨーロッパ選手権に出場したという。

2009年から本格的なラリーデビューを果たし、フォード・フィエスタに乗車して「フォード・フィエスタ・スポーティングトロフィー」からWRCの4戦に出場。2勝を挙げチャンピオンとなる。

2010年はアイルランド国内選手権とイギリスラリー選手権に参戦する傍ら、WRC最終戦ラリーGBにこの年から設立されたサポート選手権SWRC(スーパー2000世界ラリー選手権)にスポット出場しクラス2位に入る大健闘を見せた。

2011年はこの年から立ち上げられたWRCアカデミー(JWRC)に参戦し、設立初年度でチャンピオンを獲得。翌年からSWRCにフォード・フィエスタ S2000で本格参戦し、開幕戦モンテカルロで優勝。さらにプジョー・207 S2000でIRC(インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ)にも参戦。順調にキャリアを進んでいるなか、不幸な出来事が襲う。2012年6月16日のIRC第5戦タルガフローリオのレグ2、序盤のSSでクラッシュ。不運なことに、近くにあったガードレールが助手席側にめりこむ形でマシンはストップ。この事故によって、全幅の信頼を置いていたコ・ドライバーのギャレス・ロバーツが亡くなってしまう。この出来事によって、IRC第6戦イプルーの出場を見合わせ、一時引退も覚悟したが、同じアイルランド出身のポール・ネーグルとコンビを組みフィンランドで復帰を果たす。しかし最終日にクラッシュを喫しリタイアとなるが、その後のラリーGB、フランス、スペインで優勝しプロトンパー・ガンナー・アンダーソンとの激戦を制しチャンピオンに輝いた。この時の優勝インタビューで涙ぐみながら、亡くなった相棒ギャレス・ロバーツに勝利を捧げた。一方のWRCではスペインでトップ圏内に入り、初のドライバーズポイントを獲得した。

2013年はIRCと統合されたERC(ヨーロッパ・ラリー選手権)にプジョー・ラリー・アカデミーからプジョー・207 S2000で参戦。8戦に出場し5度の表彰台を獲得、ランキング3位となる。翌年はR5規定に沿って開発されたプジョー208T16 R5に乗車して第3戦アクロポリス・ラリーでデビューし、ブリーンはその初戦で見事デビューウィンを飾った。ここから快進撃が始まるかに見えたが、ニューマシンゆえにマシントラブルが続発し、出場した8戦中6戦リタイア、表彰台は優勝したアクロポリスを含めると3度のみとなり、ランキングでは前年と同じ3位だが獲得ポイントは昨年を下回る結果となった。一方それと並行してWRC第2戦スウェーデンと第8戦フィンランドフォード・フィエスタ RS WRCで出場し、スウェーデンでは9位で完走しWRカーデビュー戦でポイントを獲得した。

2015年はERCに加えWRC-2にも参戦。チャンピオンを狙ったERCでは3勝するも、中盤のマシントラブルでの2戦連続リタイアが響きランキング2位に終わった。WRC-2では開幕戦モンテカルロで2位、最終戦ラリーGBで3位に入りランキング7位となった。

WRカーでの参戦

2016年は前年までプジョーのオフィシャルドライバーを務めていたこともあり、シトロエンの招聘を受けサテライトチームのPHスポールからスポット参戦。第8戦フィンランドでWRカー5戦目で3位に入りWRC初表彰台を獲得。この時のインタビューで感極まる一面を見せた。この活躍もありブリーンは初年度ながらチームメイトクリス・ミークに次ぐ年間ランキング10位で終えた。

2017年、正式にシトロエンワークス・チームに昇格し初のフル参戦を果たす。新車シトロエン・C3 WRCをドライブするが、この年の最高位は5度の5位のみに留まり、一度も表彰台に立つことなく前年に続き年間ランキング10位となった。

2018年も引き続きシトロエンから参戦。第2戦スウェーデンでは自己最高位となる2位表彰台を獲得。しかしその後は低迷を強いられ、更にチームメイトのミークがシーズン途中に解雇された影響もあり年間ランキングでは前年を下回る11位となったがポイントでは僅か4ポイント上回った。しかしシーズン終了後チームのスポンサーであるアブダビが支援を打ち切ることになったため3年間在籍したシトロエンのシートを失った。

2019年、ブリーンはミークと別れたポール・ネーグルと再びコンビを組み、WRC復帰までの繋ぎとしてR5車両でアイルランド国内選手権、イタリア選手権などに参戦した。そしてその努力が実りダブルタイトルを狙うヒュンダイから助っ人として第9戦フィンランドと第12戦ラリーGBヒュンダイ・i20クーペWRCで出場。固定ナンバーはカート時代のラッキーナンバーである「42」を選んだ。フィンランドではチームオーダーで順位を譲るまではチームのエースティエリー・ヌービルを凌ぐスピードを見せ存在感をアピールした。

2020年は当初第2戦スウェーデンに出場予定だったセバスチャン・ローブが急遽出場をキャンセルしたためこのラリーで表彰台経験のあるブリーンが抜擢された。期待されたが雪不足の影響により7位に終わる。

人物

  • 前述でも分かるように、感情豊かな人物である。
  • 北欧のラリーに強く、ペースを崩していなければ表彰台に立てる存在だった。
  • 年間を通して何故かメキシコ戦を欠場しており、2018年にはローブにマシンを譲る面があった[1]

WRCでの年度別成績

所属チーム ランキング 獲得ポイント 最高位・回数 表彰台回数
2009年 プライベート参戦 NC 0 25位 0回
2010年 カストロール・フォードチーム
バルワ・ラリーチーム
NC 0 12位・1回 0回
2011年 PS Engineering NC 0 15位・2回 0回
2012年 スポット参戦 17位 8 6位・1回 0回
2014年 スポット参戦 25位 2 9位・1回 0回
2015年 サンテロック・レーシング NC 0 13位・2回 0回
2016年 アブダビ・トタルWRT 10位 36 3位・1回 1回
2017年 シトロエン・トタル・アブダビWRT 10位 64 5位・6回 0回
2018年 11位 67 2位・1回 1回
2019年 ヒュンダイ・シェルモービスWRT 14位 10 7位・1回 0回
2020年 10位* 6* 7位・1回* 0回

* シーズン進行中

脚注

出典

外部リンク