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汨羅の名称は[[紀元前690年|前690年]]、[[楚 (春秋)|楚]]が[[羅子国]]を滅ぼしたことに由来する。羅子国の遺民は丹陽(現在の[[湖北省]][[秭帰県]])に移民させられ、後に[[汨羅江]]尾閭南岸(現在の汨羅市河市鎮)に移住させられたことから、その地名を'''羅城'''と称したことに由来する。当時の羅城は現在の汨羅市・湘陰県・平江県全域及び[[岳陽県]]南部、[[沅江市]]東部に相当した。 |
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[[紀元前221年|前221年]]、[[秦|秦朝]]はこの地に[[羅県]]を設置した。[[後漢]]になると[[熹平]]年間(172年-178年)、羅県東部に漢昌県を設置した。[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]になると[[474年]]に羅県・[[益陽県]]・[[湘西県]]の一部に[[湘陰県]]が設置され、市域は羅県と湘陰県の管轄地とされた。[[梁 (南朝)|南朝梁]]の時代になると羅県南部に[[湘陰県|湘浜県]]、東部に[[岳陽県]]が、北部に玉山県が設置され、市域は羅県・湘陰県・湘浜県・玉山県・岳陽県に分割された。 |
2020年9月3日 (木) 11:02時点における版
中華人民共和国 湖南省 汨羅市 | |
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屈子祠 | |
簡体字 | 汨罗 |
繁体字 | 汨羅 |
拼音 | Mìluó |
カタカナ転写 | ミールオ |
国家 | 中華人民共和国 |
省 | 湖南 |
地級市 | 岳陽市 |
行政級別 | 県級市 |
面積 | |
総面積 | 1,561.95 km² |
人口 | |
総人口(2003) | 70 万人 |
経済 | |
電話番号 | 0730 |
郵便番号 | 414400 |
ナンバープレート | 湘F |
行政区画代碼 | 430681 |
公式ウェブサイト: http://www.miluo.gov.cn/ |
汨羅市(べきら-し)は中華人民共和国湖南省岳陽市に位置する県級市。市域内で、汨水(べきすい)と羅水が合流し汨羅江となっている。汨羅江は屈原の最後の地でもある。
歴史
汨羅の名称は前690年、楚が羅子国を滅ぼしたことに由来する。羅子国の遺民は丹陽(現在の湖北省秭帰県)に移民させられ、後に汨羅江尾閭南岸(現在の汨羅市河市鎮)に移住させられたことから、その地名を羅城と称したことに由来する。当時の羅城は現在の汨羅市・湘陰県・平江県全域及び岳陽県南部、沅江市東部に相当した。
前221年、秦朝はこの地に羅県を設置した。後漢になると熹平年間(172年-178年)、羅県東部に漢昌県を設置した。南北朝時代になると474年に羅県・益陽県・湘西県の一部に湘陰県が設置され、市域は羅県と湘陰県の管轄地とされた。南朝梁の時代になると羅県南部に湘浜県、東部に岳陽県が、北部に玉山県が設置され、市域は羅県・湘陰県・湘浜県・玉山県・岳陽県に分割された。
589年(開皇9年)、隋朝は呉昌県及び湘浜県を羅県に編入、市域は羅県、玉山県、岳陽県の管轄とされた。591年(開皇11年)、岳陽県は湘陰県と改称され玉山県を併合し、中華民国時代まで沿襲された。
1966年2月、人口増加を理由に湘陰県東部に汨羅県を新設、1987年9月には県級市に昇格し現在に至る。
行政区画
- 鎮:汨羅鎮、新市鎮、古培鎮、白水鎮、川山坪鎮、弼時鎮、長楽鎮、大荊鎮、桃林寺鎮、三江鎮、屈子祠鎮、帰義鎮、神鼎山鎮、羅江鎮、白塘鎮
- 屈原管理区
- 街道:天問街道
- 鎮:営田鎮、河市鎮
- 郷:鳳凰郷